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免罪符とは?意味や誕生のきっかけ、歴史を分かりやすく解説

免罪符とは、16世紀ごろのヨーロッパで盛んに発行された証明書の一つです。カトリック教会が主体となって発行していたそれは、贖宥状(しょくゆうじょう)とも呼ばれ、カトリック教会の激動の引き金となりました。

レオ10世によって発行された実際の免罪符。”符”というよりは証明書のようなイメージが強い。

”免罪符”という言葉は、現在も慣用句として使われることがあり、そのイメージからあまり良い意味で受け取られることが無い言葉でもあります。実際の所、この免罪符の発行がプロテスタントの勃興に繋がり、カトリック教会の権威の低下を招いたことから、歴史的に見てもマイナスの評価を受けることが多いのが、この免罪符という証明書であり制度でしょう。

しかし、それでは果たして”免罪符”という制度は、本当に正当性のない愚策だったのでしょうか?この記事では、免罪符という制度が辿った隆盛と衰退を振り返りつつ、その正当性を考えられるようにしていきたいと思います。

そもそも免罪符とは何か

免罪符の販売風景を描いた絵。当時の社会情勢を的確に描いている。

それではまず、免罪符の正当性を考えるにあたって必要な最低限の情報である、「免罪符とはそもそも何なのか」と「免罪符の歴史」について紹介していきたいと思います。

そもそも免罪符とは、その名が示す通り「罪の許しを与える」あるいは「罪の軽減を認める」ことの証明として、カトリック教会が発行した証明書のことでした。この証明書は主に金銭と引き換えにして発行され、そこで得た資金は教会の建築など、カトリック教会に関わる事業のために使われていたことが分かっています。

と、これだけ聞くと「教会の腐敗」というイメージが湧きますが、実のところ話はそこまで単純ではなく、実は免罪符の誕生にはのっぴきならない事情も関係していることが、歴史からも読み取ることができるのです。

というわけで次は、「免罪符の歴史」について説明していきましょう。

免罪符制度の誕生

十字軍遠征が始まった頃から、教会が特例で罪の軽減を認める制度は存在していた。

免罪符と呼ばれる教会が発行する証明書は、16世紀に大規模に発行されたことが有名ですが、実は10世紀末ごろには既に発行が行われていました。

当時のキリスト教、とりわけカトリック教会の宗教観では「犯した罪に許しを求める事」は非常に重要視されていました。

罪の許しを得ることは、カトリック教会の宗教観の中で重要なことだった。
  • 自身が犯した罪を悔い改め、心から反省すること(痛悔)
  • 司祭に罪の告白を行い、罪の許しを得ること(告白)
  • 罪の許しに見合った償いを行なうこと(償い)

これらのプロセスを経ることで、現世で犯した罪は許され、来世の幸福な生が約束される。当時のカトリック教会はそんな教えを説き、とりわけ”償い”のプロセスとして、教会への寄進などの金銭的援助や、カトリック教会の意向に対する何らかの援助を推奨していたのです。

そして免罪符と呼ばれる制度の原型が誕生したのは、良かれ悪しかれ”教会の意向”と呼ばれるものが色濃く発露された歴史上の事件「十字軍遠征」。

その遠征の際にカトリック教会は「遠征への参加者には罪の許しを与える」「参加できないものは、この遠征に金銭を援助することで、参加者と同等の許しを与える」と発表。この後者の発表により「金銭で罪の許しを得る」という免罪符の制度の原型が形作られることとなりました。

聖年の開始と教会大分裂(大シスマ)の時代

ボニファティウス8世が始めた”聖年”の制度が、免罪符制度の始まりになったとも言える。

十字軍遠征から少しばかり時が経った頃、時の教皇ボニファティウス8世が「ローマに巡礼することで罪の許しを与える」という聖年の制度をはじめたことが、免罪符という証明書制度の始まりとなりました。

とはいえ、この制度そのものは2020年現在も存続しており、免罪符制度に伴う教会の腐敗に直接的にかかわっているわけではないことに注意が必要です。

そして”免罪符”と呼ばれる証明書類が発行されるようになったのは、教皇ボニファティウス9世が即位していた14世紀末ごろ。

当時の混乱した社会情勢の中で、ボニファティウス9世は免罪符による罪の軽減を認めることになった。

当時のヨーロッパは「教会大分裂」というカトリック教会内部の対立が激化していた時期であり、聖年に伴う罪の許しが得たくとも、軽々しくローマに向かうことができない状況が続いていました。そして、そんな状況の中で罪の許しを与えるべく教会が発行したのが、現在の我々がイメージする”免罪符”だったのです。

