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李世民とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や武則天との関係も紹介】

李世民は唐の二代目皇帝となり、中国全土を統一した人物です。皇帝としては太宗ともよばれます。彼は中国史上まれにみる名君とされ、彼が行った政治は「貞観の治」として後世まで語り継がれました。

李世民が葬られた昭陵

若いころは軍事的才能をいかんなく発揮し、父親で唐の初代皇帝となる李淵を支えます。さらに、李世民のもとには多くの人材が集いました。彼は優秀な人材を使いこなし、次々と戦闘に勝利します。

皇帝となってからは重臣たちの意見をよく聞き、唐王朝の政治システムを整えます。こうした太宗・李世民の言行をまとめた『貞観政治要』は統治者にとって重要な書物とされ、帝王学の教科書としても使われました。

今回は政戦両略に長け、中国歴代皇帝の中でも理想の君主とされる唐の太宗、李世民の生涯についてわかりやすくまとめます。

李世民とはどんな人物か

名前李世民
誕生日598年12月16日
没日649年7月10日
生地陝西省咸陽市武功県
没地長安
配偶者長孫皇后
埋葬場所昭陵

李世民の生涯をハイライト

李世民の肖像画

李世民は598年に隋の重臣である唐国公李淵の子として生まれました。兄はのちに皇太子となる李建成、弟には李元吉などがいました。

617年、李淵は高句麗遠征の失敗など失政続きの煬帝に対し反旗を翻します。このとき、李淵の背中を押して反乱に踏み切らせたのも李世民でした。その後、彼は軍を率いて長安を攻め落とします。目覚ましい李世民の活躍に、李淵は「天策上将」の称号を与えました。

李世民の謀臣の一人、杜如晦

軍を率い各地の群雄を討伐する李世民に対し、皇太子の李建成は警戒心を強めます。李建成は李世民の力をそごうと、彼の謀臣である杜如晦や房玄齢を遠ざけました。皇太子との対決が避けられないと悟った彼は玄武門の変で李建成と弟の李元吉を討ちます。皇太子らの死を知った李淵は李世民に皇帝の位を譲りました。

皇帝となった李世民は、即位の翌年に年号を貞観と改めます。統治にあたって彼は臣下の言に耳を傾け、善政を心がけます。そして、唐の政治システムである三省六部を定めました。さらに、東突厥に出兵し滅亡させ遊牧民族の脅威を取り除きます。

晩年は自分の後継者をなかなか決めることができず苦労しました。彼は多くの子の中で最も凡庸な子を後継者にしてしまい、のちに則天武后の台頭を招きます。また、644年に行った高句麗遠征が失敗に終わるなど、晩年はづまづきが多く見られました。

若いころから優れた将軍として武勲を上げた

隋の2代皇帝煬帝

李世民の初陣は16歳の時です。隋の皇帝煬帝が北方を視察中に雁門で突厥の大軍に包囲されました。援軍を要請された李淵は雲定興という将軍を派遣します。この救援軍に参加したのが彼の初陣でした。

また、父李淵が敵軍に包囲された時は軽騎兵を率いて父を助けました。617年に李淵が挙兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公として隋の都長安を攻め落としました。そして、長安平定の功績により爵位が秦国公に上ります。

その後も李世民は李密、薛仁杲(せつじんか)、王世充(おうせいじゅう)、竇建徳(とうけんとく)といった名だたる群雄を平定します。この功績に対し、李淵は従来の役職では不足として「天策上将」という称号を彼のために新設しました。彼の武勲の巨大さがうかがえます。

中国史上屈指の名君

太宗が父である高祖李淵のために建てた宮殿の門(丹鳳門)

唐の皇帝となった李世民は太宗と呼ばれます。太宗の時代、唐は政治的にも安定し唐の全盛時代となりました。このことから、太宗・李世民が統治した時代を「貞観の治」とよんで理想の政治が行われた時代と評するようになります。

では、何がそんなにすごかったのでしょうか。彼は、優秀な人材を積極的に登用します。その協力によって突厥との戦争や国内制度の整備などを着実に進めていきました。彼らが進めた政治改革により唐の民は税の引き下げや刑罰の軽減などの恩恵を受けます。

また、信賞必罰を徹底したのも李世民のすばらしさだといえます。彼は皇帝になっても自ら兵の訓練を視察し、優秀なものには褒美を与えやる気を引き出しました。これにより、唐軍の力は飛躍的に高まります。

部下の進言によく耳を傾けた

李世民は部下の言葉によく耳を傾けた君主として後世まで語り継がれます。彼と臣下の会話は『貞観政要』に残されています。彼は、臣下が忠告や諫言をしやすい環境を整えました。彼は、必ず温顔(穏やかで優しい顔つき)で接するようにしました。

李世民に諫言を繰り返した魏徴

環境を整えられた部下たちは、遠慮なく彼に還元します。中でももっとも彼を戒めたのが魏徴でした。魏徴はかつて李建成の側近でした。玄武門の変で李建成が死ぬと、李世民は魏徴の率直さを評価して諫義大夫に昇進させ遠慮なく意見を言わせました。

