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豊臣秀吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、お城などについても紹介】

豊臣秀吉の年表

1537年 – 0歳「尾張の農家の子として生まれる」

農民の家に生まれる

暴力を振るわれ父親とは仲が悪かった

豊臣秀吉は天文6年2月6日(1537年3月27日)に尾張の農民の家で生まれました。

幼いころの記録は少なく、あまり確かな情報は残っていませんが、実の父が早くに病死し、その後、母の再婚相手には暴力を振るわれることも多かったと言われています。それに耐えかねた秀吉は、14歳の頃に武士になるために家を出ます。

木下藤吉郎を名乗るようになる

家を出た豊臣秀吉は木下藤吉郎と名乗るようになり、現在の静岡県である遠江国に旅に出ます。

家を出る際に貰った亡父の遺産を使って、針売りなどの商売をしながら生活をしていました。遠江国で豊臣秀吉は、今川氏の家臣である飯尾氏の配下の松下之綱に仕えるようになります。

1555年 – 18歳「織田信長に仕えるようになる」

秀吉が仕えた織田信長肖像

出世するための道を選ぶ

松下之綱に仕えていた豊臣秀吉ですが「天下を取れる武将に付いて出世しよう」と考え、織田信長のもとで働くことになります。まずは織田信長に顔を覚えてもらい、気に入ってもらえるように毎日懸命に働きました。

頭の良さを活かし織田信長に好かれるようになる

織田信長に仕えるようになった豊臣秀吉は、主に清洲城の普請奉行や台所奉行などを行いました。内容としては城の土木関係の業務や上水の管理などです。

また冬の寒い日は、織田信長の草履を自分の服の中で温めて渡しすなどして、織田信長を喜ばせていました。こういった気の利いた行動や戦場での活躍により、豊臣秀吉は織田信長には無くてはならない存在となっていきます。

1561年 – 25歳「高台院と結婚する」

高台院肖像

周囲の反対を押し切って結婚する

1561年、豊臣秀吉が25歳の頃に高台院(通称:ねね)と結婚します。高台院は「浅野家」と言われるれっきとした武士の家系だったため、農民出身である豊臣秀吉との結婚は許されなかったそうですが、なんとかこの反対を押し切って二人は結婚することに成功します。

この二人の結婚は当時としては珍しい恋愛結婚で、高台院の母・朝日は、豊臣秀吉が天下をとった後もこの結婚のことには納得していなかったそうです。

高台院は豊臣家に無くてはならない存在に

高台院は豊臣秀吉との間に子供がなかなかできなかったことから、親族の子供や豊臣家に預けられた子供たちを育てていました。その子供たちの中には、加藤清正や石田三成も含まれており、彼ら高台院に育てられた恩もあったため、豊臣秀吉が亡くなった後も、豊臣家の行く末を案じていました。

また高台院は、豊臣秀吉が合戦で留守の際は、代わりに家臣をまとめて豊臣秀吉の妻としての責務を全うするなど、豊臣家に無くてはならない存在となっていきました。

1582年 – 47歳「本能寺の変が起こる」

本能寺焼討之図

織田信長が明智光秀に討たれる

1582年、豊臣秀吉は中国地方の毛利氏を討つために、現在の岡山県である備中国高松にて戦いを始めます。その頃京都では本能寺の変が起こります。織田信長は寝込みを明智光秀の軍に襲われ、はじめは弓で応戦しましたが、あまりの軍勢に負けを悟り、殿中の奥深くにこもって切腹し倒れます。

これによって明智光秀は、織田信長の首(遺体)を見つけることが出来ませんでした。首を見つけられなかったことで、織田信長配下の武将たちは織田信長生存説を否定できないがために、明智光秀の天下取りの誘いには乗ることが出来なかったといわれています。

山崎の戦い

織田信長が討たれた事を知った豊臣秀吉は、戦いをしていた毛利氏とすぐさま和解をし、明智光秀を討つために軍を京都に引き返します。明智軍は京都の山崎で豊臣軍を待ち構えましたが、豊臣軍は戦場を見下ろせる天王山を占領します。

川と天王山に挟まれる形になり、不利な状態の明智軍は攻撃を開始しますが、豊臣軍の多さと盤石な構えにより、あっけなく敗戦します。負けを悟った明智光秀は戦場から逃げますが、落ち武者狩りの農民に攻撃され深手を負い、自害しました。

1583年 – 48歳「豊臣秀吉が織田信長の地位を継ぐ事になる」

賤ヶ嶽大合戦の図

清洲会議

明智光秀が死亡してすぐに、織田信長の跡継ぎをめぐり清須会議が開かれます。この会議は豊臣秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人が集まりました。織田信長の三男である織田信孝を推す柴田勝家と、織田信長の孫である織田秀信を推す豊臣秀吉が激しく対立することになります。

結局同席した丹羽長秀、池田恒興の二人が豊臣秀吉側についたので、跡継ぎは織田秀信に決まりました。

賤ヶ岳の戦い

織田信長の代わりに天下を取ることに決めた豊臣秀吉は、次々と戦いを始めることにします。豊臣秀吉は1582年に柴田勝家の甥・勝豊が守る長浜城を攻撃し降伏させます。これに怒った柴田勝家は1583年に賤ヶ岳にて豊臣軍と戦います。これを「賤ヶ岳の戦い」と言います。

