太宰治にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「どうしても芥川賞が欲しい!」太宰治の芥川賞への執着
太宰治が芥川龍之介に心酔していたことは先述した通りですが、太宰は、そんな芥川の名を冠する芥川賞を受賞するために、さまざまな破天荒なエピソードと、数人の作家とのひと悶着を残しています。
第1回芥川賞で、太宰は『逆行』と言う作品で候補に上がりますが、あえなく候補止まりで落選。そして、その選考委員だった川端康成(かわばたやすなり)に、「作者の生活が荒れてるから、素直な目で作品が読めないよ」とコメントされたことに、太宰は大激怒。大人げない手段で報復します。
その手段というのも、『川端康成へ』という文章で、延々と上記の川端の発現を批判するというもの。その文章の中の表現も「(川端を)刺す」だとか「(川端康成は)大悪人だと思った」だとか、文学要素など欠片もない批判を見て、川端もさすがに腹に据えかねたのでしょう。
川端も『太宰治氏へ芥川賞について』と題した短文を発表。その中で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反論を返す等、中々に大人げないやり取りを繰り広げたことが、記録に残っています。
また、第3回芥川賞の選考の際には、太宰は受賞のために盤外戦術を行います。太宰は、彼の才能を理解し、目を掛けてくれていた選考委員の佐藤春夫(さとうはるお)に、賞を懇願する手紙を送り付けます。
また、第1回の結果について散々やりあった川端に対しても「何卒私に芥川賞を下さい」と懇願の手紙を送るなど、芥川賞の受賞のために手を尽くしました。
中でも、佐藤にあてた手紙は、長さにして4メートルにも及ぶ大長編でしたが、太宰は候補にすらなることができず落選。この結果を受けた太宰は、『創世記』と題した短編で佐藤を批判。これに対して佐藤も『芥川賞』という小説を執筆し、作中で太宰の所業を暴露。大人げない報復合戦の末、二人は疎遠になってしまいます。
結局、太宰の盤外戦術は、終生功を奏することはなく、念願だった芥川賞を受賞することはできないまま、太宰は自殺によってこの世を去ってしまうのでした。
都市伝説・武勇伝2「太宰の死因は本当に自殺?」彼の死に関するミステリー
先述の通り、太宰治の死は自殺であるというのは、一般的な考えであり、通説です。しかし、実はその死には、少しばかりの謎が残っていることをご存じでしょうか?
その謎というのは、太宰と山崎が水中に身を投げたとされる現場に、強い抵抗の跡が残っていたという事です。
太宰の生家、津島家と関わりが深く、警察の捜査に協力した中畑慶吉(なかはたけいきち)という呉服商の証言によると、「入水の現場には、下駄を思いっきり突っ張った跡があった」「手をついて、水へと滑っていく体を止めようとした跡が、歴然と残っていた」とのこと。
太宰の入水から発見までの数日の間には、雨が降っていたとの記録も残っており、もしその跡が本当に抵抗の跡なのだとすれば、余程強く抵抗したのだろうことが察せられます。
太宰の自殺に関して調査をした当時の警察署長も、具体的な点こそ口にしなかったものの、「ただの自殺とするには腑に落ちぬ点もあるのです」と発言している他、太宰と共に心中した山崎富栄は、彼に捨てられることを極度に恐れていたという噂もあります。
また、太宰の死体についても、殆ど水を飲んだ様子がなく、死に顔も穏やかだったため、入水前に仮死状態、もしくは絶命していた可能性も囁かれています。
署名付きの遺書があり、動機も明確に分かっているはずの、太宰治の自殺。
しかし、その死は本当に自殺だったのか?もはや調査すら不可能な謎は、ひょっとすると通説とは全く違う真実に繋がっているのかもしれません。
太宰治の略歴年表
青森県北津軽郡金木村の名士、津島源右衛門の六男として生まれます。本名は津島修治。兄や姉が多く、太宰が誕生当時は10人兄弟。その後にも弟が生まれたため、11人兄弟の10番目でした。
小学校に入学した太宰は、当時からその文才の片鱗を発揮。秀才の誉れ高く、成績は全て“甲”評価。総代(今でいう生徒会長のようなもの、学生代表)も務める優等生でしたが、一説では、これらは全て津島家の根回しがあったから、とも言われています。
兄が持ち帰ってきた同人誌『世紀』の中に、井伏鱒二(いぶせますじ)の『幽閉』を発見。太宰はこの作品に対して、後に「座ってをられないくらいに興奮した」と述べています。
この頃から、太宰は自らの生き方を、作家として定めていきます。芥川龍之介に対する崇敬も、この数年から始まったようです。
