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豊臣秀吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、お城などについても紹介】

豊臣秀吉は、安土桃山時代に活躍した武将の一人で、天下統一をした人として有名です。農民の家で生まれながらも、持ち前の賢い頭脳や、人の心を掴む立ち振る舞いで、成り上がっていきました。そして現代でも、戦国時代に活躍した三英傑の一人として数えられるほど、有名な武将として知られています。

豊臣秀吉肖像

一般的に豊臣秀吉は織田信長の家来として、人懐っこく明るいイメージです。ドラマや映画などの作品でも豊臣秀吉は、戦の際はあまり死人が出ないように努めたり、天下統一して戦乱の時代を終わらせたりと、どこか平和的でとにかく「良い人」として描かれる事が多いですよね。

ですが天下統一した後の豊臣秀吉は、かつてあった冷静な判断力や先見性を失ってしまい、暴走してしまいます。

今回はそんな様々な顔を見せる豊臣秀吉のリアルな一生を、性格や功績なども交えて解説していきます。豊臣秀吉に噂される都市伝説や、豊臣秀吉に関連する城についても紹介していきますので、是非ご覧ください。

豊臣秀吉とはどんな人物か

豊臣秀吉の墓所
名前豊臣秀吉
誕生日天文6年2月6日(1537年3月27日)
没日慶長3年8月18日(1598年9月18日)
生地尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)
没地京都市伏見区の伏見城
正妻高台院
埋葬場所豊国神社

豊臣秀吉の生涯をハイライト

豊臣秀吉が生まれた名古屋市の現在

豊臣秀吉は天文6年2月6日に尾張の農民の家で生まれます。幼いころの記録はあまり残っていませんが、父が早くに病死し、母の再婚相手と折り合いが悪くなったため、14歳の頃に侍になるために家を出たと言われています。

豊臣秀吉は18歳の頃、出世するには天下を取れる武将の下に付くのが良いと考え、織田信長のもとで働くことになります。その後は持ち前の人懐っこさと、冷静な判断力を活かして、様々な場面で活躍をし、豊臣秀吉は織田信長の右腕と言えるほどに成長しました。

織田信長が京都の本能寺にて明智光秀に討たれたことを受けて、豊臣秀吉は織田信長の後を継いで天下を取ることに決めます。「賤ケ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」などで勝利を収めた豊臣秀吉は、ついに天下統一を果たします。

天下統一後は、関白の地位を利用して、農民に武器を持たせなくする「刀狩」や、田畑の測量を行い年貢の管理をする「太閤検地」など様々な政策を行いました。1592年から日本の領土を大きくするために、長期にわたって朝鮮出兵を行いますが、1598年に62歳で病気により亡くなり、朝鮮出兵も秀吉の死によって中断となりました。

猿面でだったことから「サル」と呼ばれていた

豊臣秀吉は「サル」と呼ばれていた

豊臣秀吉は、顔が赤っぽくて目が出ていて身長も低かったことから「サル」と呼ばれていました。

朝鮮使節が日本に来た際も、豊臣秀吉のことを「顔が小さくて猿のようだ」と語っていることから、日本人のみならず外国人から見ても、猿面だったと言うことが分かります。

また豊臣秀吉本人も自分のことを「容姿は醜く、五体も貧弱だ」と評価しています。ちなみに織田信長は豊臣秀吉の容姿を「ハゲネズミ」と評しています。

「人たらし」といわれるほど人心掌握に長けていた

豊臣秀吉に忠誠を誓っていた九鬼嘉隆

豊臣秀吉は、人心掌握に非常に長けており、様々な場面で上司や部下の心を掴み、戦国の時代を優位に渡り歩きました。

上司である織田信長に対しては、常に辛い仕事を引き受け信長が楽になるように努め、部下に対しては、厳しく当たることなく優しい言葉をかけて奮い立たせました。

このことを豊臣秀吉は「恐怖で人を支配しても、織田信長のように敵を作ってしまい身を滅ぼす。そのため上に立つのならば人に好かれる必要がある」と語っています。

この世で一番好きな食べ物は麦飯

豊臣秀吉誕生の地、名古屋市中村区

貧しい農家で育った豊臣秀吉は質素な料理を好んで食べていました。

天下をとった後は事実上日本で一番偉い人になったので、贅沢な食事をすることが多かったのですが、それでも「貧しいころに食べた麦飯」が一番おいしい食べ物だと語っています。

