太宰治とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や死因、女性関係も紹介】

太宰治の具体年表

1909年 – 0歳「太宰治、誕生」

左から2番目が太宰治

青森県の名士の家に生まれる

太宰治は、1909年、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)の名士、津島家に生まれました。本名は津島修治。11人兄弟の10番目として生を受けましたが、県議会議員を務める父・源右衛門は多忙であり、母・たねも病弱だったことから、幼少期の太宰は、乳母によって育てられました。

その乳母が去った後は、叔母・きゑが面倒を見てくれました。2歳を過ぎてからは、住み込みの女中である近村タケによって育てられるなど、両親との交流の少ない、少々寂しい幼少期を過ごしたようです。

1916年 – 7歳「金木第一尋常小学校に入学」

金木第一尋常小学校跡地

「開校以来の秀才」と謳われた太宰

4月、金木第一尋常小学校に入学した太宰は、入学当初から頭角を現し、「開校以来の秀才」と謳われました。中でも作文力に関しては、他の追随を許さない非凡な才能を持っていたようで、彼の意表を突く作文力は、時に教師たちすら驚かせたそうです。

当時、「金木の殿様」と呼ばれ、強大な権力を持っていた津島家の子供たちは、実際の成績に関わらず、必ず”甲”評価を付けられていたそうですが、太宰はそのようなえこひいきがなくとも、自身の学力のみで6年間全評価を”甲”とし、主席、総代を務める優等生だったそうです。

1922年 – 13歳「学力補充のため、四ヵ村組合立明治高等小学校へ通学」

明治高等小学校跡地

はじめての”乙”評価

金木第一尋常小学校を卒業した太宰は、1年間、四ヵ村組合立明治高等小学校に通学することになります。この通学は、太宰の父、津島源右衛門の意向だったとされており、太宰が中学で落ちこぼれることがないように、学力補充をさせるための通学だったようです。そのような父の意向により、高等小学校に入った太宰でしたが、そこで初めて、尋常小学校では受けることのなかった”乙”評価を受けることになります。

なんでも、成績そのものは非常に優秀だったのですが、度を越した悪戯をする悪癖があり、その観点で評価を下げられたとのこと。後に破天荒なエピソードを数多く残すことになる太宰ですが、その原点は、少年時代に既に芽生えていたのかもしれません。

1923年 – 14歳「父の死と中学入学。そして『幽閉』との出会い」

井伏鱒二

父の死と、中学入学

この年の3月、太宰の父、源右衛門が肺癌で帰らぬ人となります。多額納税議員として、貴族院議員に当選して、半年ほどでの死でした。そしてそれから1月後の4月、太宰は実家を離れて親戚の家に下宿をしつつ、4年の間、青森県立青森中学校に通学。太宰はそこでも優秀な成績を収め、1年の2学期から卒業までの間、級長を務める優等生だったと記録が残っています。

しかし、真面目一辺倒だったわけでもなかったらしく、持ち前の茶目っ気を発揮することで、クラスの人気者でもあったようです。

井伏鱒二の作品『幽閉』との出会い

当時から文学に興味を持ち、芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などの作品を好んでいた太宰。そんな彼が後年、「座ってをられないくらいに興奮した」「天才を発見したと思った」と絶賛する作品との出会いも、1923年にありました。

その作品は、井伏鱒二の『幽閉』。太宰の兄、圭治が、東京から持ち帰ってきた同人誌『世紀』に掲載されていた作品でした。

『幽閉』は、後に『山椒魚』と改題され、井伏鱒二の代表作となる作品ですが、発表当時の評判は良いものではなく、当時、世間的な評価として『幽閉』に与えられたのは「古臭い」という趣旨の1行半ほどの批評だけだったようです。当時の低評価を覆し、後に井伏の代表作と称されるまでになる『山椒魚』。その作品に対し、後の評価を予言するような感想を持つあたり、太宰少年に多大な文学的なセンスが存在していたことを、疑う余地はありません。

