李世民とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や武則天との関係も紹介】

李世民の功績

功績1「優秀な人材を抜擢」

李世民は人材の収集と活用に並々ならぬ熱意を注ぎました。謀臣として有名なのは杜如晦と房玄齢です。彼らは知略の面で李世民を支えました。李世民が皇太子李建成を打倒した玄武門の変で計画を立てたのも彼らです。

李世民を支えた猛将尉遅敬徳

武力の面で李世民を支えたのは李靖(りせい)、尉遅敬徳(うっちけいとく)らの武将たちでした。李靖は李世民の幕僚として大活躍し、彼の中国統一を助けます。また、彼は突厥討伐の責任者となり、突厥に壊滅的な打撃を与えました。

もう一人の尉遅敬徳は猛将として知られた人物です。もともと、李世民の敵で彼との戦いに敗れ降伏した武将でした。あるとき、尉遅敬徳とともに降伏した人物が李世民に背いたことがありました。彼の配下の武将は尉遅敬徳も反乱を起こすので殺すべきだと主張します。

これに対し、彼は尉遅敬徳が背くわけがないとして部下たちの主張を退けます。そして、寝所に招いて尉遅敬徳に讒言で処罰しない旨を伝えたうえで、立ち去りたいときには立ち去ってよいと語り、金まで与えたといいます。尉遅敬徳は生涯李世民に忠誠をつくしました。

功績2「「貞観の治」とよばれる平和な時代をつくる」

貞観の治は太宗李世民と彼の臣下たちによってつくられた平和な時代です。太宗は南北朝時代から隋にかけて作られた諸制度を整備し、中央官庁にあたる三省六部を整備します。この時に活躍したのも杜如晦と房玄齢でした。

李世民についての記述もある『資治通鑑』

およそ400年後の歴史書である『資治通鑑』では、彼の時代は天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い)と紹介されています。それだけ、平和で実りのある時代だったといえます。

功績3「周辺諸国を制圧し、領土を拡大」

突厥や吐谷渾討伐で名声を上げた李靖

李世民の時代は、彼が作り上げた強力な軍隊で周辺諸国を圧倒した時代でした。特に李世民が抜擢した李靖は周辺諸国との戦争で大活躍しました。まず、中国にとって大きな脅威となっていた北方の遊牧民族突厥を軍事力と策略を用いて壊滅させます。

つづいて、現在のチベット方面にあった吐谷渾(とよくこん)を攻撃しました。吐谷渾は牧草を焼き払う焦土作戦で抵抗します。部下たちは馬の食料を確保できないことを理由に撤退を進言します。しかし、李靖は焦土作戦が敵の苦し紛れの作戦だと見抜き、攻撃を続行し吐谷渾を従わせました。

李世民の名言

夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可べ し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ

これは李世民と臣下のやり取りを数多く記録した『貞観政要』に収録されている言葉です。人は三つの鏡を持つべきだ。銅の鏡(普通の鏡)で衣服を整え、昔の歴史を鏡として国の興亡の理由を知り、他人を鏡とすることで自分の良いところと悪いところがわかるという意味です。人の意見をよく聞いた李世民ならではの名言といえるでしょう。

李世民の人物相関図

李世民とその周りの人々

李世民にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「高貴な人相が李世民の名の由来」

古来、よく用いられた「観相学」における顔の部位

李世民が4歳のころ、ある書生が李淵のもとを訪ねました。彼は李世民の顔を見るなり「龍鳳のような気品に、太陽のような貴人相」だと評しました。そして、冠礼をあげるころ(20歳ころ)に世を治め民を安んじるだろう」といいました。

このことから、彼の名は「世の民を安んじる」という意味で「世民」となりました。李世民はその名に恥じることなく、成長して名君となりました。李世民のすごさは驚くほどの失政の少なさです。民にとって、これほど住み心地の良い時代はまれかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「クーデタで2代皇帝となる」

王朝系図
出典:Wikipedia

李世民には兄がいました。李淵が皇帝となった時、兄の李建成が皇太子となります。そして、李世民は将軍として各地の群雄を討伐しました。李世民の武勲は素晴らしく、皇太子は彼に比べると影が薄い存在となります。そのため、皇太子は李世民の排除をはかりました。

このとき、配下の尉遅敬徳らは李世民に先手を打って皇太子を排除するよう進言します。結局、李世民は彼らの進言を聞き入れ挙兵し、皇太子を排除して自ら皇帝となりました。

都市伝説・武勇伝3「凡庸な子を後継者に指名して失敗」

3代皇帝となった高宗(李治)

李世民の晩年には後継者問題が発生しました。最初、皇后の子である李承乾が皇太子に指名されました。しかし、李世民は皇太子よりも弟の魏王李泰を気に入っていました。その理由は李承乾の素行が悪かったからです。皇太子李承乾は李泰を敵視しました。

そして、宮廷内では皇太子と魏王の2つの派閥が対立するようになります。ついに、皇太子はクーデタを起こそうとしますが失敗してしまいました。皇太子と魏王のどちらを残しても禍根が残ると考えた李世民は九男の李治を後継者とします。

しかし、凡庸だった李治は皇帝に即位してからも独自性を発揮することはなく、皇后の武則天に実権を握られ続けました。高宗の死後、は武則天にのっとられ武則天は則天武后となのります。結局、李世民は後継者選びで失敗し、王朝の一時断絶を招いたといえます。

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