母親を非常に大切にしていた

豊臣秀吉の母・大政所

豊臣秀吉は非常に母親思いだったと言われています。天下をとり、多忙な毎日の中でも母親には定期敵に手紙を出し、健康を案じていました。

母親の危篤を聞いた際には全ての仕事を取りやめ、すぐさま帰京しましたが、臨終には間に合いませんでした。このことにはかなりのショックを受けたようで、しばらくの間まともにしゃべることが出来ない程でした。

天下統一する前は冷静な性格で先見性を持っていた

高松城水攻築堤の図

豊臣秀吉は天下統一する前は冷静な性格で先見性を持っていたと考えられます。というのも、豊臣秀吉は18歳の頃、まだ大きな力を持っていなかった織田信長を主君として選びます。そこで織田信長が天下統一することを信じて、誰よりも仕事をして出世し、それが後に天下統一することに繋がることになります。

戦においても、水攻めや兵糧攻めを用いて、出来るだけ死人が出ないように努めました。これも自分が天下統一した後に、国の力を保つための作戦だと思われます。

天下統一後は傲慢になり暴走する

文禄の役での釜山城攻略

天下統一後の豊臣秀吉はそれまでと一転して、傲慢になり自分勝手な性格で暴走します。諸説ありますが、甥である豊臣秀次を後継者にさせたくないがために、豊臣秀次とその側近全てを処刑します。

他にも、茶道に関する考えの違いから千利休を切腹させるなど、天下統一後の豊臣秀吉は、人の命を出来るだけ大切にしてきた、以前の豊臣秀吉とは大きく変わっています。

また、天下統一前は部下の意見を尊重していた豊臣秀吉ですが、天下統一後は部下の意見を無視して朝鮮出兵を強行しています。

豊臣秀吉の功績

功績1「墨俣城を一夜で完成させ大きく出世する」

墨俣城跡地にある歴史資料館

豊臣秀吉の有名なエピソードとして「墨俣一夜城」と言うものがあります。

織田信長は、現在の岐阜県である美濃を攻めるため墨俣に城を作ろうとしますが、付近ではたびたび戦が発生するのでなかなか城が完成しませんでした。そこで豊臣秀吉が川の流れを利用して木材を輸送する案を思い付き、わずか数日で城を完成させることに成功しました。

実際には一夜ではなく数日かかっていますが、あまりにあっという間に完成したため「一夜城」と言われています。豊臣秀吉はこれをきっかけに大きく出世し、織田信長からの信頼も厚くなったといわれています。

功績2「天下統一をし戦乱の時代を終わらせる」

長く続いた戦国時代を終わらせる

豊臣秀吉は、織田信長の死後、次々と全国の有力大名を従わせることに成功します。1585年に関白を命じられ、太政大臣となったことから日本の権力において頂点に立ち、天下の統一を成し遂げたことになります。

これにより日本の戦乱の時代を一時的に終わらせ、平和をもたらしました。また太閤検地を行い、農民には土地の所有を認めるかわりに年貢を収めさせる事にし、刀狩を行うことで反乱なども起きないようにしました。

豊臣秀吉に関連する城

豊臣秀吉には城に関するエピソードが多々あります。そこでここからは豊臣秀吉に関係する城についていくつか紹介していきます。どの城も現在も見ることが出来るので興味のある方は是非実物をご覧になって見てください。

墨俣一夜城

「墨俣一夜城」と言う名の歴史資料館

岐阜県の大垣市墨俣町に建てられていた城です。この墨俣城は現在はもうありませんが、墨俣城跡地には「墨俣一夜城」と言う名の歴史資料館が建っており、ここでは墨俣城と豊臣秀吉について学ぶことが出来ます。

墨俣は戦国時代において、交通や戦略の関係上、非常に重要な場所に位置しており、この場所に城があるかどうかで、戦いが大きく変わっていたそうです。そんな重要な場所にあるため、敵からも狙われやすくなかなか城が完成しませんでした。

そこで豊臣秀吉は、近くに川が流れていることを利用し、城に必要な木材を別の場所である程度加工して、川に流して輸送して組み立てるという作戦を思いつきます。この作戦はうまくいき、わずか数日で城が完成しました。これを「墨俣一夜城」といって、豊臣秀吉の有名なエピソードとして今も語り継がれています。