”免罪符”の隆盛と教会の腐敗

レオ10世が免罪符による経済効果に気づいてしまったことで、制度と教会は徐々に暴走を始める。

教会大分裂の時代に、ローマへの巡礼が困難であることを加味して発行された免罪符でしたが、その金銭的な有用性に、16世紀の教皇レオ10世が気づいたことで、話は快くない方向――教会の腐敗を示す方向に進むこととなります。

元々商人の家系であるメディチ家出身で、ぜいたくな暮らしを好んでいたレオ10世は、その費用としてドイツの豪商であるフッガー家に多額の借金を抱えることになっていました。そして、その借金を返済するために彼が目を付けたのが”免罪符”という制度だったのです。

「サン・ピエトロ大聖堂の再建のため」という題目で売り出された免罪符だったが、実際はレオ10世の借金返済に充てられた。

レオ10世は自身の拵えた借金の返済のために、表向きは「サン・ピエトロ大聖堂の再建費用の徴収」として免罪符を発行。この時の免罪符は「罪の軽減」ではなく「罪の全面的免除」をうたい文句として発行されたため、非常に多くの市民がそれを買い求める事態となりました。

しかし、これに対して待ったをかける教会関係者も多く、結果としてこの「レオ10世による免罪符の発行問題」が、後に起こるプロテスタントの勃興などの「宗教改革」へと繋がっていくこととなるのです。

「95か条の論題」と宗教改革

マルティン・ルターの登場によって、カトリック教会は改革されていくことになる。

レオ10世が発行した免罪符の一番の問題点は「免罪符の購入者に、罪の全面的な許しを与える」という部分でした。この部分については多くの神学者たちが疑問を唱えていたようで、この時点でカトリック教会の権威はかなり揺らいでいたことがわかります。

当時の免罪符を売る際の口上として「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」というものが残されていることからも、教会が免罪符の制度を明らかに乱用していたことはご理解いただけるでしょう。

ルターによる「95か条の論題」の発表は、宗教改革の引き金となった事件として有名。

そしてそのような中で、神学者マルティン・ルターが免罪符の販売を行っていたドミニコ修道会への批判を開始。1517年に「95か条の論題」を発表したことを契機として、プロテスタントの勃興に代表される宗教改革の口火が切られることになりました。

ただしルター自身は聖職者の腐敗を槍玉にあげて「95か条の論題」を発表したわけではなく、あくまでも「罪の完全な免除というのは教理の乱用である」という主張をしていただけに過ぎません。

そのため、たまに言われる「95か条の論題によって教会の腐敗が取り沙汰され、宗教改革が始まった」という説明は、正しくはありますがイメージされる部分とは少し異なるところに注意が必要となっています。

何故免罪符が必要だったのか

教会の腐敗の象徴のような免罪符だが、当時の民衆からは凄まじい需要があったのも事実である。

前述のトピックで、「免罪符とはそもそも何なのか」と「免罪符の歴史」については多少なりとご理解いただけたかと思います。しかし現在の我々からすれば「教会から与えられる罪の許しって、そうまでして欲しいものだったの?」という疑問も浮かんでくるかもしれません。

というわけでこのトピックでは、民衆の心理と教会や権力の心理から「何故免罪符が必要だったのか」を説明していきたいと思います。

”天国へ行くこと”を求めた民衆の心理

当時の民衆からすると、「罪が許される」ということは文字通りの”救い”だった。

当時のカトリック教会の価値観においては「人は生きているだけで大なり小なり罪を犯す」と考えられていました。だからこそ「痛悔→告白→償い」というプロセスを経て罪の許しを求める制度が誕生したのですが、実はこの制度にはある欠陥が存在していたのです。

人間は「痛悔→告白→償い」というプロセスを経て、罪を清めてから死ぬことで天国へ行くことができると考えられていましたが、その罪を完全に清めることなく死んだ者は、死後”煉獄(れんごく)”に落ちるとされていました。

罪の許しを得ていない魂は、煉獄の炎で焼かれることで罪を償ってから天国へ向かうことを許される。

煉獄に落ちた魂は、浄罪しきれなかった罪に対する罰として炎で焼かれ、それから天国へ向かうことができるとされていました。これだけ聞くと「キチンと罪を償っていたら問題ないのでは?」と思うかもしれませんが、ここに当時の情勢も加味した落とし穴があります。

