功績2「娘の光明子が皇族以外で初の皇后になったこと」
藤原不比等の功績の一つに、皇族との婚姻に力を入れたことがあげられます。草壁皇子の妃、阿閉皇女の女官で軽皇子(文武天皇)の乳母だった県犬養三千代と婚姻した縁で皇室との関係を深め、二人の間に生まれた光明子を日本で初めて皇族以外の皇后にすることに成功しています。
光明子が皇后になった時には藤原不比等は没していましたが、藤原不比等が婚姻で皇族との人脈を作っていたことが結果的に藤原氏がより皇族との関係を深め、以後藤原氏から皇后を出す流れが出来たといえるのではないでしょうか。
功績3「藤原氏繁栄の基礎を築いたこと」
藤原不比等の凄いところは、「婚姻」を利用してのし上がっていったことがあげられます。女性の力を借りて、自身をスキルアップさせていったのです。まず藤原不比等の妻に県犬養三千代という、文武天皇の乳母をしていた女性がいました。藤原不比等の出世が早まったのは、県犬養三千代と結婚してからといいます。
そして妻の県犬養三千代の縁を使い、自身の娘「宮子」を文武天皇の夫人にすることに成功しています。後に皇子を産み、「聖武天皇」として即位しました。その聖武天皇の皇后が娘の「光明子」であり、天皇家と婚姻をし外戚として権力を手に入れる「摂関政治」に続くものとなったのです。
藤原不比等の名言
漢詩を得意とする藤原不比等の作品が伝わっています。漢詩を作ることは、今で例えると英語で詩を作るようなものであり、藤原不比等の学識の高さを示すものとなっています。以下五言絶句です。
雲衣兩觀夕 月鏡一逢秋 機下非曾故 援息是威猷 鳳蓋隨風轉 鵲影逐波浮 面前開短樂 別後悲長愁
読み下し文は、「雲衣 兩たび夕を觀し 月鏡 一たび秋に逢ふ 機を下るは 曾の故に非ず 援を息むは 是れ威猷 鳳蓋 風に隨ひて轉じ 鵲影 波に逐ふて浮び 面前 短樂を開き 別後 長愁を悲む」となります。七夕の織姫と彦星のことを歌っており、飛鳥時代には唐から伝説が伝わっていたことと、藤原不比等の博識さが伺える歌です。
飛文山水地 命爵薜蘿中 漆姫控鶴舉 柘媛接魚通 煙光巖上翠 日影漘前紅 翻知玄圃近 對翫入松風
読み下し文は、「文を飛ばす山水の地 爵を命ずる薜蘿の中 漆姫 鶴を控きて舉り 柘媛 魚に接して通ず 煙光巖上に翠 日影 漘前に紅 翻つて知る 玄圃の近きを 對して翫す 松に入る風を」となります。吉野で歌った歌です。吉野の鮮やかな景色を漢文で表しており、和歌よりも一段と形式ばった官僚としての風格を感じます。
夏身夏色古 秋津秋氣新 昔者同汾后 今之見吉賓 靈仙駕鶴去 星客乘査返 渚性流水 素心開靜仁
読み下し文は、「夏身 夏色古り 秋津 秋氣新た 昔 汾后に同く 今 吉賓を見ゆ 靈仙 鶴に駕して去り 星客 査に乘りて返る 渚性 流水をみ 素心 靜仁を開く」です。この歌も吉野に来た時に歌った歌で、夏が終わり秋が気配を感じる中、流れる水を入を歌うことで、涼しげな景色が眼に浮かぶようです。
藤原不比等の人物相関図
藤原不比等にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「かぐや姫の車持皇子は藤原不比等がモデル!?」
「かぐや姫」に出てくる「車持皇子」のモデルは藤原不比等ではないかと指摘されています。最初に提唱したのは江戸時代の国学者、加納諸平といいます。藤原不比等の母が車持氏であることと、天智天皇の御落胤説があるためそれをもじったものだという説です。
物語の車持皇子は結婚する条件として、東方海上にあるという「蓬莱の玉の枝」を取ってくるようにいわれますが、出航せず職人たちにそれらしき物を作らせ、帰航を偽装してこれをかぐや姫に献上しました。しかし職人たちが玉作りの報酬をもらっていないと訴え出たために偽物と判明し、結婚できなかったという人物です。車持皇子は職人たちを逆恨みし、血が出るほどお仕置きしたといいます。
物語の「車持皇子」は悪賢く残忍な性格に書かれています。もし藤原不比等をモデルとしたならば、悪意をもって書かれているのは明白であり、異例の出世を妬んでいた貴族が「かぐや姫」を書いたのではないかといわれています。出来るだけ目立たないように振舞ったと言われる藤原不比等ですが、やはり出世するものの宿命で、恨みや妬みを買ってしまっていたのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「実は天智天皇の御落胤だった?」
藤原不比等は実は藤原鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説があります。
「公卿補任」の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、「大鏡」では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と誓約の言葉を言ったという伝説が記されています。「帝王編年記」「尊卑分脈」などの記載も同様があります。
公卿補任などが記された10世紀頃には、「藤原不比等は天智天皇の御落胤である」という認識があったことが分かります。しかし公式な「史書」に記されている訳ではないため、あくまで都市伝説であり現在この説を指示している人は少ないのが現状です。
都市伝説・武勇伝3「持統天皇で異例の出世をした訳は…」
藤原不比等が天智天皇の御落胤だったという説を指示している研究者の中に、藤原不比等の異例の出世は実は天武天皇・持統天皇の皇親政治の延長と考えている人もいます。
もし藤原不比等が天智天皇の皇子であるなら、その子供の娘の光明子も皇族ということになります。それにより皇族以外の皇后の擁立のハードルも下がっただろうという考えです。真相は闇の中ですが、そういった説が出る程、藤原家の異例の出世があったといえるのではないでしょうか。
藤原不比等の年表
659年 – 0歳「大和国で生を受ける」
はっきりしたことは分かりませんが、恐らくそのころ朝廷のあった大和(奈良県)で659年に生を受けたと言われています。その後667年に近江に都が移ったため、8歳で一緒に転居したのではないかと考えられています。
669年 – 11歳「父、藤原鎌足死去」
父である藤原鎌足が11歳の時に死去したため、強力な後ろ盾を失ってしまいました。672年、13歳の時に起きた壬申の乱の時は近江朝に近い立場でしたが、まだ政治に携わっていなかったため処罰の対象にならなかったと考えられています。
皇胤説を支持する研究者の中には、天智天皇の御落胤だったために田辺史大隅に匿われたという説も存在します。真意はわかりませんが、田辺史大隅は「大宝律令」の編集にも携わるほどの学識があり、実際に藤原不比等に漢学を授けたのも田辺史大隅であると考えられています。