彼は李世民がかんしゃくを起こしたり、冷静さを欠く言動をするたびに諫めます。その数、200回以上に及びました。普通、小言をこれだけ言われれば相手を見るのも嫌になるかもしれません。しかし、太宗は筋が通った諫言をことのほか喜んだといいます。

李世民の功績

功績1「優秀な人材を抜擢」

李世民は人材の収集と活用に並々ならぬ熱意を注ぎました。謀臣として有名なのは杜如晦と房玄齢です。彼らは知略の面で李世民を支えました。李世民が皇太子李建成を打倒した玄武門の変で計画を立てたのも彼らです。

李世民を支えた猛将尉遅敬徳

武力の面で李世民を支えたのは李靖(りせい)、尉遅敬徳(うっちけいとく)らの武将たちでした。李靖は李世民の幕僚として大活躍し、彼の中国統一を助けます。また、彼は突厥討伐の責任者となり、突厥に壊滅的な打撃を与えました。

もう一人の尉遅敬徳は猛将として知られた人物です。もともと、李世民の敵で彼との戦いに敗れ降伏した武将でした。あるとき、尉遅敬徳とともに降伏した人物が李世民に背いたことがありました。彼の配下の武将は尉遅敬徳も反乱を起こすので殺すべきだと主張します。

これに対し、彼は尉遅敬徳が背くわけがないとして部下たちの主張を退けます。そして、寝所に招いて尉遅敬徳に讒言で処罰しない旨を伝えたうえで、立ち去りたいときには立ち去ってよいと語り、金まで与えたといいます。尉遅敬徳は生涯李世民に忠誠をつくしました。

功績2「「貞観の治」とよばれる平和な時代をつくる」

貞観の治は太宗李世民と彼の臣下たちによってつくられた平和な時代です。太宗は南北朝時代から隋にかけて作られた諸制度を整備し、中央官庁にあたる三省六部を整備します。この時に活躍したのも杜如晦と房玄齢でした。

李世民についての記述もある『資治通鑑』

およそ400年後の歴史書である『資治通鑑』では、彼の時代は天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い)と紹介されています。それだけ、平和で実りのある時代だったといえます。

功績3「周辺諸国を制圧し、領土を拡大」

突厥や吐谷渾討伐で名声を上げた李靖

李世民の時代は、彼が作り上げた強力な軍隊で周辺諸国を圧倒した時代でした。特に李世民が抜擢した李靖は周辺諸国との戦争で大活躍しました。まず、中国にとって大きな脅威となっていた北方の遊牧民族突厥を軍事力と策略を用いて壊滅させます。

つづいて、現在のチベット方面にあった吐谷渾(とよくこん)を攻撃しました。吐谷渾は牧草を焼き払う焦土作戦で抵抗します。部下たちは馬の食料を確保できないことを理由に撤退を進言します。しかし、李靖は焦土作戦が敵の苦し紛れの作戦だと見抜き、攻撃を続行し吐谷渾を従わせました。

李世民の名言

夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可べ し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ

これは李世民と臣下のやり取りを数多く記録した『貞観政要』に収録されている言葉です。人は三つの鏡を持つべきだ。銅の鏡(普通の鏡)で衣服を整え、昔の歴史を鏡として国の興亡の理由を知り、他人を鏡とすることで自分の良いところと悪いところがわかるという意味です。人の意見をよく聞いた李世民ならではの名言といえるでしょう。

李世民の人物相関図

李世民とその周りの人々

李世民にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「高貴な人相が李世民の名の由来」

古来、よく用いられた「観相学」における顔の部位

李世民が4歳のころ、ある書生が李淵のもとを訪ねました。彼は李世民の顔を見るなり「龍鳳のような気品に、太陽のような貴人相」だと評しました。そして、冠礼をあげるころ(20歳ころ)に世を治め民を安んじるだろう」といいました。

このことから、彼の名は「世の民を安んじる」という意味で「世民」となりました。李世民はその名に恥じることなく、成長して名君となりました。李世民のすごさは驚くほどの失政の少なさです。民にとって、これほど住み心地の良い時代はまれかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「クーデタで2代皇帝となる」

唐王朝系図

李世民には兄がいました。李淵が皇帝となった時、兄の李建成が皇太子となります。そして、李世民は将軍として各地の群雄を討伐しました。李世民の武勲は素晴らしく、皇太子は彼に比べると影が薄い存在となります。そのため、皇太子は李世民の排除をはかりました。

このとき、配下の尉遅敬徳らは李世民に先手を打って皇太子を排除するよう進言します。結局、李世民は彼らの進言を聞き入れ挙兵し、皇太子を排除して自ら皇帝となりました。

都市伝説・武勇伝3「凡庸な子を後継者に指名して失敗」

3代皇帝となった高宗(李治)