単純に、当時の医療や衛生状態は現代と比べると悪く、とりわけ伝染病や戦争などのいつ起こるか分からない災禍によって、民衆はバタバタ死んでいきました。当然そのような死を予測できるわけもなく、民衆たちのほとんどは罪を償いきることも出来ぬまま死んでいく事がほとんどだったのです。

伝染病や戦争など、当時の民衆は本当に「いつ死ぬか分からない」という状況に置かれていた。

そして、そのような民衆の心理をある種利用したのが、前述のトピックでも登場したレオ10世やドミニコ修道会などのカトリック教会。「それさえあれば煉獄の罪すら免除される」――つまり「いつ死んでしまっても安心して天国に行ける」ことを保証した免罪符は、いつ死ぬか分からない状況にあった民衆にとっては、まさに救いそのものだったのです。

そのような民衆心理から、まさに飛ぶように売れたレオ10世の免罪符。教会権力の乱用として映りがちなそれですが、当時の民衆からすると救いの神に等しかったという側面も、この制度を考えるうえで忘れてはならない部分です。

とにかく資金が必要だった教会や権力者の立場

何をするにもお金は必要。そう言った意味では需要と供給が噛み合っていた免罪符という制度。

当時の情勢や宗教観が絡み、少し複雑な民衆の立場と違い、レオ10世やドミニコ修道会などのカトリック教会の立場はある意味で単純でした。彼らはとにかく「資金が必要」だったのです。

自身のぜいたくな暮らしのために免罪符を発行したレオ10世。

例えば、免罪符にまつわる問題の始まりとなったレオ10世は、自身のぜいたくな暮らしによって膨れ上がった借金を返済するために、是が非でも資金を集める必要がありました。ルネサンス文化を庇護し、その最盛期を迎えさせた功績はありますが、この部分はさすがに看過できない愚策だと言えるでしょう。

神聖ローマ帝国のマインツ大司教・アルブレヒトも、免罪符により財を築こうとした人物として知られる。

また、後の宗教改革がとりわけ激しかった神聖ローマ帝国では、政治的な権威を求めた司教アルブレヒトによって免罪符の発行が盛んに行なわれました。ここでの免罪符の販売を取り仕切ったのは、レオ10世にも金を貸していた豪商・フッガー家であり、この免罪符事業に端を発したフッガー家の隆盛も、後の宗教改革に影響を与えることになりました。

ともかく、切実に救いを求めた民衆心理とは違い、ある意味そこに付け込む形で権力者や教会は免罪符による資金集めを行っていきました。「小悪党めいた」という言い回しがぴったりな、どうにも腐敗しきった印象を抱く彼らの行いですが、少なくともそんな彼らが唱える”救い”に縋る必要があるほど、免罪符に需要が存在していたことも事実として考えておかねばなりません。

免罪符に関わり深い人物

教皇・レオ10世

ぜいたく好みな暗君の印象が強いレオ10世だが、文化的には世界史でも有数の重要人物である。

「サン・ピエトロ大聖堂の再建費用」という名目で免罪符の乱用を開始し、ある意味で言えば後の宗教改革の引き金となった人物です。

「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代であるユリウス2世が蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」と皮肉られるほどのぜいたく好みの放蕩家として知られ、政治家としてはあまり優秀ではない人物だったと評価されています。

しかしその一方でルネサンス文化を庇護し、多くの芸術家のパトロンとしてルネサンスの最盛期を築き上げたことから、芸術分野においてはなくてはならない人物ともなっています。

また、晩年には(多分に感情的な事情があるとはいえ)プロテスタントの一派であるイングランド国教会を創設しているなど、暗君のようでこそあれ、どうにも評価が難しい人物だとも言えそうです。

ヨハン・テッツェル

教義に背いてまで免罪符の販売を行った人物として悪名高いのが、このヨハン・テッツェルという人物。

マインツ大司教であるアルブレヒトから、免罪符の販売実務を委託されたドミニコ修道会の修道士として、とりわけ有名な人物です。

ドミニコ修道会は「免罪符を売るためなら教義に反することもいとわない」と言われるほど悪名高く、その中でもテッツェルが免罪符を売りさばく際に並べた口上は、現在でも当時の教会の腐敗を示す言葉として語られています。

