レンブラントファンレインの名言
「画家ができたと言った時、それが絵の完成だ」
レンブラントは絵画制作の依頼を受けても自分が納得できるまで描き続けることで有名でした。そのため、依頼主の趣向とは違った絵画が完成したり、納期日を大幅に遅れることがあったりと批判を受ける対象となりましたが、それでも画家としての信念を曲げることはなかったのです。
「あなたが知っていることを繰り返し実践しなさい。そうすればあなたが今知らないことを明確にすることができるのです」
知らないからと言って知識を蓄えていくだけでは真理を掴めないということでしょうか。知識や技術について学ぶことも大切だけれども、今知っていること、習得していることを実践することによって初めてわかることがあるということを意味しているように感じられます。
「歳を重ねるにつれ、人生はそれを我々の顔に刻み込みます。顔に横暴さや不摂生または慈愛を表すのです」
その人の人生の苦楽はその人の表情にも現れるということを教えてくれています。歳を重ねるごとに乗り越えてきた経験の数も増えていくため、その深みが顔に現れるようになるのでしょう。
レンブラントファンレインにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実はレンブラントの本物の作品は300点ほどだった」
レンブラントは17世紀の画家ということで、作品自体が年数を経ているため、真作(本物)なのか贋作(偽物)なのかを判定するのが非常に難しくなっています。20世紀の初め頃にはレンブラントの作品は1000点ほどあると言われていましたが、最新のX線撮影と美術史家の考証によると、真作は約300点ほどであるとされたのです。
さらに、それでも真贋判定が難しいため、レンブラントの作品には「真作の可能性が高い」、「真作の可能性あり」、「真作の可能性が低い」、「贋作」の4つの段階に分類されるようになりました。レンブラントの真贋判定が難しいのは、レンブラントが主宰してした工房では彼の作品を弟子たちに模写させるという教育をしていたためです。そのため、贋作と判断されているほとんどの作品は弟子が描いたものとされています。
都市伝説・武勇伝2「レオナルド・ダ・ヴィンチも愛用したインクを好んだ」
レンブラントはイカ墨(セピア)を用いたインクをデッサンなどにおいて多用していますが、このインクはルネサンス期に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチも愛用していたことで有名となっています。
また、絵画の素地となる紙にもこだわりを持っており、洋紙よりも雁皮紙や麻の紙、和紙などを愛用していました。これはレンブラントがインクをよく吸収する紙を好んだためで、植物の繊維を絡めて作られた洋紙よりも雁皮紙や麻の紙、和紙などの方が吸収性が高いために多用したのではないかと考えられています。
都市伝説・武勇伝3「肖像画の最高落札額は約200億円」
レンブラントの絵画は現在でも高い評価を受けており、市場でも非常に高価な値段で取引されています。レンブラントの絵画でもっとも高い落札額を記録したのは「マールテン・ソールマンスとオーペン・コーピットの肖像」で2015年に日本円にして約200億円の値をつけました。現在はアムステルダム国立美術館に保管されています。
上記の功績の項目でも述べたように、自画像も高値で取引されており、自画像に関しては2003年には日本円で約9億円、2020年には日本円で約20億円で取引されました。
レンブラントファンレインの年表
1606年 – 0歳「レンブラントファンレインの誕生」
ネーデルランド連邦共和国(オランダ)にてレンブラント誕生
レンブラントファンレインはオランダを代表する画家で、スペインから独立する前のネーデルランド共和国(オランダ)にて1606年に誕生します。実家は製粉業を営んでおり、父・ハルマンと母・ネールチェンはレンブラントの他にすでに7人の子供をもうけていました。そのうち長女と次女は幼い頃に亡くなっていたため、実際のところ、レンブラントは兄4人、姉2人に囲まれて幼少期を過ごすことになります。
ちなみにレンブラントの苗字である「ファン・レイン」はオランダ語で「ライン川の」という意味を表しており、ファンレイン一家はその名の通り、ライン川のほとりに居を構えていました。
優秀な学生時代、そして絵画の道へ
1613年、7歳になったレンブラントは初等教育を受けるためにラテン語学校に入学します。成績は優秀だったため、1620年に14歳でライデン大学へ入学することになりました。この年齢で大学へ上がることは珍しく、現在でいう飛び級のような形で大学入学を果たすことになるのです。
レンブラントの両親ハルマンとネールチェンは優秀な息子に法律家になることを希望しましたが、レンブラント自身は法律への興味をほとんど示さず、この頃からすでに絵画に没頭するようになっていました。その姿を見て、両親もレンブラントが美術の世界へ進むことに納得したようです。しかし、レンブラントが生きていた時代はオランダに美術学校が存在しなかったため、個人的に師事を請う形での修行になりました。
レンブラントが師事したのは歴史画家のスヴァーネンブルフという人物で、当時オランダよりも芸術が栄えていたイタリアへの留学経験を持った画家でした。この師匠の元でレンブラントは絵画の基礎を学んでいくようになったのです。
1624年 – 18歳「才能を認められ、オランダ最高の画家に師事するように」
オランダ最高の画家と言われていたラストマンに師事
レンブラントは美術の世界へ進むと同時にその才能を開花させ、周囲からの評判も得られるようになっていきました。最初の師匠であるスヴァーネンブルフからは基礎的な事項を3年間教わりましたが、その段階で卓越した技能を発揮させていたため、父・ハルマンがその才能を枯渇させないようにさらに優秀な画家の元で鍛えてもらうことを希望します。
そして、当時オランダ最高の歴史画家と言われていたピーテル・ラストマンに師事を依頼し、レンブラントはラストマンの元に受け入れられることになったのです。結局、ラストマンの元での修行期間は半年のみでしたが、光と影を捉える技法の修得やさらなる表現力の向上に務めたのでした。
また、この頃から自学自習で美術について学ぶようになり、ドイツの画家であるデューラーの「人体均衡論」からヒントを得て、描写力にも拍車をかけるようになっていくのです。
自身のアトリエを構えるように
ラストマンの元での修行を終えた後、レンブラントは故郷に戻り、自らのアトリエを構えるようになりました。そして、1625年には現在判明している中での一番最初の作品「聖ステバノの殉教」を完成させます。
アトリエを創設して3年目からはレンブラント自身も弟子を受け入れるようになり、指導を行うかたわらで、制作活動を行っていくようになります。ルーブル美術館所蔵の「水腫症の女」などの作品が知られているヘラルト・ドウなどが有名な門下生として輩出されました。
レンブラントはこの頃、新しいことに挑戦する姿勢を貫いており、油絵だけでなく、エッチングや版画も手がけるようになっていきました。そして、レンブラントの評判は徐々に批評家の間で広まっていくようになるのです。