1925年 – 16歳「作家の道を志す」

『校友会誌』

初めての創作作品『最後の太閤』を発表

3月、『校友会誌』に、太宰は『最後の太閤』という作品を発表します。記録上、この作品が、太宰の発表した最初の作品という事になっています。『最後の太閤』は、タイトル通り太閤――豊臣秀吉の死を描いた作品です。とても短い作品ではありますが、後の大作家、太宰治の片鱗を確かに感じさせる、奥深く読み応えのある作品になっています。

また、この頃から作家の道を本格的に志したのでしょう。これ以降、太宰は精力的に、小説や戯曲、エッセイなどの作品を、級友たちと創刊した同人誌『蜃気楼』などに発表していきます。

1927年 – 18歳「高校入学と、芥川の自殺。そして出会い」

高校時代の太宰治

官立弘前高等学校文科甲類に入学

高校受験を理由に、1月に同人雑誌『蜃気楼』を休刊した太宰は、本来5年間通うべき中学を、4年で卒業。そのまま官立弘前高等学校(現在の弘前大学)文科甲類に、優秀な成績で入学します。弘前高等学校は、新入生は自宅通学の者を除いては、寮から通学する規則でしたが、太宰は母の考えもあり、病弱であると偽って、親戚の家に下宿して通学をしていたようです。

また、5月には青森市内で芥川龍之介の講演を聴き、いたく感銘を受けたことも記録されています。

芥川龍之介の自死を知る

芥川龍之介の死を報じる新聞

夏休み、金木村の実家に帰省中だった太宰は、尊敬する芥川龍之介が、薬物によって自ら命を絶ったことを知ります。その知らせが太宰に与えた衝撃は、とても大きいものだったようで、弘前の下宿に戻ってからも、太宰はしばらく部屋に閉じこもっていたそうです。

また、友人に対して「作家はこのように死ぬことが本当だ」と漏らすなど、後の破天荒で破滅的な作家、太宰治の性格が、この時期から顕著に表れ始めます。ともかく、尊敬する芥川の自死の知らせを受けて以後、成績優秀な優等生だった太宰少年は、一変することとなるのです。

小山初代との出会い

この頃の太宰は、江戸の町人文化や江戸時代の文学、とりわけ、浄瑠璃の一派である「義太夫」や、花街文化に興味を示す様になります。服装にも凝り始めるなど、一種の思春期のようなものだったのかもしれません。興味に惹かれるように、青森市の花街に通い詰めるようになった太宰は、そこで1人の女性と出会うことになります。

女性の名前は、小山初代。青森の料亭「玉屋」で、仕込妓(しこみこ、芸者の使い走り)として働く女性でした。顔なじみとなった太宰と初代は、以後数年の間、逢瀬を重ねることとなります。そして、この出会いが太宰の、そしてそれ以上に初代の運命を、大きく揺るがせることになるのでした。

1928年 – 19歳「執筆活動と、左翼的活動へ」

同人雑誌『細胞文芸』

同人雑誌『細胞文芸』を創刊

花街通いが祟ったのか、この頃から太宰の成績は、明らかに急落していきます。しかし、その成績の下降とは裏腹に、この時期の太宰の創作意欲は燃え上っていたようです。

同期生の創作に感銘を受けた太宰は、それに対抗するように、同人雑誌『細胞文芸』を創刊。そこに「辻島衆二」の名義で、『無間奈落(無”限”奈落という説あり)』を執筆します。『無間奈落』は連載作品を予定していましたが、実際には1話のみで終了。「大地主の生家を告発する」という内容だったため、生家である津島家から反対を受けたことが原因とみられています。

『細胞文芸』は、同年9月に、僅か4号で廃刊になってしまいますが、廃刊までの間に、井伏鱒二や船橋聖一らからの寄稿を受けるなど、文壇からの覚えは、決して悪くはなかったようです。

弘前高等学校、新聞雑誌部の委員となる

弘前高等学校の新聞部の委員となり、『校友会雑誌』に『此の夫婦』を発表。新聞雑誌部は、弘前高等学校の左翼活動の拠点ともなっていたため、太宰も左翼活動にのめり込んでいくことになります。

