イランイラク戦争とは?なぜ勃発した?原因や影響、日本との関係についても紹介

イランイラク戦争の経過

イランイラクの地図

1980年9月22日 イランイラク戦争開戦

1980年9月22日のイラン首都テヘラン

1980年9月22日、イラク軍がイラン軍を奇襲し、戦争が始まりました。

奇襲により、イラン軍の基地施設の破壊に成功しましたが、肝心の戦闘機の破壊にイラクは失敗。翌日、イラクは両国の644kmに渡る国境線を超えて、三方向から地上軍を攻めました。

準備万端で攻め入ったイラク軍の攻撃は、革命で混乱していたイラン軍の弱点をつく形となります。しかしイラン軍も負けておらず、イラク軍が破壊に失敗した戦闘機を使って制空権を握り、イラクの石油施設や首都を攻撃しました。

一方各国では、イランの革命が世界中に広がることを恐れ、戦争に介入しようと米国や欧州、ソ連、中国などがイラクを支援しました。領地の広さで劣るイラクは、当時世界第二位の石油輸出国だったことを利用して、石油がないと困る大国を味方につけたのです。

対してイランは、大国が経済制裁を発動させたため、物資や兵器の補給がままならなくなります。さらに革命の混乱があり、物資や兵器の差を人でなんとかするほかありませんでした。そのため、イラン側では大量の犠牲者が出てしまいました。

1981〜1982年 形勢逆転イラン優勢に

イラン空軍

圧倒的な国力の差から、早期決着すると思われたイランイラク戦争ですが、予想に反してイラン国民の士気は高く、戦争は長引きました。劣勢にも関わらず、イランでは20万人の義勇兵が前線に加わったのです。

対してイラクは軍部と政党の間で意見が食い違い、戦線は1981年5月に膠着しました。さらにイラクにとって都合の悪いことに、裏では各国がそれぞれの思惑を持って、イランを支援し始めていたのです。

米国は、イラン革命で起こったアメリカ大使館占拠事件の人質を解放するための取引で、武器屋資金を援助し、イランともともと仲が良かったイスラエルは、イラクと敵対していたため、イランに武器を援助していました。

さらにイランと似た思想を持つシリアやリビアと行った国々も援助に加わりました。また、イランと同じくアメリカに良い感情を持っていなかった北朝鮮もイランを援助し、イラクはますます苦しい戦いを強いられることとなります。

1981年6月には、イスラエル空軍がイラク領の原子力発電所を爆破します。これにより、イラクはイスラエル方面の警戒もしなければならなくなりました。

1982年4月になると、シリア経由の輸出ルートが止められてしまい、イラクは石油の輸出ができなくなってしまいました。これは石油輸出で資金を得ていたイラクにとって痛手です。

この頃になると、膠着していた戦況はイランに傾きました。勢いに乗ったイランは5月24日にホラムシャハル港を奪還し、イラク兵3万人を捕虜にします。6月には領土のほぼ全域を奪還し、イランは侵略される側から、侵略する側になりました。

イラク国内へと攻め入ってくるイラン。このままではイランが勝つかもしれない、と不安になったイラクは休戦を持ちかけます。しかし、形勢逆転し、フセイン体制打倒にこだわっていたイランは休戦を拒絶し、戦争は終わりませんでした。

1984年 イラクが化学兵器を使用

イラクの化学兵器使用はこの年だけでなく、
停戦するまでたびたび投下された。

レバノン内戦、フォークランド戦争、グレナダ侵攻など世界各地で争いが起こり、一時的に世界の目が、イランイラク戦争から離れました。1984年2月にはレバノンの自爆テロの報復に、シリア軍へ艦砲射撃したアメリカ軍が撤退しました。

アメリカ軍が撤退すると、沈静化していたイランイラク間の戦闘が再び始まります。1984年3月に、イランの人海戦術に苦しんでいたイラクは化学兵器(タブン神経ガス)を使用します。化学兵器は3週間で48回も投下され、2700人のイラン将兵を死傷させました。

イラク側の反撃成功に貢献した化学兵器ですが、第一次世界大戦で使われ凄惨な光景を生み出して以来、使用を禁止されていたため世界各国から非難されます。

1986年〜1988年 アメリカの介入。停戦へ

クウェートのタンカーを護衛するアメリカ海軍

1986年、両国は決め手がないまま激しい戦いが続きました。イランはイラク内の反政府組織に協力して内乱を起こさせたり、南部戦線への大攻勢を仕掛けたりと攻め入ります。

結果は思わしくなく、イラク軍に損害は与えたものの、ためらいなく化学兵器を使う姿にイラン軍の士気は下がってしまいます。

1987年5月、イラクの戦闘機が発射したミサイルがカタール沖を航行していたアメリカの船を沈める、という事件が起きました。攻撃はイラク側としても不測の事態でした。すぐさまアメリカ大統領に謝罪を入れ、ことなきを得ました。

しかし、この事件にショックを受けたアメリカ大統領は本格的に戦争への介入を決意します。ペルシア湾航行の安全を確保するためにアメリカは軍備を整えました。

また、イランイラクからの攻撃を防ぐために、アメリカはクウェートのタンカー(液体を運ぶ船)に星条旗を掲げさせて、護衛をつけました。

アメリカの一連の動きは石油輸出の要衝であるペルシア湾の緊張を高め、世界各国に「戦争を早く終わらせなければまずい」という認識を与えます。

これらの動きにより、1987年7月に国連が両国に停戦を呼びかけます。イラクは呼びかけに従う動きを見せたのですが、イランはこれを無視。ペルシア湾に大量の機雷を浮かべて、イラク軍へ攻撃を仕掛けます。

当然イラク軍は報復するのですが、そこからは攻撃の応酬が続き激化します。最終的にアメリカにも被害はおよび、イランは報復を受けて2つの油田を攻撃されました。この事件は歴史上最大の株価暴落を引き起こします。

最終的にイラクはペルシア湾のイラン原油積み出し港のカーグ島を空爆し、石油危機を恐れた国連が再び停戦朝廷に乗り出します。イランは国内に広がる厭戦ムードや戦況の不利を鑑みて停戦に同意。1988年にイランイラク戦争は、両者の痛み分けで終結しました。

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