小田原城

豊臣秀吉が天下統一の為に最後に攻略した小田原城

小田原城は、神奈川県小田原市にある城です。明治時代にほとんどの建物が取り壊されてしまいましたが、現在は順調に復旧が進んでいます。北条氏の本拠地として有名で、上杉謙信や武田信玄の侵攻も防いでおり、戦国時代において最強の城で難攻不落といわれていました。

豊臣秀吉が天下統一の為に最後に攻略した城としても有名で、北条氏は3か月にわたり籠城戦を行いましたが、豊臣軍の多さとしぶとさにとうとう観念し降伏しました。豊臣秀吉が小田原城を攻略したことによって、とうとう名実ともに天下統一が果たされることになりました。

伏見城

豊臣秀吉が自らの隠居所として築いた伏見城

伏見城は、京都府伏見区に1591年に豊臣秀吉が自らの隠居所として築いた城です。この周辺は平安時代から月が綺麗に見られる名所として知られており、豊臣秀吉はこの辺りを散策し、一番月が綺麗に見えた場所を指定して城を建てたと言われています。

また伏見城は豊臣秀吉が生涯を終えた場所としても有名です。豊臣秀吉が亡くなった後は徳川家康が一度焼き払いましたが、後に再建し晩年の徳川家康もまたこの伏見城を居城としたそうです。

豊臣秀吉の名言

頭の良い豊臣秀吉ならではの名言も

「人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。」

豊臣秀吉は前述の通り非常に頭が良く、誰よりも機転を聞かせて出世してきました。そんな頭の良い豊臣秀吉らしい名言です。

「返す返す秀頼のこと 頼み申し候 五人の衆 頼み申し候」

死期を悟った豊臣秀吉が、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜田秀家・毛利輝元・上杉景勝)に息子である豊臣秀頼の事を頼むとお願いしています。ですが悲しいことに、この五大老は後に関ヶ原の戦いで豊臣秀頼をめぐって戦うことになります。

「露と落ち 露と消えにし わが身かな なには(浪速)のことも 夢のまた夢」

豊臣秀吉の辞世の句と言われています。露のように生まれ、露のように死んでいく人生。大阪で過ごしたことも夢の中のようだ。と謳っています。

豊臣秀吉にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「指が6本あった?」

親指が2本ある多指症

豊臣秀吉は指が6本あったといわれています。

右の親指が2本ある多指症で、この時代でも多指症は幼いころに切断して指を5本にするのですが、豊臣秀吉は死ぬまで6本指のままでした。豊臣秀吉は、農民出身だったがために、多指症の指を切り落とすという習慣が無かったのかもしれません。

このことはルイス・フロイスや前田利家が記録しており、信憑性が高いです。ですが豊臣秀吉は天下人になった後は、この事実を抹消し、肖像画も自分の右手の指が描かれないようにしました。

都市伝説・武勇伝2「実は本能寺の変の黒幕だった?」

本能寺の変を起こした明智光秀肖像

本能寺の変は、明智光秀が謀反を起こし、織田信長を襲撃した事件ですが「本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉」という説があります。

本能寺の変の際、豊臣秀吉は「備中高松城の戦い」に参加していました。そこで豊臣秀吉は戦いに援軍が必要だとして、織田信長に救援を要請します。ですが実際には救援が必要なほど戦いには苦戦しておらず、この救援を受けたがために明智光秀は織田信長に疑いをかけられることなく軍を集めることができ、織田信長を討つことが出来ました。

また豊臣秀吉は織田信長が討たれたと一報を受けると、すぐさま戦いを中断し京都に帰って明智光秀を討ちます。これも非常に手際が良く、織田信長が死ぬと分かっていて事前に準備していなければ難しいと思われます。

ただ「本能寺の変の黒幕」については様々な人物で考察されており、豊臣秀吉もその一人に過ぎないので信憑性は定かではありません。ただ結果的にこの本能寺の変で一番得をしているのは、後に天下人となる豊臣秀吉だということや、秀吉の頭の良さを考えると、秀吉が黒幕という可能性は高いのかもしれません。

都市伝説・武勇伝3「自分を神として祀らせようとした?」

豊臣秀吉を祀る豊国神社

豊臣秀吉は日本史上初めて、自分を神として祀らせようとした人物と言われています。代々日本では人々に神格化されて祀られることはありましたが、自ら名乗り出て神となろうとした人はいませんでした。

豊臣秀吉が神になろうとした経緯については明らかにはなっていませんが、死に際に息子・秀頼の未来の事を想っていたことから、自分が神格化されることで家族や豊臣家が守られた存在になると、考えたのかもしれません。

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