1929年 – 20歳「初めての自殺未遂」

静養をした大鰐温泉

左翼運動の激化と、私小説『学生群』

この頃、世論として学生運動、左翼運動が高まりを見せていました。太宰の通う弘前高等学校でも、その機運は高まりを見せており、校長の公金無断流用が発覚すると、その機運は一気に爆発しました。弘前高等学校の新聞雑誌部が主導者となり、同盟休校(ストライキのようなもの)を決行。その結果、校長は休職に追い込まれ、同盟休校は成功に終わります。

この同盟休校の様子を、太宰は私小説『学生群』として記録しています。一説では、この『学生群』を、改造社の懸賞小説に応募したともいわれていますが、その結果は芳しくなかったようです。

12月、突然の自殺未遂

同盟休校事件の後も、太宰は「弘高新聞」や県内の同人誌に、様々な作品を寄稿しました。恋仲になっていた小山初代との逢瀬も重ねており、生活の中に、さほどの影は見受けられなかったようです。

しかし、そんな12月10日。太宰は突如として、カルモチンによる自殺未遂を起こします。近所の医師がすぐに駆け付けて治療を施し、なんとか一命をとりとめた太宰は、それから1930年の1月初旬まで、大鰐温泉で母と共に静養することになります。

突然の自殺未遂の理由について、太宰は後年「自分の身分と思想の違い」と述べていますが、実際は、左翼運動が高まり、その弾圧が激化していくことに伴って、逮捕されることを恐れての自殺ではないかと言われています。事実、1930年の1月16日には、弘前高等学校の左翼分子が相次いで検挙、卒業間近に放校処分にされるという事件が発生しているため、太宰が逮捕や検挙を恐れて自殺に踏み切ったとしても、それほど不思議ではないと思われます。

1930年 – 21歳「上京と、師匠との出会い。結婚と自殺未遂」

小山初代

東京帝国大学仏文科に入学

弘前高等学校を卒業した太宰は、フランス文学への憧れのままに、東京帝国大学の仏文科を受験するべく上京します。フランス語を全く知らない太宰でしたが、当時、仏文科は、英文科や国文科ほどの人気がなく、殆どの場合、無試験で入学を認められていました。太宰もそれを当てにして受験をしましたが、1930年はたまたま入学試験があり、目算が外れた太宰は窮地に陥ります。

追い込まれた太宰は、試験場で手をあげ、試験監督だった辰野隆に事情を説明。他にも太宰同様の受験者が多数いたことも手伝ってか、”格別の配慮”によって合格を認められます。

左翼活動への参加と、井伏鱒二との出会い

なんとか帝国大学に入学した太宰は、そこで高校の先輩、工藤永蔵と知り合います。共産党のシンパ活動を行っていた工藤に乗せられ、太宰もまた、共産党のシンパ活動に参加。毎月10円の資金カンパをさせられることとなります。

また、その出会いと時を同じくして、かつて「座ってをられないくらいに興奮した」と称した『幽閉』の作者、井伏鱒二とも出会い、彼に弟子入りし、本格的に小説家として活動を開始します。作家「太宰治」は、このあたりから本格的に動き始めることになるのです。

小山初代との結婚と、分家除籍

10月、かねてより恋仲だった小山初代が、太宰の手引きによって上京。太宰と初代は結婚を志しますが、津島家の当主である兄・文治から猛反対を受けてしまいます。

侃々諤々の議論の末、最終的に文治が折れ、太宰を分家除籍することを条件に、太宰と初代の結婚を認めることになります。とはいえ、太宰と初代は後に離別するまで籍を入れておらず、内縁関係だったことから、籍を入れることまでは許してもらえていなかったようです。

そして11月、太宰の分家除籍が認められ、初代の落籍が終われば結婚……というところで、またも事件が起こることになるのです。

結婚間際の自殺未遂

結婚の条件である分家除籍が済み、初代が落籍のためにいったん青森へと引き戻されてから数日後、太宰はまたもカルモチンによる自殺未遂を起こします。小山家との結納からは、僅か4日後の事でした。

この自殺は、以前の自殺未遂とは異なり、心中でした。太宰は、行きつけのカフェ「ホリウッド」で働く女給、田部シメ子(たなべしめこ)と二人、鎌倉の小動岬で心中を企てたのです。田部シメ子と太宰の関係性は薄く、なんと二人が会ったのは、わずか3度だけだったそうです。

