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大和政権とは?成立した時代や場所、王・豪族まで分かりやすく解説

「大和政権て何?」
「大和政権の支配者や王はどんな人だったの?」
「大和政権と朝鮮半島との繋がりは?」

大和政権に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?「大和政権」の存在は、私たちの暮らす日本の成立を示す重要なサインとなります。つまり、大和政権を詳しく知ることで、日本がどのような形でひとつの国としてまとまっていったのか?を知ることができます。

古代より人々の信仰対象だった「三輪山」

そういった意味でも、大和政権を知ることは日本の歴史を学ぶ上でとても大事なことなのです。

そこでこの記事では、大和政権はいつ頃に誕生し、その中心地はどこにあったのか?どんな人物が支配し、その統治範囲はどこまで及んでいたのか?大和政権と朝鮮半島の意外な関係とは?など、大和政権に関してわかりやすくお伝えしていきます。

日本の成り立ちを示す大和政権とは?

大和政権は各地の豪族と並立した連合政権であり、現在の日本列島の広域を支配した日本初の統一政権として登場しました。なお、呼称は「大和王権」、「ヤマト王権」、「大和朝廷」など様々ですが、本記事では煩雑さを避けるため「大和政権」で統一します。

大和政権の発足を示す「箸墓古墳」

成立したのはいつの時代?

まず、大和政権が出来上がったのは、いつ頃なのかをお伝えします。諸説あるものの、概ね3世紀の前期~中期には、政権の母体が出来上がっていたとされています。

3世紀の前期~中期頃から「前方後円墳」が登場し始め、4世紀には前方後円墳が全国各地に築造されました。この前方後円墳の広がりこそ、全国の有力豪族が大和政権に与していった証であり、その統治範囲と見られています。そして5世紀には、その政権基盤がより盤石となっていきました。

その後、6世紀末頃には前方後円墳が作られなくなりましたが、7世紀半ばころまでは豪族の連合政権として続いていました。

そして、645年に起こった「乙巳の変(いっしのへん)」に始まる一連の国政改革「大化の改新」を経て、さらに701年に「大宝律令(たいほうりつりょう)」が発布されたことで、天皇を中心とした中央集権国家が成立。豪族の連合政権であった大和政権は一つの国家としてまとまっていったのです。

場所はどこにあったの?

大和政権の中心地「纏向遺跡」

大和政権は全国に統治範囲が及んでいましたが、その中枢は現在の奈良県桜井市にありました。古事記や日本書紀によると、初代天皇である「神武天皇(じんむてんのう)」が即位した場所が「橿原」と記されており、事実、現在の奈良県橿原市と桜井市は隣接しています。

さらに昔の奈良県は「大和国(やまとのくに)」と称されていたこからも、この地が大和政権の中心であったことがわかります。

また、桜井市には大和政権の中心地「纏向遺跡(まきむくいせき)」があることでも知られており、この地から前方後円墳が誕生しています。また、その周辺には三輪山をご神体とした大神神社(おおみわじんじゃ)を始めとした日本最古級の神社が存在することからも、奈良県桜井市周辺が大和政権の中枢であったと見られています。

大和政権の王はどんな人?

はじめて天皇を称したとされる「天武天皇

大和政権を支配する人物は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。この大王を中心として、全国各地の豪族を取り込んだ連合政権が大和政権なのです。大王は現在の天皇陛下のご先祖にあたるお方です。なお「天皇」という呼称を初めて使用したのは第40代天武天皇とする説が有力です。このように、大和政権は代々の大王を中心として国家運営されていまいした。

以上のことから、現在の日本の皇室は約1500年~2000年前に誕生したことになり、その皇統が現在も続いている日本は、現存している国家のなかでは「世界最古の国」なのです。

大和政権の統治範囲

稲荷山古墳出土鉄剣が出土した「稲荷山古墳」

大和政権は当初畿内の一部を支配していた王権でしたが、4世紀~5世紀頃には北は関東地方北部、南は九州南部までを支配領域に組み込んでいたと見られています。

その証左となるのが「前方後円墳」の存在です。4世紀には前方後円墳が各地に作られました。各地に前方後円墳が出現したということは、その築造技術が地方に広まったことを意味しています。

また、埼玉県の稲荷山古墳(さいたま古墳群)から出土した鉄剣と、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀に刻まれた銘文に、5五世紀に活躍した第21代雄略天皇の名が刻まれていたことで、この時代には少なくとも関東から九州まで、その統治範囲が及んでいたことがわかっています。

なお、稲荷山古墳から出土した鉄剣は「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」と呼ばれ、国宝に指定されています。