尊敬する芥川龍之介の自殺に衝撃を受け、「作家はこのように死ぬことが本当だ」と友人に漏らす等、後の太宰の言行に繋がる性格が表れ始めます。
また、この頃に、後に内縁の妻になる小山初代(おやまはつよ)とも知り合い、以後数年にわたって、逢瀬を重ねることとなります。
5月に同人雑誌『細胞文芸』を発行し、辻島衆二のペンネームで、『無間奈落』などの作品を発表。『細胞文芸』は、同年9月に4号で廃刊してしまいますが、それまでに井伏鱒二と舟橋誠一からの寄稿を得ることに成功します。
12月10日未明に、突如としてカルモチンを大量に服用し、自殺を図りました。その理由について、太宰は後に「自分の身分と思想の違い」と述べています。しかし、当時の太宰が左翼的活動にのめり込んでいたこともあり、翌年1月に起こる、左翼学生の大量逮捕を逃れるための自殺であったとも囁かれています。
東京帝国大学(現在の東京大学)の仏文科に入学し、上京した太宰は、左翼活動にますますのめり込みつつも、かねてより尊敬していた作家、井伏鱒二と出会い、彼に弟子入りをします。
また、かねてより逢瀬を重ねてきた初代との結婚を志しますが、津島家の当主である兄から猛反対を受けます。最終的には兄が折れ、分家除籍の上で、内縁関係としての結婚が認められます。
しかし、太宰は分家除籍の10日後に、カフェ「ホリウッド」の女給、田部シメ子(たなべしめこ)と心中未遂を行います。結果として、田部のみが死に、一人生き残った太宰は自殺幇助罪に問われますが、兄たちの尽力によって、起訴猶予処分となりました。
共産党から太宰に対する指示が激化し、官吏や共産党員に対する恐怖心が限界に達した太宰は、出頭命令を受けて兄と共に出頭。同年12月には検事局にも出頭し、以降は完全に政治運動とは離れて過ごします。
『サンデー東奥』に、筆名「太宰治」として、短編『列車』を発表。これまでは「辻島衆二」「大藤熊太」など、多くのペンネームを使い分けていた太宰でしたが、1933年以降、彼は自身のペンネームを太宰治に一本化しました。
3月、都新聞社の入社試験に落ちた太宰は、鎌倉にて首吊り自殺を企てますが、これも失敗。
自殺からは生還したものの、4月には急性盲腸炎から腹膜炎を起こし、危険な状態に。その時に投与された鎮痛剤、パビナールの中毒となり、中毒症状に苦しむことになります。
そして同年8月には第1回芥川賞の受賞者が発表され、太宰の『逆行』は候補にはなりましたが、あえなく落選してしまいました。
パビナール中毒が深刻化し、2月には佐藤春夫(さとうはるお)の勧めで入院。しかし、全治の前に退院してしまいます。
やはりと言うべきか、中毒症状によって金銭的にも危うくなってきた太宰は、初代や井伏鱒二によって、10月に再び強制入院。そこでの約1か月の奮闘の末、ようやくパビナール中毒の根治を成し遂げます。
前年10月の入院中、初代が不倫をしていたことが発覚。太宰と初代は水上温泉でカルモチン自殺を企てるも、これも未遂に終わります。その後、太宰と初代は正式に離別。その後の数年、太宰はほとんど筆を折った状態になってしまいます。
ほとんど絶筆状態となった太宰を見かねてか、井伏鱒二が太宰に縁談を持ち掛けます。その縁談で出会った石原美知子と婚約した太宰は、翌年に彼女と結婚。
結婚を機に、精神的にも安定した太宰は、それまでの作風を一転。この時期から数年の間に『走れメロス』に代表される、多くの優れた短編作品を世に送り出しました。
美知子との間に、長女、園子が誕生。その3年後となる1944年には長男、正樹が誕生します。
順風満帆な家庭生活のようでしたが、後に『斜陽』のモデルとなる太田静子(おおたしずこ)と出会い、彼女と男女の関係となってしまうことで、太宰の運命は再び、退廃と堕落に向けて突き進んでいくことになります。
終戦後しばらくして、太田静子から訪問を受けた太宰は、以前から構想していた作品『斜陽』のために、静子から日記を借り受けます。その静子の日記をもとに、太宰は本格的に『斜陽』の執筆を開始。同年12月に刊行された作品は、「斜陽族」という流行語を生みだすほどのベストセラーになりました。
また、11月には静子との間に子が生まれ、太宰はその子を認知しています。
『人間失格』の連載が開始したのとほぼ同時期に、太宰は愛人、山崎富栄と共に入水自殺。ベストセラーを生んだ作家の突然の自殺は、世間に大きな衝撃を与えたようです。
没後50年が経ったことにより、太宰作品の著作権保護期間が終了。現在では、「青空文庫」にて、ほとんどの作品を無料で読むことができます。