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太宰治とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や死因、女性関係も紹介】

太宰治(だざい おさむ)は、大正期から昭和初期にかけて、数多くの文学作品を残した作家です。

現在も広く知られる「太宰治」の名前はペンネームであり、本名は「津島修治(つしましゅうじ)」。青森県北津軽郡金木村(現在でいう五所川原市)の大地主の六男として生を受けました。

彼が遺した作品は数多くありますが、今なお国語の教科書などで読み継がれる快作『走れメロス』、没落した華族の女性を主人公に「滅びの内に見える美しさ」を描いたベストセラー『斜陽』、そして、太宰の自伝小説であるとも言われる、人間的な堕落と退廃を真正面から描いた『人間失格』などが有名でしょう。

太宰治

数多くの作品を遺し、今なお文壇に多大な影響を与える太宰治ですが、そんな彼の人間性は、平たくいうと「ダメ人間」の気質が強く、『走れメロス』の作風から受ける印象とは、大きく異なる人物であったようです。

彼の私生活は退廃と堕落に満ちており、「左翼活動への傾倒と挫折」「愛人との退廃的な生活」「度重なる自殺未遂」「薬物中毒」など、スキャンダラスなエピソードには事欠きません。彼が書いた最後の完結作となった『人間失格』が「太宰自身の自伝的小説」だとささやかれるあたり、1度でもこの作品を読んだことのある方には、その人間性が垣間見えることでしょう。

類稀な文才を持ち、鋭すぎるほどの観察眼を持って、今なお読み継がれる多くの名作を遺しながら、私生活では薬物中毒や自殺未遂を繰り返し、退廃的に38年の生涯を駆け抜けた作家、太宰治。

この記事では、そんな太宰の業績や人間性について、迫っていきたいと思います。

太宰治とはどんな人?

本名津島修治(つしましゅうじ)
誕生日1909年6月19日
生地青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)
没日1948年6月13日(享年38歳)
没地北多摩軍三鷹町、玉川上水(愛人、山崎富栄と共に入水自殺)
配偶者津島美知子(1938年~1948年)
埋葬場所東京都三鷹市禅林寺

太宰治の生涯をハイライト

1948年ごろの太宰治

1909年、太宰治は青森県北津軽郡金木村に生まれました。小学生時代は成績の良い優等生で、やはり文才に秀でていたといわれています。けれども真面目一辺倒の少年ではなかったようで、いたずらっこの側面もあってクラスメイトからの人気もあったようです。

14歳のとき井伏鱒二の作品『幽閉』(後の『山椒魚』)に衝撃を受け、文学に目覚めました。特に芥川龍之介を尊敬していて、芥川が自殺したときにはそれまでの人生が変わるほどの衝撃を受けたようです。高校時代には同人雑誌を創刊するかたわら、左翼活動にも参加し、また初めての自殺未遂事件を起こしています。

21歳で上京、東京帝国大学の仏文科に入ります。井伏鱒二に弟子入りし、執筆活動も本格的にスタートさせました。また、18歳のときから交際していた小山初代と事実婚するのですが、その直前にも別の女性と心中事件を起こし、自殺ほう助罪に問われています。

煙草を吸う太宰

26歳で芥川賞候補になったのですが、私生活の荒さから受賞を逃してしまいます。このころ太宰はパビナールという薬物の中毒に陥っていたのです。その薬物中毒を治すための入院中に初代が不倫をしていたために、退院後に4度目の自殺未遂を起こしました。

初代と別れた1年後に、井伏鱒二から持ち掛けられた縁談によって太宰は石原美知子と結婚しました。3人の子をもうけ、このころは小説の作風も明るく爽快なものに変わっています。しかし、太田静子という女性と出会い、不倫関係に陥った2人の間にも子どもができています。

『斜陽』がヒットしているころ、太宰は新しい愛人・山崎富栄と出会います。1948年6月13日、2人は玉川上水に身を投げ、心中しました。太宰の享年は39歳でした。

青森の大地主の家に生まれる

五所川原市を走る津軽鉄道

太宰治は、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)の大地主、津島源右衛門(つしま げんえもん)と、その妻・たねの六男、津島修治として生まれました。

父である源右衛門は、県議会議員、衆議院議員、貴族院議員を務める地元の名士で、「金木の殿様」と呼ばれるほどの強大な権力を持っていました。また、それ故に多忙でもあり、母であるたねも病弱だったことから、幼い太宰は乳母や叔母、女中たちによって育てられたそうです。

幼いころから頭のいい子供だったようで、尋常小学校(今でいう小学校)では、「開校以来の秀才」と称され、特にその文学的なセンスは、幼いころから高く評価されていたことが、記録によってわかっています。