豪族の身分を表す氏姓制度

連(むらじ)の姓を持っていた「物部守屋」

大和政権内での身分は「氏姓制度(しせいせいど)」によって定められていました。「氏(うじ)」とは各豪族に付ける名称のことで、現在でいうところの名字(苗字)に近いものでした。例えば「蘇我(そが)」「葛城(かづらき)」「物部(もののべ)」「中臣(なかとみ)」などといった氏がありました。「蘇我馬子」、「物部守屋」、「中臣鎌足」などが有名です。

一方の「姓(かばね)」は、氏ごとに決めたランク付けのことです。つまり、蘇我さん一族はこのランク、葛城さん一族はこのランク、といったように一族ごとの格付けを表しています。ランクには、

  • 「臣(おみ)」
  • 「 連(むらじ)」
  • 「伴造(とものみやつこ)」
  • 「国造(くにのみやつこ)」

などがあり、蘇我さん一族は最高ランクの「臣(おみ)」、物部さん一族は「連(むらじ)」といったように、豪族ごとに姓でランクを分けていました。つまりこの時代は家系によって、政権内での格付けが決められていたのです。

この氏姓制度は実力でランクを決める制度「冠位十二階」を聖徳太子が制定するまで続きました。

大和政権(古墳時代)の文化や人々の生活

世界最大の面積を誇る「大仙陵古墳」

日本全国に前方後円墳が登場

大和政権が発展した時代は時代区分で言うと、ほぼ古墳時代と同時期にあたります。ゆえにこの時代を最も代表する文化は「前方後円墳」の広がりです。

3世紀前期~中期頃、奈良県桜井市にある纏向遺跡に、最古の前方後円墳と目される「纏向石塚古墳」が出現。さらには全長278mを誇る巨大前方後円墳「箸墓古墳」が同地に出現したことを皮切りとし、鍵穴の形をした日本独自の墳墓である前方後円墳が全国へ広がっていきました。

最古の前方後円墳とされる「纏向石塚古墳」

4世紀~5世紀となると、前方後円墳はどんどん巨大化していき、現在の奈良県、大阪府、岡山県、群馬県を中心に200メートルを超える巨大古墳が造営されていきまいた。この古墳文化の広がりが大和政権の時代における、最も大きな特徴となっています。

特に墳丘長525メートルを誇る大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)を擁する百舌鳥古墳群、墳丘長425mの誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)を擁する古市古墳群は特に有名で、現在はユネスコの世界遺産にも登録されています。

仏教が伝わった時代でもある

蘇我氏の氏寺「飛鳥寺」

大和政権の時代のもうひとつの特徴として、「仏教」が日本に伝わってきたことが挙げられます。この出来事を「仏教公伝」、もしくは「仏教伝来」と言います。諸説あるものの、朝鮮半島を経由し、当時の半島国家のひとつ百済より、西暦538年(552年説もあり)に日本へ伝わったとされています。

仏教が入ってきたことで、各豪族は「氏寺(うじでら)」を持つようになりました。氏寺とはその一族の菩提寺です。氏寺(菩提寺)の登場により、埋葬施設であった前方後円墳はその役目を終えるとともに、祭祀の場は氏寺へと変遷していったのです。

こういった氏寺(菩提寺)が登場し、前方後円墳が作られなくなった点も、大和政権時代の大きな特徴となっています。

人々の生活は?

竈(かまど)のイメージ

この時代の人々の生活として特筆すべきは、土木技術が大きく発達したことが挙げられます。後に詳しく述べますが、鉄が普及したことで農具が多く作られるようになり、水田耕作が大きく発展しました。これにより、農業を関わる祭祀も発展、現在宮中で行われている収穫の祭り「新嘗祭(にいなめさい)」も、この頃に原型ができあがりました。

さらにこの時代には竈(かまど)が導入されるようになり、調理の幅が広がりました。竈の上に甕を設置してお湯を沸かしたり、穀物を蒸して食べたりと、現代で言うところの「おこわ」のような状態で穀物を食べていたようです。おかずには、シカやイノシシの肉、タイやブリなどの海水魚からナマズやコイといった淡水魚、その他にも豆などの野菜類、スモモなどのフルーツ類も食べられていました。

大和政権と朝鮮半島の関係

大和政権を語る上で外せないひとつの要素が朝鮮半島との関係です。大和政権が国家を運営するにあたり、朝鮮半島の存在は非常に重要でした。以下より、大和政権と朝鮮半島について確認していきましょう。

朝鮮半島に進出していた大和政権

4~5世紀頃の朝鮮半島の勢力図

この頃の朝鮮半島には「高句麗(こうくり)」、「新羅(しらぎ)」、「百済(くだら)」の3つの国が並立していたことはよく知られています。しかしもうひとつ、半島の最南端の一部に「任那(みまな)」と呼ばれる地域も存在していました(任那は「伽耶」とも呼ばれています)。任那は半島にあった国家ではなく日本の一部で、朝鮮半島における大和政権の出先機関として機能していました。