太宰は翌朝、海岸で苦悶しているところを発見され、一命をとりとめましたが、シメ子は死亡。一人生き残った太宰は、自殺ほう助罪に問われますが、兄や生家の奔走によって、起訴猶予処分となります。

この時の自殺の理由について、太宰自身からのコメントはありませんが、研究者の間では、自身が分家除籍される本当の理由が、初代との結婚ではなく、共産党のシンパ活動に関わっていたからだと知り、絶望したからだという説。分家除籍の際に、期待していたほどの財産援助がなく、そのことを悲観したという説が語られています。

1932年 – 23歳「共産党のシンパ活動からの足抜け」

静岡県旧静浦村の風景

共産党からの干渉が激化

シメ子との自殺未遂後、初代との同棲を始めた太宰ですが、時を同じくして、共産党シンパからの干渉が、激しさを増してきます。当初は活動資金のカンパのみだった太宰への要求も、1931年ごろからは、共産党シンパの保護など、徐々に直接的なものに変わっていきます。逮捕を恐れた太宰は、この時期、何度も引っ越しを繰り返し、精神的にも相当参っていたようです。

自首と、シンパ活動からの足抜け

共産党員からの指示と官吏に怯え、精神的に追い込まれていた7月。彼のもとに、青森警察署からの出頭命令が下ります。兄に連れられて出頭し、取り調べを受けた太宰は、非合法の政治活動から離脱。12月には青森検事局にも出頭し、誓約書に署名と捺印をしたことで、太宰は共産党のシンパ活動からの足抜けに成功します。

また、事実上、活動からの離脱を果たした8月には、静養を兼ねて静岡県の静浦村に滞在。そこで書かれた作品『思い出』が、太宰の処女作となりました。

1933年 – 24歳「ペンネーム「太宰治」の誕生」

盟友となった壇一雄

ペンネーム「太宰治」の誕生

政治活動から離脱した太宰は、本格的に創作活動に入り、同人雑誌『海豹』に参加。また、後の盟友となる檀一雄とも知り合います。

そして、東奥日報の付録である『サンデー東奥』に初めて「太宰治」のペンネームを用い、短編作品『列車』を発表。懸賞小説として入選を果たします。そしてこれ以降、彼はペンネームを「太宰治」に一本化し、創作活動を行うようになるのです。

「太宰」というペンネームの由来についてですが、師である井伏鱒二の回想録『太宰君』に、「従来の「津島」だと、本人が名乗る際に、津軽訛りで「チシマ」となってしまうが、「太宰」は津軽訛りでも「ダザイ」であったため」だと述べられており、その実用的なネーミングセンスを賞賛されています。

1934年 – 25歳「同人雑誌『青い花』創刊と廃刊」

中原中也

同人雑誌『青い花』と、中原中也

ペンネームを「太宰治」に定めた彼は、翌年1934年には、檀一雄、中原中也(なかはらちゅうや)らと共に、同人雑誌『青い花』を創刊しました。太宰はこの中に『ロマネスク』という作品を発表しましたが、掲載紙である『青い花』自体が創刊号だけで廃刊となってしまったため、あまり日の目を見ることはなかったようです。

この廃刊の理由についてですが、太宰と中原中也の不仲によるものであると考えられています。太宰と中原の不仲エピソードとしては、酒乱で有名だった中原が、酒の席で太宰に対し「青鯖が空に浮かんだみたいな顔しやがって」「お前は何の花が好きなんだい」と絡み、太宰が泣きそうな顔で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、舌打ちとともに「だからおめえは」とこき下ろしたというものが有名です。

ともかく、『青い花』以降、中原を「ナメクジみたいなやつ」とこき下ろし、徹底的に避けるようになった太宰ではありましたが、中原の死を知った際には「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と、その才能を惜しむ言葉を口にしており、人格はどうあれ、中原の才能そのものは認めていたことが分かります。