無頼派の代表作家の1人

堕落と退廃を克明に描いた

人間の心理や、そこから生まれる堕落と退廃、人間である限り逃れられない穢れを真正面から見据え、時にユーモアを交えながら克明に描いている太宰治の作品。

当時の文壇において「正道」とはいえない彼の作風は、現在では「無頼派(あるいは新戯作派)」と称されています。

坂口安吾が主張した、「文学における戯作の重要性」に端を発したこの文学ジャンルは、乱暴にまとめると、現在でいうところのライトノベルの元祖。つまり、「文学的な正当性だとか、高尚な表現だとかは抜きにして、とりあえず読者が読んで楽しいものを書く方がいいよね!」という発想から生まれた文学ジャンルです。

太宰の作品の中では、カチカチ山や舌切雀など、有名な昔話をコミカルに改変して描いた『お伽草子』。発表当時、太宰と折り合いが悪かった作家、志賀直哉への批判を痛烈に綴った評論『如是我聞(にょぜがもん)』などに、太宰の無頼派らしい、コミカルで少しばかりダークな作風が特によく見えることでしょう。

第二次世界大戦後の、閉塞的で先の見えない社会の中で、一般市民から多大な共感と支持を受け、1つのジャンルとして隆盛した「無頼派」の文学。太宰以外の「無頼派」の作家には、『堕落論』を著した坂口安吾(さかぐち あんご)、『夫婦善哉(めおとぜんざい)』で有名な織田作之助(おだ さくのすけ)などが名を連ねています。

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無頼派の作家たちと仲が良かった

坂口安吾

太宰の友人としてまず確実に名が挙がるのは、先にご紹介した無頼派文学の仲間であった坂口安吾と織田作之助でしょう。

「無頼派三羽烏」と称された彼ら3人は、程度の差こそあれ、当時の文壇に対する批判的な態度や社会生活に対する不適合ぶりから馬が合ったのでしょう。時折、酒を飲みながら、さまざまな作家を批評する座談会を催すなど、文士として交流を深めていたことが記録に残っています。

また、織田作之助が結核でこの世を去った際には、太宰が「織田君!君は、よくやった。」の言葉で締めくくられる『織田君の死』という追悼文を発表。そして、織田の死の1年後の太宰の自殺に際しては、坂口が追悼文『不良少年とキリスト』を発表し、そのやりきれない心情を文壇に吐露するなどのエピソードが残されており、彼らの友情を物語っています。

また、同じく無頼派の作家であった檀一雄(だん かずお)とも、盟友と呼べるほど仲が良く、連日のように連れ立っては遊び回る仲だったようです。

檀と太宰のエピソードとしては、『走れメロス』の元となったとされるエピソード、いわゆる「熱海事件」が有名ですが、その他にも、二人で泥酔した挙句、その場のノリだけでガス自殺を実行しかけたというエピソードがあります。すんでのところで檀が正気に戻ったから良かったものの、もしもその場で太宰と檀が自殺を完遂してしまっていたら、現在の文壇が大きく変わっていたかもしれません。

ともかく、天衣無縫でありながら、どこか破滅的な太宰に呼応するように、彼の周りにも癖の強い作家たちが集まっていたことは、疑いようのない事実でしょう。

女性を破滅に導く魔性の男?

女性とのエピソードが多い太宰治

太宰治の顔立ちは、写真に残されていることもあり、かなり有名です。現代基準の「イケメン」とは言えませんが、整った顔立ちであることは間違いないでしょう。

整った顔立ちで、どこか破滅的な雰囲気の漂う太宰治。そんな太宰と「女性」というものは、切っても切り離せないものであったようです。

女性とのエピソードが数多く残されている太宰ですが、円満な男女関係のエピソードはほとんどなく、そのほとんどが「愛人」「自殺未遂」「心中」「カルモチン(薬物、太宰の自殺未遂によく使われた)」などの言葉が並ぶ、死と退廃の匂い立つようなエピソードばかり。

多くの女性を愛し、多くの女性から愛され、そしてその女性たちをことごとく破滅へと導いた太宰治。クレオパトラや楊貴妃のように、男性を破滅させる魔性の女というのは、たびたび歴史上に登場していますが、太宰にもそんな彼女らと同じように、女性を破滅させる魔性の男の側面があったのかもしれません。

太宰治はどんな性格だった?女性関係や作品から見える人物像とは

芥川龍之介に大きな影響を受ける

「無頼派」として、当時の文壇の主流から外れた作品を数多く遺した太宰ですが、そんな彼にも、尊敬する作家が数人いたようです。

中でも、芥川龍之介に対するリスペクトは凄まじく、尊敬するが故の面白エピソード、あるいは若干ホラーと化しているエピソードがいくつか残っています。代表的な面白エピソードとしては、太宰が中学、高校で使っていたノートのエピソードです。

太宰のノートには、芥川龍之介の名前が何度も書き込まれており、他にも、芥川の顔を描いたと思わしき落書きや、芥川の名前と並べた、自分のペンネームの案などが書き込まれています。思春期故のやらかしのようなものでしょうが、太宰が芥川を強烈にリスペクトしていることが分かるエピソードでしょう。

学生時代の太宰のノート。
「芥川龍之介」という文字が見える

他にも、写真に写る際に芥川のポーズを真似する。芥川の名を冠した文学賞である「芥川賞」欲しさに、選考委員に懇願の手紙を何度も送るなど、その熱狂的なまでの芥川への尊敬を示すエピソードは、数多く残っています。