また、大和政権と百済は友好関係にあったと見られ、当時の状況を記す貴重な文字史料「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」には、大和政権が朝鮮半島に出兵し、百済を救援するため高句麗と戦って負けたことなどが記されています。

また、百済の王子が人質として大和政権に差し出されていたことが「三国史記」や「日本書紀」といった複数の史料から確認できるため、百済は日本の属国だったことが明白になっています。

また新羅に関しても、「好太王碑文」、「日本書紀」、「梁職貢図(りょうしょくこうず)」といった史料から、一時期日本に従属していたことがわかっています。

必要不可欠だった鉄資源

国宝の「稲荷山古墳出土鉄剣」

大和政権が朝鮮半島を重視していた一番の理由が「鉄」の存在でした。この時代は、日本で「鉄」の原料となる鉄鉱石が採取できないと思われていたため、朝鮮半島経由での輸入に頼っていました。鉄は農具を作るのに欠かせない材料であるとともに、被葬者と一緒に古墳へ埋葬する副葬品を作るのにも必要でした。

この鉄と鉄から物を作る技術を独占していたのが大和政権であり、交易品として鉄を供給することで、徐々に各地の有力豪族が大和政権の傘下に組み込まれていったと考えられています。つまり、大和政権が鉄を独占することで全国の豪族よりも優位に立つことができたため、鉄の輸入先である朝鮮半島はなくてはならない存在だったのです。

朝鮮半島の前方後円墳について

朝鮮半島の前方後円墳

前方後円墳は鍵穴の形状をした日本オリジナルの墳墓で、その分布が大和政権の統治範囲であることはすでに述べました。しかし、朝鮮半島の南西部にも計14基の前方後円墳が存在しています。これらの前方後円墳は、まさしく日本の統治範囲が朝鮮半島に及んでいたことは証であり、前述の任那の存在や百済が日本の属国であったことの裏付けとなります。

朝鮮半島の前方後円墳は5世紀後半~6世紀前半の築造と見られ、3世紀中期には日本に存在していた前方後円墳の登場時期からは大きく時代が下ります。また5世紀後半~6世紀前半は古墳時代の後期に当たるため、朝鮮半島の前方後円墳が日本の影響を受けて造られたことは明らかです。

神功皇后の三韓征伐

百済より献上された国宝「七支刀」

日本書紀によると、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后である「神功皇后(じんぐうこうごう)」が朝鮮半島に出兵し新羅を降伏させ、百済や高句麗も服従させたとの記載があります。この出来事を「三韓征伐(さんかんせいばつ)」と呼びます。

三韓征伐により百済が大和政権に朝貢することとなり、枝分かれした剣先を持つ「七支刀」を日本に献上しました。この七支刀は奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじゅんぐう)に現存しており、国宝に指定されています。

なお、三韓征伐が行われた具体的な時期は不明ながら、おおよそ4世紀の出来事と考えられています。日本の4世紀に関しては文字史料がほとんど残っておらず、当時の状況はほとんどわかっていないのが実情です。しかしながら、その中でも現存している文字史料が、前述の好太王碑文、そして七支刀に刻まれた銘文の2点なのです。故にこの時期は「謎の4世紀」と呼ばれています。

日本古代史最大の反乱「磐井の乱」

筑紫君磐井の墓と言われる「岩戸山古墳」

527年、朝鮮半島南部へ出兵しようとした大和政権に対し、九州の筑紫君磐井(つきしのきみいわい)という人物が反乱を起こしました。この事件を「磐井の乱」と言います。

第26代継体天皇(けいたいてんのう)は乱を鎮圧するため九州に軍を派遣。最終的には、物部麁鹿火(もののべのあらかび)という大和政権側の豪族によって鎮圧されました。この磐井の乱は日本古代史における最大の反乱事件と呼ばれています。直接的には朝鮮半島との関りはないのですが、この時代を代表する有名な事件です。

大和政権に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?大和政権が形成されていく過程は謎の4世紀を含むなど、いまだ明らかになっていないことも少なくありません。しかし、この時期に列島の広範囲を統治する連合政権が誕生したのは動かしようのない事実であり、日本国の始まりを考える上でとても重要な時代なのです。

とは言え、わからないことがあるからこそ、そこにロマンを感じるのもまた事実。大和政権を象徴する遺跡や古墳を訪れ、古代史ロマンに触れるのも、歴史の楽しみ方のひとつと言えるのではないでしょうか。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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