1935年 – 26歳「3度目の自殺未遂と入院。第1回芥川賞」

文芸雑誌『文藝』

『逆行』の発表と、3度目の自殺未遂

2月、太宰は『逆行』を、文芸雑誌『文藝』に発表。それまで同人雑誌にしか作品を載せていなかった太宰が、初めて文芸雑誌へ作品を掲載します。

その一方、3月には、大学の卒業が絶望的に。生家からの仕送りが打ち切られることを恐れた太宰は、都新聞社の入社試験を受けますが、これにも失敗。

自身の将来を悲観したのか、鎌倉の山で首吊り自殺を図る太宰でしたが、これも失敗に終わります。

入院。そしてパビナール中毒に

3度目の自殺も未遂に終わった太宰ですが、4月には急性盲腸炎を起こし、入院することになってしまいます。しかも悪いことに、手術後に腹膜炎を併発させてしまい、一時は重体に陥ってしまう事態に。

なんとか回復はした太宰ですが、治療に使われていたパビナールという麻薬性の鎮静剤が慢性化。1年半ほどの間、彼はパビナール中毒に苦しめられることになります。

第1回芥川賞

川端康成

パビナール中毒になりながら、辛くも生還した太宰。そんな彼に、『逆行』が芥川賞の候補になったという知らせが舞い込みます。熱狂的な芥川フリークだった太宰が、その名前を冠した賞を喉から手が出るほど欲しがっただろうことは、想像に難くありません。

しかし、そんな太宰の気持ちはよそに、結果は無慈悲にも次席。受賞は石川達三(いしかわ たつぞう)の『蒼氓(そうぼう)』に決定されてしまいます。

『逆行』に関して、芥川賞の選考委員だった川端康成は「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と評価し、太宰の私生活の乱れぶりに苦言を呈したのですが、この評価を見た太宰は大激怒。

「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活か」と、『川端康成へ』と題した文章で、公然と川端を批判しました。その文章の中には「(川端を)刺す」「(川端は)大悪党だと思った」など、太宰の川端に対する恨み節が直接的に記されており、当時の太宰の悔しさや怒りを、感覚的に読み取ることができます。

『川端康成へ』を受けた川端も、『太宰治氏へ芥川賞について』と題した短文で、太宰に対して冷静に反論。これ以降、太宰は度々紙面で、川端に対する批判や痛罵を行っていたため、この一件について、太宰がこの一件について、相当腹に据えかねていたことが分かります。

また、芥川賞の発表から1月後の9月。太宰は学費の未納を理由に、東京帝国大学を除籍されています。

1936年 – 27歳「パビナール中毒に苦しみ、入院」

佐藤春夫

パビナール中毒が悪化。一度目の入院

2月、急性盲腸炎と腹膜炎の治療に使われた、パビナールによる中毒症状が悪化。芥川賞の選考委員であり、太宰を高く評価していた佐藤春夫の勧めによって、治療のために入院します。しかし、太宰は入院から十日ほどで退院。パビナール中毒の根治には至りませんでした。

第3回芥川賞

第2回芥川賞が、二・二六事件によって審査中止、該当者なしとなったため、太宰は第3回の受章に意欲を燃やしていました。何としても芥川賞が欲しい太宰は、選考委員である佐藤春夫に、4メートルを超える長さの手紙を送って受賞を懇願したほか、第1回で『逆行』の評価をめぐり、散々争った川端に対しても、「何卒私に賞をお与えください」と手紙を送り、盤外戦術を用いてまで、芥川賞の受賞を試みます。

しかし、結果は候補にすらなることができず落選。当時の芥川賞の規定による落選でしたが、太宰はこの結果にも納得がいかず、『創世記』という短編で佐藤を批判。佐藤もこれに負けじと『芥川賞』という小説で太宰の盤外戦術を暴露し、批判しました。

この確執によって、太宰と佐藤は疎遠になってしまうのですが、佐藤は太宰の才能を、本当に高く評価していたらしく、疎遠になったことについて、少しばかり後悔していたようです。

強制入院と、ようやくの根治

太宰が佐藤と批判合戦を繰り広げていた10月。太宰を蝕むパビナール中毒は、いよいよ激しさを増してきます。この頃の太宰は、多い時で一日50本以上のパビナールを注射。当然、お金も足りるはずがなく、内縁の妻である初代の着物を質に入れ、友人に借金をして歩いていたようです。