他にも、太宰の度重なる自殺未遂は、芥川龍之介が34歳で薬物自殺をしたことに影響を受けたから、という説もあります。

直接的な根拠がある説ではありませんが、若かりし頃の太宰が、芥川の自殺に対し「作家はこのように死ぬことが本当だ」と漏らしていたという話や、太宰が芥川へと向けていた、熱狂的すぎるほどのリスペクトを知ると、そうあり得ない話でもないと感じられる説です。

芥川龍之介と太宰治の関係がよくわかる3つの逸話・エピソード

太宰治の死因

太宰治が入水した玉川上水

死因は「入水自殺」

太宰治の死因は入水自殺です。6月13日の深夜、愛人であった山崎富栄(やまざき とみえ)とともに東京玉川へ向かい、お互いの身体を帯で結んで、川へ身を投げたのです。享年は38歳。

しかし、当時の検視によると、太宰治は穏やかな表情でほとんど水を飲んでおらず、入水自殺を図る以前に泥酔状態だったのではないかとの報道もありました。

愛人との心中により38歳で亡くなる

完結作としては『人間失格』が、未完作としては『グッド・バイ』が遺作となりました。

当時、『斜陽』が大ベストセラーを記録し、押しも押されもせぬ売れっ子作家だった太宰の自殺は、多くの憶測を呼びました。患っていた肺結核による体調不良を苦にしての自殺という説や、息子の先天性の障害(ダウン症)を苦慮しての自殺という説、山崎富栄による無理心中説や、狂言心中の失敗説など、様々なうわさや憶測が流されたそうです。

中でも荒無稽なものとしては、実は自殺は狂言で、太宰の盟友だった坂口安吾が、秘密裏に彼を匿っている、という説。坂口安吾が太宰の自殺の後、しばらく行方をくらませたことから騒がれた説ですが、後に安吾自身によって、「太宰についてしばらく語りたくなかったからだ」と明確な理由と共に否定されています。

太宰の死を報じた新聞

ともかく、長らく議論の的になっていた太宰の自殺の真相ですが、1998年に、遺族が太宰の遺書を公開。そこには「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」と、太宰自身の署名と共に自殺の理由が記されていたため、太宰の自殺の動機については、そこで決着がついたと見ても良いでしょう。

しかし、実は太宰の自殺には不自然な点も残されています。

あくまでも俗説や、状況からの類推でしかないため、そのような不自然さについては、後述の「都市伝説・武勇伝」の項にて、語らせていただきます。

死因に関しての詳細はこちらの記事をご覧ください。

太宰治の死因と原因は?最後の様子、没年月日、心中した愛人についても解説

太宰治の功績

功績1「長編・短編ともに優れた作品を残した」

「かちかち山」などを翻案した『お伽草紙』

小説家には長編が得意な人と短編が得意な人がいますが、太宰はそのどちらにも名作を数多く残しました。長編では『斜陽』『ヴィヨンの妻』『人間失格』などが有名です。短編では誰もが国語の教科書で目にしたことのある『走れメロス』などが代表的でしょう。

長編・短編ともに名作の多い太宰ですが、原稿用紙数枚ほどしかない掌編も見事に書き上げてしまう作家として生前から知られていました。『満願』がその代表です。文庫本で3ページほどの短い作品ですが、登場人物の喜びが美しく描かれた作品となっています。

功績2「シリアスな作品からユーモラスなものまで幅広い作風を操った」

女子学生の一人称で描かれた小説『女生徒』

太宰治というと誰もが思い浮かべるのが『人間失格』でしょう。太宰自身の姿を描いたとされるこの小説は退廃的なムードに満ちていますが、彼の作品世界はとても豊かです。ユーモラスな描写にあふれる『お伽草紙』『新釈諸国噺』や、女性の一人称で描かれた『女生徒』など、太宰は幅広い作風を自在に操りました。

特に『女生徒』は、当時30代だった太宰が書いたとは思えないほどみずみずしい感性に満ちています。この作品は太宰のファンだった女性から送られてきた日記をもとに書いたものといわれていますが、それにしても太宰の「主人公になりきる力」には目を見張るものがあります。

功績3「『自分のスタイルは自分で作る』無頼派の代表作家」

「無頼派」の由来となった一文のある『パンドラの匣』

太宰治は一般的に「無頼派」の作家といわれています。無頼派はほかの流派と違って同人誌を出したり1つの主張をもとに一致団結して作品を制作したりしたわけではありません。彼らは「自分のスタイルを自分で作る」という部分で共通した作家たちです。

無頼派の作家たちは確かに破天荒な生活を送っていたイメージがありますが、だから「無頼」というわけではありません。それまでの文壇でいいとされてきたスタイルへの反抗心を「無頼」と呼んだのです。太宰は、当時文壇で認められていた「小説の神様」志賀直哉の作風に反発するかたちで自らのスタイルを築いていきました。

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