李世民の簡単年表
598年 – 0歳「李世民誕生」
李世民は李淵の次男として生まれた
李世民は隋王朝の名門貴族の家に生まれました。父の李淵は隋の皇太子楊広の母方の従兄弟にあたり、母は隋の前の王朝である北周の創始者宇文泰の孫でした。
李世民が生まれたころは、隋の初代皇帝文帝の時代で「開皇の治」といわれる繁栄時代です。このとき、繁栄の絶頂にあった隋王朝がわずか20年後に滅亡するなど誰一人思わなかったでしょう。
617年 – 19歳「隋の都長安を攻め落とす」
隋王朝打倒で大活躍
617年、北方の重要拠点である晋陽を守備していた李淵は隋に対する反乱を決意します。このとき、父李淵に決断を迫ったのが李世民でした。李淵が挙兵すると彼は右領軍大都督・敦煌郡公に任じられ長安攻略の指揮を執ります。
そして、電光石火の早業で隋軍を撃破し長安に入城しました。その後も、周辺地域の制圧や他の群雄との戦いで目覚ましい功績を立て続けます。結果、彼は「天策上将」という新たな称号を贈られました。
626年 – 28歳「皇帝即位」
玄武門の変で皇太子を排除
李世民は戦いの功績により秦国公に封じられ、宰相にあたる尚書令に任じられます。華々しい活躍をした李世民と比べると皇太子李建成は地味な存在でした。皇太子は次第に弟の李世民を疎んじるようになります。
すると、皇太子や側近たちは李世民の側近を彼から遠ざけ、彼の力を弱めようと画策しました。自分や部下たちの安全が脅かされるようになった李世民は兄の排除を決断します。そして、玄武門の変で皇太子派を排除します。事件の終了後、李淵は皇帝の位を李世民に譲り、彼は皇帝として即位します。
644年 – 46歳「高句麗遠征の失敗」
第一次高句麗討伐に失敗し大損害を出す
唐の隣国である高句麗は隋の時代から中国と戦っていました。642年に高句麗の将軍である淵蓋蘇文がクーデタをおこし、国王を交代させました。これを好機と見た李世民は水陸両面から高句麗に攻め込みます。しかし、高句麗軍は予想に反して唐軍に激しく抵抗します。
戦いが長期化する中、北方民族の鉄勒が党の領土に攻め入ったとの知らせが入ります。対高句麗戦で短期間に勝利を得ることは不可能だと悟った李世民は高句麗から撤退します。撤退中も悪天候や寒さで大きな犠牲を出し、彼にとって苦い敗戦となります。
李世民の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
『李世民』
隋末の混乱の中、軍勢を率い大活躍する若き日の李世民を描いた小前亮の小説です。李世民本人だけではなく彼の周囲にいた武将たちにもスポットを当てた作品です。李世民と彼の仲間たちの戦いぶりを堪能できる一冊です。
おすすめのドラマ
隋唐演義~集いし46人の英雄と滅びゆく帝国~
隋唐演義は、清代に書かれた長編歴史小説です。隋の文帝の時代から、煬帝の登場と悪政、李淵の蜂起など李世民を取り巻く歴史的事実を軸に物語が進行します。李世民の死で物語が終わらず、安史の乱まで描かれるので、この時代を全体的にとらえたいという人にお勧めのドラマです。
李世民についてのまとめ
いかがでしたか?
李世民は若いころから武人として活躍し、李淵が唐王朝を建国するとき、彼は将軍として大活
躍しました。玄武門の変で皇太子を排除したのち、李世民は皇帝として唐王朝の土台を固めます。
彼のすばらしさは自分自身の能力の高さだけではなく、優秀な人材の意見を聞き使いこなしたことにあります。その意味でも非常に魅力のある人物だったのでしょう。
読者の皆様が、李世民の人生や李世民の功績などに対し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。
長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。