そんな太宰に耐えかねた初代は、太宰の師匠である井伏鱒二に相談。井伏から連絡を受けた兄、文治と、津島家に出入りしていた商人たちによって、太宰は強制的に入院させられます。

1か月間の治療の末に、太宰は何とかパビナール中毒を根治。紆余曲折がありつつも、一応は落ち着きを取り戻した太宰でしたが、その入院の間に、ある事件が起こっているのでした。

1937年 – 28歳「4度目の自殺未遂。初代との離別」

またも薬を使って自殺を図る

初代の姦通が発覚。4度目の自殺未遂と、離別

3月、太宰は衝撃の事実を、親類の画学生、小館善四郎(こだて ぜんしろう)から打ち明けられます。その事実というのは、太宰が強制入院させられていた昨年の10月、小館と初代が不倫関係にあったということ。これにショックを受けた太宰は、初代と共に水上温泉を訪れ、そこでカルモチンによる心中自殺を試みますが、失敗します。

同年6月、太宰と初代は離別。初代はその後、紆余曲折の末満州に渡り、そこで33年の生涯を終えることになります。その離別から約1年の間、太宰はほとんど作品を書かず、ほぼ絶筆状態が続きました。

初代との離別が、太宰にとってよほどショックだったことは、その1年間の空白期間を見るだけでも察することができるでしょう。

1938年 – 29歳「縁談と結婚、そして作風転換」

石原美知子

石原美知子との出会い

初代との離別がよほど堪えたらしく、1年ほどを無為に過ごした太宰。そんな彼を見かねたのか、井伏鱒二は太宰に縁談を持ち掛けました。その縁談を受けた太宰は、石原美知子と見合いをし、すぐさま結婚を決意。

それと同時に、今までの自分の行いを反省した太宰は、仲人となることを渋る井伏に「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いた「結婚誓約書」を送っています。

その「誓約書」が功を奏したのか、翌年1月に太宰と美知子は結婚。結婚式は井伏の自宅で行われ、仲人は井伏夫妻が務めたそうです。

大幅な作風転換

美知子との結婚によって、精神的にも安定し、自らのこれまでの行いを反省した太宰は、これまでの作風をガラリと転換。明るく明快な作風で、以降数年の間に、様々な名作を世に送り出します。

中でも同年4月に発表した短編『女生徒』は、芥川賞の一件以降、折り合いの悪かった川端康成から「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と賞賛され、以降、太宰に対する執筆の依頼は急増することになります。

『女生徒』以外では、翌年1940年に発表された『駆込み訴へ』『走れメロス』などが、この時代の太宰の作品の中でも、代表的なものと位置づけられています。

1941年 – 31歳「長女の誕生と、太田静子との出会い」

太田静子

長女、園子の誕生

落ち着いた作風によって、徐々に執筆の依頼も増え、順風満帆な人気作家に上り詰めつつあった太宰。そんな彼は、青春との決別と今までの総決算と称して、『東京百景』『みみずく通信』『佐渡』などの作品を次々に発表。私生活でも、美知子と共に伊豆温泉への小旅行をするなど、着々と家庭人としての落ち着いた幸せを積み重ねてきました。

さらに6月には、長女である園子が誕生。正に、人間的な幸せの絶頂にある太宰でしたが、同年、ある女性と出会うことで、彼の人生は再び波乱へと突き進むことになるのです。

太田静子との出会い

園子が生まれてから3か月が経った9月。太宰は太田静子(おおた しずこ)と名乗る女性と出会います。静子は太宰の作品『虚構の彷徨』の読者であり、自身の長女の死について、日記風の告白文にして太宰に送った女性でした。この静子の手紙に対し、太宰も「ぜひとも遊びに来てください」と返事をしており、静子はその返事を受けて、太宰に会いに来たのでした。

そのときこそ何事もなく二人は別れ、しばらくの間彼らの関係性は絶たれるのですが、12月には太宰が静子を呼び出し、二人は愛人関係に。この静子との出会いと禁断の恋が、太宰の後のベストセラー『斜陽』を生む引き金にも、太宰を破滅へと向かわせる引き金にもなるのです。

