免罪符に関わり深い人物
教皇・レオ10世
「サン・ピエトロ大聖堂の再建費用」という名目で免罪符の乱用を開始し、ある意味で言えば後の宗教改革の引き金となった人物です。
「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代であるユリウス2世が蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」と皮肉られるほどのぜいたく好みの放蕩家として知られ、政治家としてはあまり優秀ではない人物だったと評価されています。
しかしその一方でルネサンス文化を庇護し、多くの芸術家のパトロンとしてルネサンスの最盛期を築き上げたことから、芸術分野においてはなくてはならない人物ともなっています。
また、晩年には(多分に感情的な事情があるとはいえ)プロテスタントの一派であるイングランド国教会を創設しているなど、暗君のようでこそあれ、どうにも評価が難しい人物だとも言えそうです。
ヨハン・テッツェル
マインツ大司教であるアルブレヒトから、免罪符の販売実務を委託されたドミニコ修道会の修道士として、とりわけ有名な人物です。
ドミニコ修道会は「免罪符を売るためなら教義に反することもいとわない」と言われるほど悪名高く、その中でもテッツェルが免罪符を売りさばく際に並べた口上は、現在でも当時の教会の腐敗を示す言葉として語られています。
ルターが伝えることによれば、テッツェルの主張の中には、
- 聖母マリアを犯して子供を孕ませたとしても、贖宥状を買えば許しを得ることができる。
- テッツェルの代わりに聖ペテロが免罪符を売りに来たとしても、テッツェルの方が聖ペテロより多くの許しを与えることができる。
- 現教皇の紋章である赤い十字架は、キリストの十字架と同じ力がある。
- 免罪符を買う際に、聖職者への告解と懺悔を受ける必要はない。
- これから犯す罪に対しても有効である。
- 免罪符は天国への入場券である。
- おまえの母親は今、煉獄で何千年にも渡って焼かれている。この免罪符を買うと、おまえの母親は天国に入ることができる。
と、これだけの明らかに教義に反した主張が含まれていたと言われています。しかしテッツェル自身は後に「このような主張はしていない」と真っ向から否定しているため、その真相はわかっていません。
また、テッツェルに関する記述は「また聞き」である部分も非常に多いため、彼は教会の腐敗に対するスケープゴートにされたという主張も、現在では非常に根強く語られているようです。
マルティン・ルター
宗教改革の始まりの事件として有名な『95か条の論題』を発表した神学者です。結果的に見れば「免罪符による教会の腐敗を終わらせた人物」と見てもいいでしょう。
結果だけを見ればカトリック教会と袂を分かち、プロテスタントの勃興の中心となったルターですが、実は彼自身が「95か条の論題」で唱えたのはカトリック教会の腐敗ではありません。
彼は「免罪符による罪の”軽減”は許されても、罪の”免除”は制度の乱用である」という主張を行なっただけであり、それが免罪符の乱用に疑問を持つ多くの神学者から「ルターがカトリック教会に批判を行った」として、改革の中心に祀り上げられた、というのが事の真相であるようです。
もちろんこれには諸説があり、ルター自身もカトリック教会の改革にはかなり乗り気であったようですが、たまにイメージとして語られる「カトリック教会に正面から弓を引いた神学者」というのは、少しばかり誇張されているという部分は留意しておく必要がありそうです。
現代日本における”免罪符”
あまりいい意味では使われない言葉
現代の日本において、”免罪符”という言葉は慣用句的に使われることがあります。その意味するところは「犯した過ちや罪を責められなくする属性や特性」など、あまりいい意味ではない、皮肉のような形で使われる事がほとんどです。
例えば「貧しさの中でどうしようもなくて盗みを働いた」というエピソードの「貧しさ」は慣用句的な”免罪符”であり、「両親の仇を殺した」の「両親の仇」の部分も免罪符だということができるでしょう。そうした観点から見るに「仕方なかった」と似た意味を持つのが、”免罪符”という慣用句なのかもしれません。
当初こそ適切に運用されていたにもかかわらず、権力者によって性質を捻じ曲げられた結果、良い意味ではない慣用句となってしまった”免罪符”。現在の自分の振る舞いも、後に悪い意味の慣用句とならないよう、行動には注意を払っていきたいものです。
免罪符に関するまとめ
宗教改革を目前に控えた、16世紀カトリック教会の腐敗の象徴。
そのように認識されることの多い免罪符という制度ですが、調べていくと十字軍遠征に伴う仕方のないものとしての始まりや、当時の民衆からすると一定の需要があったことなど、一概に”悪”と決めつけることはできない制度だと感じました。
どのような制度であれ、結局のところその良し悪しを決めるのはその制度を用いる人次第。結局その部分は現代と変わらず、だからこそ今の我々も、悪い意味の慣用句として使われてしまうような振る舞いをしてはいけないなと思います。
それではこの記事をお読みいただきまして、誠にありがとうございました。この記事が皆さまにとって何かしらの学びとなっていましたら光栄に思います。