「大和政権て何?」
「大和政権の支配者や王はどんな人だったの?」
「大和政権と朝鮮半島との繋がりは?」
大和政権に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?「大和政権」の存在は、私たちの暮らす日本の成立を示す重要なサインとなります。つまり、大和政権を詳しく知ることで、日本がどのような形でひとつの国としてまとまっていったのか?を知ることができます。
そういった意味でも、大和政権を知ることは日本の歴史を学ぶ上でとても大事なことなのです。
そこでこの記事では、大和政権はいつ頃に誕生し、その中心地はどこにあったのか?どんな人物が支配し、その統治範囲はどこまで及んでいたのか?大和政権と朝鮮半島の意外な関係とは?など、大和政権に関してわかりやすくお伝えしていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
日本の基礎を作った大和政権とは
大和政権は各地の豪族と並立した連合政権であり、現在の日本列島の広域を支配した日本初の統一政権として登場しました。なお、呼称は「大和王権」、「ヤマト王権」、「大和朝廷」など様々ですが、本記事では煩雑さを避けるため「大和政権」で統一します。
成立したのはいつの時代?
まず、大和政権が出来上がったのは、いつ頃なのかをお伝えします。諸説あるものの、概ね3世紀の前期~中期には、政権の母体が出来上がっていたとされています。
3世紀の前期~中期頃から「前方後円墳」が登場し始め、4世紀には前方後円墳が全国各地に築造されました。この前方後円墳の広がりこそ、全国の有力豪族が大和政権に与していった証であり、その統治範囲と見られています。そして5世紀には、その政権基盤がより盤石となっていきました。
その後、6世紀末頃には前方後円墳が作られなくなりましたが、7世紀半ばころまでは豪族の連合政権として続いていました。
そして、645年に起こった「乙巳の変(いっしのへん)」に始まる一連の国政改革「大化の改新」を経て、さらに701年に「大宝律令(たいほうりつりょう)」が発布されたことで、天皇を中心とした中央集権国家が成立。豪族の連合政権であった大和政権は一つの国家としてまとまっていったのです。
場所はどこにあったの?
大和政権は全国に統治範囲が及んでいましたが、その中枢は現在の奈良県桜井市にありました。古事記や日本書紀によると、初代天皇である「神武天皇(じんむてんのう)」が即位した場所が「橿原」と記されており、事実、現在の奈良県橿原市と桜井市は隣接しています。
さらに昔の奈良県は「大和国(やまとのくに)」と称されていたこからも、この地が大和政権の中心であったことがわかります。
また、桜井市には大和政権の中心地「纏向遺跡(まきむくいせき)」があることでも知られており、この地から前方後円墳が誕生しています。また、その周辺には三輪山をご神体とした大神神社(おおみわじんじゃ)を始めとした日本最古級の神社が存在することからも、奈良県桜井市周辺が大和政権の中枢であったと見られています。
大和政権の政治
大和政権の王はどんな人?
大和政権を支配する人物は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。この大王を中心として、全国各地の豪族を取り込んだ連合政権が大和政権なのです。大王は現在の天皇陛下のご先祖にあたるお方です。なお「天皇」という呼称を初めて使用したのは第40代天武天皇とする説が有力です。このように、大和政権は代々の大王を中心として国家運営されていまいした。
以上のことから、現在の日本の皇室は約1500年~2000年前に誕生したことになり、その皇統が現在も続いている日本は、現存している国家のなかでは「世界最古の国」なのです。
大和政権の統治範囲はどこまで?
大和政権は当初畿内の一部を支配していた王権でしたが、4世紀~5世紀頃には北は関東地方北部、南は九州南部までを支配領域に組み込んでいたと見られています。
その証左となるのが「前方後円墳」の存在です。4世紀には前方後円墳が各地に作られました。各地に前方後円墳が出現したということは、その築造技術が地方に広まったことを意味しています。
また、埼玉県の稲荷山古墳(さいたま古墳群)から出土した鉄剣と、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀に刻まれた銘文に、5五世紀に活躍した第21代雄略天皇の名が刻まれていたことで、この時代には少なくとも関東から九州まで、その統治範囲が及んでいたことがわかっています。
なお、稲荷山古墳から出土した鉄剣は「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」と呼ばれ、国宝に指定されています。
日本全国に前方後円墳が登場
大和政権が発展した時代は時代区分で言うと、ほぼ古墳時代と同時期にあたります。ゆえにこの時代を最も代表する文化は「前方後円墳」の広がりです。
3世紀前期~中期頃、奈良県桜井市にある纏向遺跡に、最古の前方後円墳と目される「纏向石塚古墳」が出現。さらには全長278mを誇る巨大前方後円墳「箸墓古墳」が同地に出現したことを皮切りとし、鍵穴の形をした日本独自の墳墓である前方後円墳が全国へ広がっていきました。
4世紀~5世紀となると、前方後円墳はどんどん巨大化していき、現在の奈良県、大阪府、岡山県、群馬県を中心に200メートルを超える巨大古墳が造営されていきまいた。この古墳文化の広がりが大和政権の時代における、最も大きな特徴となっています。
特に墳丘長525メートルを誇る大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)を擁する百舌鳥古墳群、墳丘長425mの誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)を擁する古市古墳群は特に有名で、現在はユネスコの世界遺産にも登録されています。
前方後円墳は連合政権の証
日本にある前方後円墳は、支配者たちのネットワークだと考えられています。
前方後円墳は日本国内でもトップクラスの支配者の墓だったようです。彼らは天皇と同じ形式の古墳を作り、同じ宗教儀礼をすることで結びつき、ネットワークを作り上げました。そして、大和政権に参加したため、大和政権は天皇と豪族たちの連合政権だと言えます。
このネットワークに参加していた支配者たちは、天皇から鉄の供給を受けられました。支配者たちは見返りとして、天皇に貢物をしたことから、天皇が権力の中心となることも予測できます。
東日本に多いとされる前方後方墳は、前方後円墳よりも劣った階級でした。天皇を中心とした支配者の間にも階級があったわけです。前方後円墳は連合政権の証だったと同時に、日本が律令国家へと変わることを示唆していたのです。