徴用免除

12月、太平洋戦争が開戦し、太宰ら文士たちは、「文士徴用令」によって徴用されることになりました。太宰も当然、徴用検査を受けることになったのですが、検査の結果、肺湿潤であることが分かったため、彼は徴用を免除され、執筆活動を続けます。

徴用を免れた太宰は、戦時下であっても旺盛に執筆活動に取り組み、以後数年間の間に『津軽』『御伽草子』や『新ハムレット』など、数多くの作品を残しました。

1942年 – 32歳「生家への帰郷と、義絶解消」

太宰治の母・タネ

母・たねの重体を知り、帰郷

10月、母であるたねが重体であることを知った太宰は、妻子を連れて帰郷。分家除籍されていたため、それまで帰郷する際は、生家ではなく、叔母や親類の家を頼っていた太宰でしたが、この頃になると義絶も自然に解消され、生家への滞在も許されていたようです。

母・たねは、太宰の義絶の解消を見届けるように、12月に死去。享年69歳でした。

1944年 – 35歳「長男の誕生」

戦争が激しさを増す1944年

長男、正樹の誕生

戦争が激しさを増す中、太宰と美知子の間に長男、正樹が誕生。正樹についての記録は、あまり残っていませんが、先天性のダウン症があったことと、太宰の死後、肺炎によって15歳で死去したことが伝わっています。

1945年 – 36歳「東京空襲の激化。疎開と終戦」

本土空襲の被害に遭い、各地を転々とすることに

この頃、東京に対する空襲が激しさを増してきたため、太宰は3月に、妻子を妻の実家である甲府に疎開させます。しかし、4月には太宰自身が空襲の被害に遭い、三鷹にあった自宅は全壊。彼自身も甲府に疎開し、そこで井伏鱒二と交友しつつ、『お伽草子』を完成させました。

また、7月には甲府も爆撃を受け、美知子の実家も全焼。太宰は途方に暮れつつも、命からがら妻子と共に、四昼夜をかけて青森の生家へと疎開。そこで終戦を迎えるのでした。

1947年 – 38歳「『斜陽』によりベストセラー作家へ」

『斜陽』初版

朋友、織田作之助の死

終戦からしばらくして、ようやく東京に戻ってきた太宰は、同じ無頼派の作家であり、朋友でもあった織田作之助の死を知らされます。肺結核により、若くして命を散らした朋友に対し、太宰は『織田君の死』と題した追悼文を発表。その中で太宰は「織田君!君は、よくやった。」と、無頼派の彼らしい言い回しで、朋友の死を悼んでいます。

太田静子からの訪問

織田の死と、ほとんど時を同じくして、太宰は太田静子から訪問を受けます。当時、力を失いかけていた生家に疎開していた太宰は、その生家の様子から、「没落貴族の小説」を構想。その案を練るために、静子に日記の提供を依頼します。静子はこれに対し、「下曾我までおいでになってくだされば、見せます」と返答。

これに応じた太宰は、静子の言葉通りに下曾我を訪ね、約束通り日記の提供を受けました。また、この時に静子は太宰の子を身ごもったようで、後に生まれるその子供を、太宰は認知しています。

次女の誕生と、山崎富栄との出会い

静子の日記によって『斜陽』の構想を得た太宰が、その前半部を書き上げた3月、太宰と美知子の間に次女・里子が生まれます。この里子は、後に作家、津島佑子として文壇にデビュー。『火の山―山猿記』などの作品で、数々の文学賞を受賞することになります。

また、その誕生と時を同じくして、太宰は美容師である山崎富栄と出会い、5月には彼女とも愛人関係に。「死ぬ気で恋愛してみないか」と、太宰から誘っての関係だったと言われています。

妻である美知子、『斜陽』のモデルである愛人の静子、新たな愛人であり、手際のいい秘書のような富栄。3人の女たちによって、まさに「斜陽」の言葉のように、太宰の人生は急速に翳りをみせていくのでした。

『斜陽』刊行。ベストセラーに

12月、『斜陽』が刊行されると、それはすぐさまベストセラーになりました。「斜陽族」という流行語が生まれるなど、その勢いは凄まじいものだったことが記録されています。

