1631年 – 25歳「美術がより発展しているアムステルダムへ」
父の死をきっかけにアムステルダムへ進出
レンブラントは初期の頃からその才能を周囲に認められており、特にオランダ総督の秘書官であるホイヘンスという人物からはその画力・表現力において賞賛を受けていました。ホイヘンスはレンブラントに才能があるのがわかっているのに、なぜ美術がより進歩している国へ出向かないのかを疑問に思うようになります。ホイヘンスは何度かレンブラントへイタリアに赴くように進言しますが、忙しさを理由にイタリア行きは実現していませんでした。
その最中、1630年に、芸術の道を後押ししてくれていた父・ハルマンが亡くなります。これをきっかけにレンブラントは決心し、故郷ライデンよりも本場の芸術に触れる機会が多いアムステルダムへと進出することになるのでした。
肖像画に着手・「テュルプ博士の解剖学講義」制作
アムステルダムで活動を開始すると、レンブラントは知り合いの画家の元で肖像画を多く描くようになります。そして、1632年、レンブラントが26歳の時にテュルプ博士という高名な医師の解剖学講義を描写してほしいという大きな仕事を引き受けることになりました。この依頼によって制作された絵は多くの人の目につくホールに展示されることが決まっていたため、名声をあげるチャンスとなったのです。
完成した「テュルプ博士の解剖学講義」は現在でもレンブラントの代表作として高い評価を得ていますが、当時としても好評を博し、レンブラントの出世作となりました。
1633年 – 27歳「結婚、そしてそれに続く順風満帆な画家生活」
オランダ・元レーワルデン市長の娘と結婚
「テュルプ博士の解剖学講義」で名声を得て、順調な制作活動をしていたレンブラントは結婚を視野に入れるようになります。そこで、制作活動をしているアトリエの友人画家からいとこの女性を紹介してもらうことになりました。その女性がのちに妻となるサスキア・アイレンブルフです。
サスキアはオランダ・元レーワルデン市長の娘であり、大変裕福な家庭の出身でした。そのため、レンブラントの生活も非常に豊かになります。その上、「解剖学講義」で評判をあげたレンブラントの元には次々に仕事が入ってくるようになり、オランダ提督からの注文や肖像画の依頼などをこなしていきました。
順風満帆な生活を送っていたレンブラントは自身の画家としての勢いとサスキアの財産をあてにし、ヨーデンブレーストラートという街に豪邸を立てることになったのです。そして、自身の大規模なアトリエも造設し、弟子を多く教育するようにもなりました。
1642年 – 36歳「代表作「夜警」の完成とともに狂い出す人生の歯車」
「夜警」を発表し、傑作の称号を受ける
レンブラントは1640年にアムステルダムの有名な軍隊の絵を依頼されました。これがレンブラントの代表作となる「夜警」です。アムステルダムの有名な士族であるフランス・パニング・コックが率いる部隊を躍動感あふれる表現力で描出しました。
この「夜警」はレンブラントの最高傑作として、現在でもアムステルダム美術館に飾られていますが、当時、市中の組合会館でお披露目された時も賞賛を受けるところとなったのです。
私生活の方は雲行きが怪しくなっていく
作品制作の方では華々しい活躍をしていくレンブラントですが、順風満帆だった私生活の方は暗転していくようになります。妻サスキアとの間に生まれた長男、長女、次女を相次いで亡くし、時を同じくして母親も高いしてしまうのでした。
さらに、1642年の「夜警」が完成した年に妻サスキアを結核で亡くしてしまうのです。サスキアは享年29歳という若さでした。
1650年 – 44歳「潤沢な遺産を所有する生活から一転、借金を抱えるように」
私生活の状況がさらに悪化
サスキアなき後のレンブラントは精力的に作品の制作を行いましたが、依頼主の注文と自らの目指している芸術との間に違いを生じるようになり、完成までに時間がかかるようになっていきました。注文通りの絵が描かれないことや長い時間待たされることに業を煮やした依頼主たちからは批判も上がるようになっていくのです。
そして、サスキアが亡くなり、女手を失ったレンブラントは乳母・家政婦としてヘールチェという女性を迎え入れ、2人はやがて恋愛感情を抱くようになりました。しかし、そのような状況でレンブラントが別の女性ヘンドリッキエを新たに家政婦として雇うようになり、その2人の間でも恋心が芽生え始め、3者の関係がこじれるようになっていきました。
最終的にレンブラントが選んだのは後から雇った若い家政婦ヘンドリッキエであったため、ヘールチェは怒りをぶつけるために裁判を起こします。そして、レンブラントが敗訴することとなり、毎年定額の賠償金を払うことになりました。
借金がかさむように
レンブラントはサスキアが亡くなってから浪費癖に拍車がかかり、骨董品などを買いあさるようになっていきます。その上、ヘールチェへの賠償金なども重なったことで、徐々に資金が減っていきました。最終的には無一文となり、さらには借金を抱えるようにまでなるのです。自身が保有している豪邸のローンも払えずに滞るようになり、いよいよ私生活は泥沼へと落ち込んでいくのでした。
そして、1656年、レンブラントが50歳の時に破産目前となってしまい、財産が競売にかけられるようになってしまったのです。それ以来、レンブラントは競売で得たお金を抱え、豪邸を手放し、ヘンドリッキエや息子らとともに貧民街で暮らすようになりました。
1660年 – 54歳「晩年の質素な生活、そして63歳で帰らぬ人に」
数少なくなった依頼をこなしながら質素な生活を送るように
財産を失い、貧民街で家族と生活するようになったレンブラントは以前ほどの名声はありませんでしたが、その名は通っていたため、度々絵画の依頼を受けるようになりました。その仕事をこなしながら、質素な生活を送るようになっていくのでした。
しかし、1663年に愛人ヘンドリッキエが亡くなり、1668年にはサスキアとの間に生まれ、唯一成人した息子ティトゥスが亡くなってしまうのです。最愛の家族に先立たれた晩年のレンブラントは失意の底で「パンとチーズとニシンの酢漬けだけが一日のご馳走だ」とされるほど貧しい生活を送るのでした。
63歳で帰らぬ人となり、家族が眠る教会に埋葬される
レンブラントは貧しい生活の中でも骨董品や美術品の収集をやめることができず、再度借金を抱えるようになっていきました。そのような中でも、1667年にはトスカーナ公国の皇帝がレンブラントの自画像を購入するなど、レンブラントの評判は大きく崩れることはありませんでした。
1668年に息子ティトゥスを亡くしましたが、1669年には孫のティティアの誕生を見届けることになります。そして、1669年10月4日、63歳でレンブラントは帰らぬ人となり、サスキア、ヘンドリッキエ、ティトゥスが眠る教会に埋葬されました。