大和政権の文化や人々の生活
仏教が朝鮮半島から伝わった
大和政権の時代のもうひとつの特徴として、「仏教」が日本に伝わってきたことが挙げられます。この出来事を「仏教公伝」、もしくは「仏教伝来」と言います。諸説あるものの、朝鮮半島を経由し、当時の半島国家のひとつ百済より、西暦538年(552年説もあり)に日本へ伝わったとされています。
仏教が入ってきたことで、各豪族は「氏寺(うじでら)」を持つようになりました。氏寺とはその一族の菩提寺です。氏寺(菩提寺)の登場により、埋葬施設であった前方後円墳はその役目を終えるとともに、祭祀の場は氏寺へと変遷していったのです。
こういった氏寺(菩提寺)が登場し、前方後円墳が作られなくなった点も、大和政権時代の大きな特徴となっています。
人々の生活は水田耕作が発展した
この時代の人々の生活として特筆すべきは、土木技術が大きく発達したことが挙げられます。後に詳しく述べますが、鉄が普及したことで農具が多く作られるようになり、水田耕作が大きく発展しました。これにより、農業を関わる祭祀も発展、現在宮中で行われている収穫の祭り「新嘗祭(にいなめさい)」も、この頃に原型ができあがりました。
さらにこの時代には竈(かまど)が導入されるようになり、調理の幅が広がりました。竈の上に甕を設置してお湯を沸かしたり、穀物を蒸して食べたりと、現代で言うところの「おこわ」のような状態で穀物を食べていたようです。おかずには、シカやイノシシの肉、タイやブリなどの海水魚からナマズやコイといった淡水魚、その他にも豆などの野菜類、スモモなどのフルーツ類も食べられていました。
大和政権と朝鮮半島の関係
大和政権を語る上で外せないひとつの要素が朝鮮半島との関係です。大和政権が国家を運営するにあたり、朝鮮半島の存在は非常に重要でした。以下より、大和政権と朝鮮半島について確認していきましょう。
鉄資源の輸入先だった
大和政権が朝鮮半島を重視していた一番の理由が「鉄」の存在でした。この時代は、日本で「鉄」の原料となる鉄鉱石が採取できないと思われていたため、朝鮮半島経由での輸入に頼っていました。鉄は農具を作るのに欠かせない材料であるとともに、被葬者と一緒に古墳へ埋葬する副葬品を作るのにも必要でした。
この鉄と鉄から物を作る技術を独占していたのが大和政権であり、交易品として鉄を供給することで、徐々に各地の有力豪族が大和政権の傘下に組み込まれていったと考えられています。つまり、大和政権が鉄を独占することで全国の豪族よりも優位に立つことができたため、鉄の輸入先である朝鮮半島はなくてはならない存在だったのです。
新羅や百済は日本の属国だった
この頃の朝鮮半島には「高句麗(こうくり)」、「新羅(しらぎ)」、「百済(くだら)」の3つの国が並立していたことはよく知られています。しかしもうひとつ、半島の最南端の一部に「任那(みまな)」と呼ばれる地域も存在していました(任那は「伽耶」とも呼ばれています)。任那は半島にあった国家ではなく日本の一部で、朝鮮半島における大和政権の出先機関として機能していました。
また、大和政権と百済は友好関係にあったと見られ、当時の状況を記す貴重な文字史料「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」には、大和政権が朝鮮半島に出兵し、百済を救援するため高句麗と戦って負けたことなどが記されています。
また、百済の王子が人質として大和政権に差し出されていたことが「三国史記」や「日本書紀」といった複数の史料から確認できるため、百済は日本の属国だったことが明白になっています。
また新羅に関しても、「好太王碑文」、「日本書紀」、「梁職貢図(りょうしょくこうず)」といった史料から、一時期日本に従属していたことがわかっています。
神功皇后の三韓征伐
日本書紀によると、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后である「神功皇后(じんぐうこうごう)」が朝鮮半島に出兵し新羅を降伏させ、百済や高句麗も服従させたとの記載があります。この出来事を「三韓征伐(さんかんせいばつ)」と呼びます。
三韓征伐により百済が大和政権に朝貢することとなり、枝分かれした剣先を持つ「七支刀」を日本に献上しました。この七支刀は奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじゅんぐう)に現存しており、国宝に指定されています。
なお、三韓征伐が行われた具体的な時期は不明ながら、おおよそ4世紀の出来事と考えられています。日本の4世紀に関しては文字史料がほとんど残っておらず、当時の状況はほとんどわかっていないのが実情です。しかしながら、その中でも現存している文字史料が、前述の好太王碑文、そして七支刀に刻まれた銘文の2点なのです。故にこの時期は「謎の4世紀」と呼ばれています。
朝鮮半島の前方後円墳について
前方後円墳は鍵穴の形状をした日本オリジナルの墳墓で、その分布が大和政権の統治範囲であることはすでに述べました。しかし、朝鮮半島の南西部にも計14基の前方後円墳が存在しています。これらの前方後円墳は、まさしく日本の統治範囲が朝鮮半島に及んでいたことは証であり、前述の任那の存在や百済が日本の属国であったことの裏付けとなります。
朝鮮半島の前方後円墳は5世紀後半~6世紀前半の築造と見られ、3世紀中期には日本に存在していた前方後円墳の登場時期からは大きく時代が下ります。また5世紀後半~6世紀前半は古墳時代の後期に当たるため、朝鮮半島の前方後円墳が日本の影響を受けて造られたことは明らかです。
日本古代史最大の反乱「磐井の乱」
527年、朝鮮半島南部へ出兵しようとした大和政権に対し、九州の筑紫君磐井(つきしのきみいわい)という人物が反乱を起こしました。この事件を「磐井の乱」と言います。
第26代継体天皇(けいたいてんのう)は乱を鎮圧するため九州に軍を派遣。最終的には、物部麁鹿火(もののべのあらかび)という大和政権側の豪族によって鎮圧されました。この磐井の乱は日本古代史における最大の反乱事件と呼ばれています。直接的には朝鮮半島との関りはないのですが、この時代を代表する有名な事件です。