李世民の晩年には後継者問題が発生しました。最初、皇后の子である李承乾が皇太子に指名されました。しかし、李世民は皇太子よりも弟の魏王李泰を気に入っていました。その理由は李承乾の素行が悪かったからです。皇太子李承乾は李泰を敵視しました。

そして、宮廷内では皇太子と魏王の2つの派閥が対立するようになります。ついに、皇太子はクーデタを起こそうとしますが失敗してしまいました。皇太子と魏王のどちらを残しても禍根が残ると考えた李世民は九男の李治を後継者とします。

しかし、凡庸だった李治は皇帝に即位してからも独自性を発揮することはなく、皇后の武則天に実権を握られ続けました。高宗の死後、唐は武則天にのっとられ武則天は則天武后となのります。結局、李世民は後継者選びで失敗し、王朝の一時断絶を招いたといえます。

李世民の簡単年表

598年 – 0歳「李世民誕生」

李世民は李淵の次男として生まれた

李世民の父である高祖李淵

李世民は隋王朝の名門貴族の家に生まれました。父の李淵は隋の皇太子楊広の母方の従兄弟にあたり、母は隋の前の王朝である北周の創始者宇文泰の孫でした。

李世民が生まれたころは、隋の初代皇帝文帝の時代で「開皇の治」といわれる繁栄時代です。このとき、繁栄の絶頂にあった隋王朝がわずか20年後に滅亡するなど誰一人思わなかったでしょう。

617年 – 19歳「隋の都長安を攻め落とす」

隋王朝打倒で大活躍

李淵が守っていた晋陽(現在の太原市)

617年、北方の重要拠点である晋陽を守備していた李淵は隋に対する反乱を決意します。このとき、父李淵に決断を迫ったのが李世民でした。李淵が挙兵すると彼は右領軍大都督・敦煌郡公に任じられ長安攻略の指揮を執ります。

そして、電光石火の早業で隋軍を撃破し長安に入城しました。その後も、周辺地域の制圧や他の群雄との戦いで目覚ましい功績を立て続けます。結果、彼は「天策上将」という新たな称号を贈られました。

626年 – 28歳「皇帝即位」

帝位を象徴する玉座(写真は紫禁城に残される清代の玉座)

玄武門の変で皇太子を排除

李世民は戦いの功績により秦国公に封じられ、宰相にあたる尚書令に任じられます。華々しい活躍をした李世民と比べると皇太子李建成は地味な存在でした。皇太子は次第に弟の李世民を疎んじるようになります。

すると、皇太子や側近たちは李世民の側近を彼から遠ざけ、彼の力を弱めようと画策しました。自分や部下たちの安全が脅かされるようになった李世民は兄の排除を決断します。そして、玄武門の変で皇太子派を排除します。事件の終了後、李淵は皇帝の位を李世民に譲り、彼は皇帝として即位します。

644年 – 46歳「高句麗遠征の失敗」

李世民が行わせた第一次高句麗遠征

第一次高句麗討伐に失敗し大損害を出す

唐の隣国である高句麗は隋の時代から中国と戦っていました。642年に高句麗の将軍である淵蓋蘇文がクーデタをおこし、国王を交代させました。これを好機と見た李世民は水陸両面から高句麗に攻め込みます。しかし、高句麗軍は予想に反して唐軍に激しく抵抗します。

戦いが長期化する中、北方民族の鉄勒が党の領土に攻め入ったとの知らせが入ります。対高句麗戦で短期間に勝利を得ることは不可能だと悟った李世民は高句麗から撤退します。撤退中も悪天候や寒さで大きな犠牲を出し、彼にとって苦い敗戦となります。

李世民の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

『李世民』

隋末の混乱の中、軍勢を率い大活躍する若き日の李世民を描いた小前亮の小説です。李世民本人だけではなく彼の周囲にいた武将たちにもスポットを当てた作品です。李世民と彼の仲間たちの戦いぶりを堪能できる一冊です。

おすすめのドラマ

隋唐演義~集いし46人の英雄と滅びゆく帝国~

隋唐演義は、清代に書かれた長編歴史小説です。隋の文帝の時代から、煬帝の登場と悪政、李淵の蜂起など李世民を取り巻く歴史的事実を軸に物語が進行します。李世民の死で物語が終わらず、安史の乱まで描かれるので、この時代を全体的にとらえたいという人にお勧めのドラマです。

李世民についてのまとめ

いかがでしたか?

李世民は若いころから武人として活躍し、李淵が唐王朝を建国するとき、彼は将軍として大活

躍しました。玄武門の変で皇太子を排除したのち、李世民は皇帝として唐王朝の土台を固めます。

彼のすばらしさは自分自身の能力の高さだけではなく、優秀な人材の意見を聞き使いこなしたことにあります。その意味でも非常に魅力のある人物だったのでしょう。

読者の皆様が、李世民の人生や李世民の功績などに対し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。

長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。

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