免罪符とは、16世紀ごろのヨーロッパで盛んに発行された証明書の一つです。カトリック教会が主体となって発行していたそれは、贖宥状(しょくゆうじょう)とも呼ばれ、カトリック教会の激動の引き金となりました。
”免罪符”という言葉は、現在も慣用句として使われることがあり、そのイメージからあまり良い意味で受け取られることが無い言葉でもあります。実際の所、この免罪符の発行がプロテスタントの勃興に繋がり、カトリック教会の権威の低下を招いたことから、歴史的に見てもマイナスの評価を受けることが多いのが、この免罪符という証明書であり制度でしょう。
しかし、それでは果たして”免罪符”という制度は、本当に正当性のない愚策だったのでしょうか?この記事では、免罪符という制度が辿った隆盛と衰退を振り返りつつ、その正当性を考えられるようにしていきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
そもそも免罪符とは何か
それではまず、免罪符の正当性を考えるにあたって必要な最低限の情報である、「免罪符とはそもそも何なのか」と「免罪符の歴史」について紹介していきたいと思います。
そもそも免罪符とは、その名が示す通り「罪の許しを与える」あるいは「罪の軽減を認める」ことの証明として、カトリック教会が発行した証明書のことでした。この証明書は主に金銭と引き換えにして発行され、そこで得た資金は教会の建築など、カトリック教会に関わる事業のために使われていたことが分かっています。
と、これだけ聞くと「教会の腐敗」というイメージが湧きますが、実のところ話はそこまで単純ではなく、実は免罪符の誕生にはのっぴきならない事情も関係していることが、歴史からも読み取ることができるのです。
というわけで次は、「免罪符の歴史」について説明していきましょう。
免罪符制度の誕生
免罪符と呼ばれる教会が発行する証明書は、16世紀に大規模に発行されたことが有名ですが、実は10世紀末ごろには既に発行が行われていました。
当時のキリスト教、とりわけカトリック教会の宗教観では「犯した罪に許しを求める事」は非常に重要視されていました。
- 自身が犯した罪を悔い改め、心から反省すること(痛悔)
- 司祭に罪の告白を行い、罪の許しを得ること(告白)
- 罪の許しに見合った償いを行なうこと(償い)
これらのプロセスを経ることで、現世で犯した罪は許され、来世の幸福な生が約束される。当時のカトリック教会はそんな教えを説き、とりわけ”償い”のプロセスとして、教会への寄進などの金銭的援助や、カトリック教会の意向に対する何らかの援助を推奨していたのです。
そして免罪符と呼ばれる制度の原型が誕生したのは、良かれ悪しかれ”教会の意向”と呼ばれるものが色濃く発露された歴史上の事件「十字軍遠征」。
その遠征の際にカトリック教会は「遠征への参加者には罪の許しを与える」「参加できないものは、この遠征に金銭を援助することで、参加者と同等の許しを与える」と発表。この後者の発表により「金銭で罪の許しを得る」という免罪符の制度の原型が形作られることとなりました。
聖年の開始と教会大分裂(大シスマ)の時代
十字軍遠征から少しばかり時が経った頃、時の教皇ボニファティウス8世が「ローマに巡礼することで罪の許しを与える」という聖年の制度をはじめたことが、免罪符という証明書制度の始まりとなりました。
とはいえ、この制度そのものは2020年現在も存続しており、免罪符制度に伴う教会の腐敗に直接的にかかわっているわけではないことに注意が必要です。
そして”免罪符”と呼ばれる証明書類が発行されるようになったのは、教皇ボニファティウス9世が即位していた14世紀末ごろ。
当時のヨーロッパは「教会大分裂」というカトリック教会内部の対立が激化していた時期であり、聖年に伴う罪の許しが得たくとも、軽々しくローマに向かうことができない状況が続いていました。そして、そんな状況の中で罪の許しを与えるべく教会が発行したのが、現在の我々がイメージする”免罪符”だったのです。