この戦いで柴田勝家に勝利した豊臣秀吉は、実質的に織田信長の後を継ぐことになり、これによって本格的に天下統一に乗り出すことになります。

1584年 – 49歳「天下に勢威を示す」

長久手古戦場

織田信雄と豊臣秀吉の関係が悪化する

賤ヶ岳の戦いにて、織田信長の次男・信雄と豊臣秀吉は共闘しましたが、その後、織田信雄は安土城を退去させられた事に怒り二人の関係が悪化します。これ以降、織田信雄は徳川家康と同盟を組み、豊臣秀吉と関係の深い「津川義冬」「岡田重孝」「浅井長時」の3名を処刑します。

これを機に豊臣秀吉と、織田信雄擁する徳川軍の戦が始まります。

小牧・長久手の戦い

1584年の「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉は徳川軍と戦います。この戦では豊臣軍は攻め込まれ不利な状況になりますが、その間に豊臣秀吉は織田信雄と和解しており、戦う意味が無くなった徳川家康は攻撃をやめ休戦となります。

これにより、織田信雄の影響力を排除することに成功した豊臣秀吉は、更に徳川家康も家臣にすることに成功し、天下統一へ大きく一歩進みました。この戦い以降は、九州征伐・小田原征伐・奥州征伐と次々と有力大名破っていき、ついに天下統一を果たします。

1591年 – 56歳「千利休を切腹させる」

千利休肖像

1591年に豊臣秀吉は茶人でもあり側近の千利休を切腹させています。これの原因については

  • 豊臣秀吉と茶道に対する考えで対立したため
  • 安い茶器を高値で売り、儲けようとしたため
  • 豊臣秀吉の朝鮮出兵を否定したため

など様々あり、詳しくは分かっていません。

1592年 – 57歳「朝鮮出兵を行う」

文禄の役

文禄の役

天下統一を果たした豊臣秀吉は1592年、日本の領土拡大のため中国まで支配しようと考えて、朝鮮半島へ15万もの兵を送り出します。

ですが、中国・朝鮮軍の戦力に苦戦を強いられた豊臣軍は、一旦引き上げることになります。

慶長の役

1597年まで両国の関係は穏便に済んでいましたが、和平交渉が決裂され戦いが再開します。

再び15万近い兵を送り出し、戦いを始めますが部下である五大老達の仲が悪く、朝鮮出兵に反対しているものも多食いました。そんな中、1598年に豊臣秀吉が死んでしまいます。それにより、日本が不安定な状況になってしまい、この戦いは日本軍の撤退で終結を迎えます。

1595年 – 60歳「甥・秀次を切腹させる」

豊臣秀次肖像

1595年豊臣秀吉は甥である秀次を切腹させます。

この理由については諸説ありますが、実の息子である秀頼が生まれたため、甥である豊臣秀次を後継者にさせたくないがために、謀反の疑いをかけて切腹させたと言われています。

1598年 – 62歳「62歳で生涯を終える」

伏見城で亡くなる

1598年、豊臣秀吉は62歳で生涯を終えることになります。

死因については分かっておらず、大腸がん、梅毒、脚気など様々な憶測があります。明使として日本に来た、沈惟敬が毒殺したという説もありますが、来日した年が秀吉が死んだ年と合っていないため信憑性は薄いです。

豊臣秀吉の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

新史 太閤記

「新史 太閤記」は司馬遼太郎が描く、豊臣秀吉の物語です。豊臣秀吉がいかにして織田信長のもとで出世していったのかを知ることが出来ます。豊臣秀吉が好きな方でも司馬遼太郎が好きな方でも楽しむことが出来ますし、これから豊臣秀吉のことをもっと知りたいという方にもおすすめの書籍です。

戦国人物伝 豊臣秀吉

「戦国人物伝 豊臣秀吉」は漫画で豊臣秀吉の一生を勉強することが出来ます。漫画なので非常に読みやすく、子供にもおすすめです。豊臣秀吉の一生は非常に濃厚で、漫画1冊ではなかなか網羅しにくいのですが、重要な部分はしっかり描かれているので、これ1冊でも十分豊臣秀吉を知ることが出来ます。

豊臣秀吉をよく知れるおすすめ本6選【漫画や伝記、小説まで】

おすすめドラマ・映画

清須会議

「清須会議」は三谷幸喜が監督した映画です。織田信長の死後に、誰が後を継ぐかを決めるために開かれた清須会議を題材にしています。映画として非常に良くまとまっており、ストレスなく見ることが出来ます。脚色は多いですが、豊臣秀吉をとりまく人物関係が良く分かるので、豊臣秀吉を知る上では見ておきたい映画の1つです。

秀吉

「秀吉」は竹中直人主演の大河ドラマです。大河ドラマなだけあって内容も非常に重厚感があり、豊臣秀吉の一生を知るにはもってこいのドラマです。これから豊臣秀吉について勉強したい方、既に豊臣秀吉のことを良く知っている方、どんな人にもおすすめできる作品です。

関連外部リンク

豊臣秀吉についてのまとめ

今回は豊臣秀吉の一生や人物像について紹介していきました。豊臣秀吉は明るく陽気なイメージが強いですが、実は非常に頭が良く人の裏をかくのが人物ということが分かりました。もしかしたら明るく陽気なキャラクターも人に好かれるための、作戦だったのかもしれません。

ただどんな人物であれ、日本で天下統一を果たし、戦国時代を終わらせた偉大な人物であることは間違いありません。現代において、織田信長ほどの人気は豊臣秀吉にはありませんが、日本に与えた影響としては、織田信長と並ぶほどだったといっても過言では無いでしょう。

今回の記事をきっかけに、豊臣秀吉や戦国時代に更に興味を持ってもらえたのであれば幸いです。

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