テッツェルによる免罪符の販売風景を描いた絵。テッツェルはロバに乗せられ、強欲さを皮肉られている。

ルターが伝えることによれば、テッツェルの主張の中には、

  • 聖母マリアを犯して子供を孕ませたとしても、贖宥状を買えば許しを得ることができる。
  • テッツェルの代わりに聖ペテロが免罪符を売りに来たとしても、テッツェルの方が聖ペテロより多くの許しを与えることができる。
  • 現教皇の紋章である赤い十字架は、キリストの十字架と同じ力がある。
  • 免罪符を買う際に、聖職者への告解と懺悔を受ける必要はない。
  • これから犯す罪に対しても有効である。
  • 免罪符は天国への入場券である。
  • おまえの母親は今、煉獄で何千年にも渡って焼かれている。この免罪符を買うと、おまえの母親は天国に入ることができる。

と、これだけの明らかに教義に反した主張が含まれていたと言われています。しかしテッツェル自身は後に「このような主張はしていない」と真っ向から否定しているため、その真相はわかっていません。

また、テッツェルに関する記述は「また聞き」である部分も非常に多いため、彼は教会の腐敗に対するスケープゴートにされたという主張も、現在では非常に根強く語られているようです。

マルティン・ルター

宗教改革の立役者として名高いルターだが、本人がその立場を望んでいたかというと…?

宗教改革の始まりの事件として有名な『95か条の論題』を発表した神学者です。結果的に見れば「免罪符による教会の腐敗を終わらせた人物」と見てもいいでしょう。

結果だけを見ればカトリック教会と袂を分かち、プロテスタントの勃興の中心となったルターですが、実は彼自身が「95か条の論題」で唱えたのはカトリック教会の腐敗ではありません。

『95か条の論題』は、教会の腐敗を訴える告発文ではないことに注意が必要。

彼は「免罪符による罪の”軽減”は許されても、罪の”免除”は制度の乱用である」という主張を行なっただけであり、それが免罪符の乱用に疑問を持つ多くの神学者から「ルターがカトリック教会に批判を行った」として、改革の中心に祀り上げられた、というのが事の真相であるようです。

もちろんこれには諸説があり、ルター自身もカトリック教会の改革にはかなり乗り気であったようですが、たまにイメージとして語られる「カトリック教会に正面から弓を引いた神学者」というのは、少しばかり誇張されているという部分は留意しておく必要がありそうです。

現代日本における”免罪符”

ヴィレッジヴァンガードで売られているジョークグッズ「汎用免罪符」など、現代日本にもその制度に対する皮肉は残っている。

あまりいい意味では使われない言葉

この画像のセリフのような言い逃れも、典型的な慣用句としての”免罪符”としてみなされる。

現代の日本において、”免罪符”という言葉は慣用句的に使われることがあります。その意味するところは「犯した過ちや罪を責められなくする属性や特性」など、あまりいい意味ではない、皮肉のような形で使われる事がほとんどです。

例えば「貧しさの中でどうしようもなくて盗みを働いた」というエピソードの「貧しさ」は慣用句的な”免罪符”であり、「両親の仇を殺した」の「両親の仇」の部分も免罪符だということができるでしょう。そうした観点から見るに「仕方なかった」と似た意味を持つのが、”免罪符”という慣用句なのかもしれません。

当初こそ適切に運用されていたにもかかわらず、権力者によって性質を捻じ曲げられた結果、良い意味ではない慣用句となってしまった”免罪符”。現在の自分の振る舞いも、後に悪い意味の慣用句とならないよう、行動には注意を払っていきたいものです。

免罪符に関するまとめ

宗教改革を目前に控えた、16世紀カトリック教会の腐敗の象徴。

そのように認識されることの多い免罪符という制度ですが、調べていくと十字軍遠征に伴う仕方のないものとしての始まりや、当時の民衆からすると一定の需要があったことなど、一概に”悪”と決めつけることはできない制度だと感じました。

どのような制度であれ、結局のところその良し悪しを決めるのはその制度を用いる人次第。結局その部分は現代と変わらず、だからこそ今の我々も、悪い意味の慣用句として使われてしまうような振る舞いをしてはいけないなと思います。

それではこの記事をお読みいただきまして、誠にありがとうございました。この記事が皆さまにとって何かしらの学びとなっていましたら光栄に思います。

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