「藤原不比等ってどんな人だっけ?」
「藤原不比等は教科書で習ったけど、何をした人か覚えてないや。」
「藤原の名前の人多すぎて、覚えにくいな。」
藤原不比等というとこんなイメージではないでしょうか。父の「藤原鎌足」の存在感が強くて少し陰に隠れがちなイメージがあります。
そんな藤原不比等ですが実はなかなかの苦労人で、後ろ盾もないまま自らの努力で道を切り開いていったパワフルな人だったのです。学者肌で出来るだけ目立たず人に、妬まれたりしないように非常に気を配っている人だったといいます。
そんな目立たず陰に徹した政治家、藤原不比等の人生を、里中満智子さんの「天上の虹」の影響で飛鳥時代・奈良時代のマニアである筆者が彼の人生に迫っていけたらと思います。
藤原不比等とはどんな人物か
名前 | 藤原不比等 |
---|---|
誕生日 | 659年 |
没日 | 720年9月9日 |
生地 | 大和(奈良県) |
没地 | 大和(奈良県) |
配偶者 | 蘇我娼子、五百重娘、賀茂比売、 県犬養三千代 |
子 | 武麻呂、房前、宇合、麻呂、宮子、 長娥子、多比能 |
埋葬場所 | 不明 |
藤原不比等の生涯をハイライト
659年に藤原鎌足の次男として、大和国で生まれました。667年に近江京に遷都したため、父に付いて近江(滋賀県)で過ごしたと見られています。11歳の時に、父鎌足を失くたため大きな後ろ盾もなく、14歳の時に673年に大舎人という下級役人になったといいます。「藤原史」という名前の記述が見られます。
天武天皇時代の後期に、従兄弟の中臣大島とともに草壁皇子に仕えたといわれています。そして、持統天皇の時代になると、重用されるようになり「飛鳥浄御原令」の編集に携わったと言われています。
40代前後に文武天皇を即位に尽力した功績もあり、697年に「大宝律令」の編集の中心的人物となりました。そして娘の宮子を文武天皇の夫人にすることに成功し、後に宮子が産んだ子が聖武天皇として即位します。これにより藤原氏は遂に天皇の外戚になるのです。そしてもう一人の娘である光明子は、藤原不比等の死後ですが、皇族以外で初めて皇后になりました。
また息子も多く恵まれ、後に「藤原4兄弟」と言われた兄弟も活躍しはじめていました。藤原氏の黄金時代を築く礎を築いたのです。そんな中720年に、藤原不比等は手がけていた養老律令施行前に薨去しました。享年63歳でした。
草壁皇子に仕え、持統天皇に抜擢される
藤原不比等は父の藤原鎌足が天智天皇の元で活躍していた関係で、天武朝の時には下級役人でくすぶっていました。しかし天武朝の後期に、皇太子草壁皇子に仕えることに成功したのです。そして天武天皇が崩御し持統天皇の時代になると、「飛鳥浄御原令」編集で名前が出てくるようになります。父の藤原鎌足と同じように、異例の出世を遂げたのです。
元々中臣家は神事の祭祀を司る下級貴族でしたが、中臣鎌足一代で大出世をした一族でした。その中臣鎌足も、藤原不比等が13歳の時に他界してしまいます。そして一族が天智天皇の時代に近江朝で活躍していた関係もあり、天武朝の時に一族の要人が処罰されていました。その為に藤原不比等は、決して恵まれたスタートとは言えなかったのです。
藤原不比等に関連する人物
藤原不比等に関連する人物で、特に影響のあった人物を上げていきたいと思います。主だった人物が以下になります。
藤原(中臣)鎌足
藤原不比等の父である、飛鳥時代の政治家です。天智天皇に仕えました。下級貴族だった中臣氏から持ち前の頭脳と行動力で、最終的には最上位の「大織冠」と呼ばれる冠位を得て、異例の出世を成し遂げました。藤原不比等が13歳の時に亡くなっています。
天智天皇
藤原不比等の父、藤原鎌足が仕えた第38代天皇です。父鎌足と共に、大化の改新を主導しました。実は藤原不比等が、天智天皇の御落胤だったという伝説があります。そのことは後述で詳しく説明致します。
草壁皇子
天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子です。皇太子に任命されていました。藤原不比等は、従兄弟の中臣大嶋と共に草壁皇子に仕えたと言われています。東大寺正倉院の宝物として「国家珍宝帳」に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀であると伝えられています。
持統天皇
第41代天皇であり、藤原不比等が仕えた草壁皇子の母です。草壁皇子に仕えていた縁から藤原不比等を厚遇し、「大宝律令」の編集を任せたりして藤原不比等を重用したといいます。そして藤原不比等が持統天皇の孫にあたる文武天皇即位に貢献したため、より持統天皇は藤原不比等を信頼したといわれています。
藤原光明子
藤原不比等の娘で、聖武天皇の皇后です。日本で初めて皇族以外で皇后になりました。そして藤原氏の摂関政治の基礎を築くことになりました。
藤原宮子
藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人となりました。藤原不比等は、文武天皇を天皇に擁立することに貢献したために、娘の「宮子」を夫人にすることができたのです。後に宮子が皇子を産み、その子が聖武天皇として即位することになりました。これにより藤原不比等は天皇の祖父となったのです。
「太政官」に就くことができる「藤原氏」の祖になる
698年には藤原不比等の子孫のみが「藤原氏」を名乗ることができ、「太政官」になることができる家系であるとされました。「藤原」という名字は父藤原鎌足が天智天皇に賜った名前ですが、藤原不比等の従兄弟たちは従来通り中臣姓を名乗って、神事祭祀を司っていたといいます。
これにより藤原氏の役割が明確になったため、藤原不比等が実質の「藤原家の始祖」と言われています。
藤原不比等の功績
功績1「大宝律令を編集したこと」
藤原不比等は大宝律令の編集に多大な貢献を残しました。大宝律令は、701年に制定された日本の律令であり、「律」6巻・「令」11巻の全17巻であり、唐の律令を参考にしたと考えられています。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令だったのです。
藤原不比等は大宝律令の編集者の一人として参加し、天武天皇の皇子・刑部皇子の元で編集に取り組んだといいます。大宝律令は唐での制度を日本に馴染むようにアレンジされたものであり、取り入れるためには唐の政治に対して広範な知識を求められるものでした。
漢学を勉強していたという
これには藤原不比等の漢学の豊富な知識が役立ったと言われています。父の藤原鎌足は日本の外交責任者であったため、当時外交使節として活躍していていた史(フミヒト:書記官)の持っていた漢文や儒教・仏教の知識を息子に得させて次男の不比等を「史」として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図があったと言われています。実際に現在は「不比等」と当て字しますが、存命中は「藤原史」と字を当てていたようです。
功績2「娘の光明子が皇族以外で初の皇后になったこと」
藤原不比等の功績の一つに、皇族との婚姻に力を入れたことがあげられます。草壁皇子の妃、阿閉皇女の女官で軽皇子(文武天皇)の乳母だった県犬養三千代と婚姻した縁で皇室との関係を深め、二人の間に生まれた光明子を日本で初めて皇族以外の皇后にすることに成功しています。
光明子が皇后になった時には藤原不比等は没していましたが、藤原不比等が婚姻で皇族との人脈を作っていたことが結果的に藤原氏がより皇族との関係を深め、以後藤原氏から皇后を出す流れが出来たといえるのではないでしょうか。
功績3「藤原氏繁栄の基礎を築いたこと」
藤原不比等の凄いところは、「婚姻」を利用してのし上がっていったことがあげられます。女性の力を借りて、自身をスキルアップさせていったのです。まず藤原不比等の妻に県犬養三千代という、文武天皇の乳母をしていた女性がいました。藤原不比等の出世が早まったのは、県犬養三千代と結婚してからといいます。
そして妻の県犬養三千代の縁を使い、自身の娘「宮子」を文武天皇の夫人にすることに成功しています。後に皇子を産み、「聖武天皇」として即位しました。その聖武天皇の皇后が娘の「光明子」であり、天皇家と婚姻をし外戚として権力を手に入れる「摂関政治」に続くものとなったのです。
藤原不比等の名言
漢詩を得意とする藤原不比等の作品が伝わっています。漢詩を作ることは、今で例えると英語で詩を作るようなものであり、藤原不比等の学識の高さを示すものとなっています。以下五言絶句です。
雲衣兩觀夕 月鏡一逢秋 機下非曾故 援息是威猷 鳳蓋隨風轉 鵲影逐波浮 面前開短樂 別後悲長愁
読み下し文は、「雲衣 兩たび夕を觀し 月鏡 一たび秋に逢ふ 機を下るは 曾の故に非ず 援を息むは 是れ威猷 鳳蓋 風に隨ひて轉じ 鵲影 波に逐ふて浮び 面前 短樂を開き 別後 長愁を悲む」となります。七夕の織姫と彦星のことを歌っており、飛鳥時代には唐から伝説が伝わっていたことと、藤原不比等の博識さが伺える歌です。
飛文山水地 命爵薜蘿中 漆姫控鶴舉 柘媛接魚通 煙光巖上翠 日影漘前紅 翻知玄圃近 對翫入松風
読み下し文は、「文を飛ばす山水の地 爵を命ずる薜蘿の中 漆姫 鶴を控きて舉り 柘媛 魚に接して通ず 煙光巖上に翠 日影 漘前に紅 翻つて知る 玄圃の近きを 對して翫す 松に入る風を」となります。吉野で歌った歌です。吉野の鮮やかな景色を漢文で表しており、和歌よりも一段と形式ばった官僚としての風格を感じます。
夏身夏色古 秋津秋氣新 昔者同汾后 今之見吉賓 靈仙駕鶴去 星客乘査返 渚性流水 素心開靜仁
読み下し文は、「夏身 夏色古り 秋津 秋氣新た 昔 汾后に同く 今 吉賓を見ゆ 靈仙 鶴に駕して去り 星客 査に乘りて返る 渚性 流水をみ 素心 靜仁を開く」です。この歌も吉野に来た時に歌った歌で、夏が終わり秋が気配を感じる中、流れる水を入を歌うことで、涼しげな景色が眼に浮かぶようです。
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