”免罪符”の隆盛と教会の腐敗
教会大分裂の時代に、ローマへの巡礼が困難であることを加味して発行された免罪符でしたが、その金銭的な有用性に、16世紀の教皇レオ10世が気づいたことで、話は快くない方向――教会の腐敗を示す方向に進むこととなります。
元々商人の家系であるメディチ家出身で、ぜいたくな暮らしを好んでいたレオ10世は、その費用としてドイツの豪商であるフッガー家に多額の借金を抱えることになっていました。そして、その借金を返済するために彼が目を付けたのが”免罪符”という制度だったのです。
レオ10世は自身の拵えた借金の返済のために、表向きは「サン・ピエトロ大聖堂の再建費用の徴収」として免罪符を発行。この時の免罪符は「罪の軽減」ではなく「罪の全面的免除」をうたい文句として発行されたため、非常に多くの市民がそれを買い求める事態となりました。
しかし、これに対して待ったをかける教会関係者も多く、結果としてこの「レオ10世による免罪符の発行問題」が、後に起こるプロテスタントの勃興などの「宗教改革」へと繋がっていくこととなるのです。
「95か条の論題」と宗教改革
レオ10世が発行した免罪符の一番の問題点は「免罪符の購入者に、罪の全面的な許しを与える」という部分でした。この部分については多くの神学者たちが疑問を唱えていたようで、この時点でカトリック教会の権威はかなり揺らいでいたことがわかります。
当時の免罪符を売る際の口上として「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」というものが残されていることからも、教会が免罪符の制度を明らかに乱用していたことはご理解いただけるでしょう。
そしてそのような中で、神学者マルティン・ルターが免罪符の販売を行っていたドミニコ修道会への批判を開始。1517年に「95か条の論題」を発表したことを契機として、プロテスタントの勃興に代表される宗教改革の口火が切られることになりました。
ただしルター自身は聖職者の腐敗を槍玉にあげて「95か条の論題」を発表したわけではなく、あくまでも「罪の完全な免除というのは教理の乱用である」という主張をしていただけに過ぎません。
そのため、たまに言われる「95か条の論題によって教会の腐敗が取り沙汰され、宗教改革が始まった」という説明は、正しくはありますがイメージされる部分とは少し異なるところに注意が必要となっています。
何故免罪符が必要だったのか
前述のトピックで、「免罪符とはそもそも何なのか」と「免罪符の歴史」については多少なりとご理解いただけたかと思います。しかし現在の我々からすれば「教会から与えられる罪の許しって、そうまでして欲しいものだったの?」という疑問も浮かんでくるかもしれません。
というわけでこのトピックでは、民衆の心理と教会や権力の心理から「何故免罪符が必要だったのか」を説明していきたいと思います。
”天国へ行くこと”を求めた民衆の心理
当時のカトリック教会の価値観においては「人は生きているだけで大なり小なり罪を犯す」と考えられていました。だからこそ「痛悔→告白→償い」というプロセスを経て罪の許しを求める制度が誕生したのですが、実はこの制度にはある欠陥が存在していたのです。
人間は「痛悔→告白→償い」というプロセスを経て、罪を清めてから死ぬことで天国へ行くことができると考えられていましたが、その罪を完全に清めることなく死んだ者は、死後”煉獄(れんごく)”に落ちるとされていました。
煉獄に落ちた魂は、浄罪しきれなかった罪に対する罰として炎で焼かれ、それから天国へ向かうことができるとされていました。これだけ聞くと「キチンと罪を償っていたら問題ないのでは?」と思うかもしれませんが、ここに当時の情勢も加味した落とし穴があります。
単純に、当時の医療や衛生状態は現代と比べると悪く、とりわけ伝染病や戦争などのいつ起こるか分からない災禍によって、民衆はバタバタ死んでいきました。当然そのような死を予測できるわけもなく、民衆たちのほとんどは罪を償いきることも出来ぬまま死んでいく事がほとんどだったのです。
そして、そのような民衆の心理をある種利用したのが、前述のトピックでも登場したレオ10世やドミニコ修道会などのカトリック教会。「それさえあれば煉獄の罪すら免除される」――つまり「いつ死んでしまっても安心して天国に行ける」ことを保証した免罪符は、いつ死ぬか分からない状況にあった民衆にとっては、まさに救いそのものだったのです。
そのような民衆心理から、まさに飛ぶように売れたレオ10世の免罪符。教会権力の乱用として映りがちなそれですが、当時の民衆からすると救いの神に等しかったという側面も、この制度を考えるうえで忘れてはならない部分です。
とにかく資金が必要だった教会や権力者の立場
当時の情勢や宗教観が絡み、少し複雑な民衆の立場と違い、レオ10世やドミニコ修道会などのカトリック教会の立場はある意味で単純でした。彼らはとにかく「資金が必要」だったのです。
例えば、免罪符にまつわる問題の始まりとなったレオ10世は、自身のぜいたくな暮らしによって膨れ上がった借金を返済するために、是が非でも資金を集める必要がありました。ルネサンス文化を庇護し、その最盛期を迎えさせた功績はありますが、この部分はさすがに看過できない愚策だと言えるでしょう。
また、後の宗教改革がとりわけ激しかった神聖ローマ帝国では、政治的な権威を求めた司教アルブレヒトによって免罪符の発行が盛んに行なわれました。ここでの免罪符の販売を取り仕切ったのは、レオ10世にも金を貸していた豪商・フッガー家であり、この免罪符事業に端を発したフッガー家の隆盛も、後の宗教改革に影響を与えることになりました。
ともかく、切実に救いを求めた民衆心理とは違い、ある意味そこに付け込む形で権力者や教会は免罪符による資金集めを行っていきました。「小悪党めいた」という言い回しがぴったりな、どうにも腐敗しきった印象を抱く彼らの行いですが、少なくともそんな彼らが唱える”救い”に縋る必要があるほど、免罪符に需要が存在していたことも事実として考えておかねばなりません。