また、刊行のひと月前には、太田静子との間に女児が誕生。治子と名づけられたその子は、後に作家となり、2019年現在も精力的に活動を行っています。

1948年 – 39歳「太宰治の死」

山崎富栄

太宰治の死の間際

1月ごろになると、太宰がかねてより患っていた肺結核の病状が悪化。たびたび激しく喀血するようになります。そんな太宰の横には、富栄が看護婦役として付き添うことが多くなっていったようです。

そんな危険な状況の中、太宰は3月に『人間失格』の執筆を開始すると、5月にはそれを脱稿。『人間失格』の脱稿とほぼ同時期に『桜桃』の発表も行い、すぐさま連載小説『グッド・バイ』の原稿にも取り掛かったようです。

まるで生き急ぐように作品を次々と世に送り出した太宰でしたが、彼の死はもう間近に迫り来ていました。

太宰治の死

6月13日の夜、太宰は富栄と共に、玉川上水にて入水自殺しました。享年は38歳。太宰と富栄の死体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日だったそうです。

現在、太宰と富栄の死体が発見された6月19日は、太宰と親交のあった作家、今官一(こん かんいち)によって、太宰晩年の作品になぞらえて「桜桃忌」と名付けられ、現在では、その日になると、各地で多くの太宰関連のイベントが催されています。

太宰の突然の自殺には、様々な噂や憶測が流れ、特にその動機については多くの説がささやかれました。しかし、後年になって遺族が公開した遺書には、太宰の署名付きで「小説を書くことが、嫌になったから死ぬのです」と書かれており、自殺の動機についての論争は、現在では終結しています。

1998年 – 死後「著作権保護期間が終了」

太宰作品の著作権保護期間が終了

1998年12月31日をもって、太宰作品の著作権法上の保護期間が終了しました。これにより、現在では太宰の殆どの作品が、「青空文庫」というサイトにて無料公開されています。下部の関連外部リンクにリンクがありますので、興味がある方はぜひとも読んでみてください。

太宰治の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

回想の太宰治

太宰治の妻、津島美知子が書いた、太宰に関する回想録です。

妻として太宰と共に在っただけに、1つひとつのエピソードに関する信ぴょう性も高く、読み物としても資料としても面白い、太宰ファン必見の本となっています。

太宰治 生涯と文学

太宰と旧知の中であり、『太宰治全集』の編集を担当した、野原一夫による「太宰作品の入門書」です。太宰の生涯や人間性など、太宰治という文豪の人生が、この一冊に凝縮されています。

おすすめ映画

人間失格

太宰の自伝とも言われる名作、『人間失格』の映像化作品。文章から漂う、静かな退廃と滅びの美しさを、映像として見事に表現した良作です。

主人公である葉蔵を演じるのは、生田斗真さん。複雑な内面を持ち、それ故に人から愛され、愛ゆえに破滅する難しい役どころを、見事に演じ切っています。

人間失格 太宰治と3人の女たち

『人間失格』を、完全に太宰の自伝と位置付けた映画作品。太宰の晩年を舞台に、津島美知子、太田静子、山崎富栄の3人との愛に溺れつつ、「自分にしか書けない物語」に心血を注ぐ太宰を、芸術的かつ官能的に描いています。

主人公である太宰を演じるのは、小栗旬さん。全てを文学に捧げる太宰の生き様を、狂気すら感じるほどに熱演しています。

関連外部リンク

太宰治についてのまとめ

数多くの名作と、数多くの奔放なエピソードを遺し、嵐のようにこの世を去っていった文豪、太宰治。

太宰自身の人間性にまつわるエピソードを知ると、率直にいって「ダメ人間」極まる人物に映りますが、そんな風に人間の弱さや宿業を、身をもって知った彼だからこそ、『斜陽』や『人間失格』のような、人の内面を痛烈にえぐるような名作を生み出すことができたのかもしれません。

この記事から太宰の作品に興味を持って下さった方がいらっしゃったなら、筆者はまず、『人間失格』を読むことをお勧めいたします。ともかく1度、この記事と並べて読んでいただければ分かると思うのですが、太宰の人生が詰まった、太宰らしさ全開の珠玉の名作です。

それでは、ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました。この記事で、大宰ファンが一人でも増えていただけると嬉しいです。

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