アッバース朝とは?年表まとめ【特色や支配領域も分かりやすく解説】

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アッバース朝とは

イラクに存在した王朝

メソポタミアの地図

アッバース朝は現在のイラクを中心に存在した王朝です。イラクはティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を国土の中心とします。この地域は二つの川に挟まれた地方という意味でメソポタミアとよばれていました。

古来、メソポタミアには多くの勢力が都をおいています。古バビロニア王国はバビロンを、パルティアやササン朝ペルシアはクテシフォンを都としますが、どちらもメソポタミア地域にある都市です。

複数の王朝がメソポタミアに都をおいた理由はメソポタミアが高い農業生産を誇る地域だったからです。アッバース朝も現在のイラクにあたるメソポタミア地域に新都バグダードを建設して本拠としました。

アッバース朝の支配領域は?

アッバース朝の領土(イベリア半島と北アフリカの濃い緑は除く)

アッバース朝の支配領域は、西は北アフリカ、東は中央アジアに及ぶ広大な地域でした。この領土はムハンマドや彼の後継者である正統カリフ、さらにアッバース朝に打倒されるウマイヤ朝によって築かれたものです。

7世紀前半のムハンマドの時代、イスラーム勢力の領土はアラビア半島に限られていました。ムハンマドの後継者である正統カリフの時代、現在のイラン・イラクを支配していたササン朝を倒し、ビザンツ帝国からエジプトやシリアを奪うことで、イスラーム勢力は一大勢力となります。

その跡を継いだウマイヤ朝は北アフリカやイベリア半島、中央アジアのホラーサーン、インダス川の手前まで領土を拡大します。アッバース朝はウマイヤ家の生き残りが独立するイベリア半島(後ウマイヤ朝)以外のウマイヤ朝の領土を継承する大帝国となったのです。

アッバース朝の都「バグダード」

バグダードを建設したアル・マンスール

アッバース朝は新たにバグダード(バグダッド)を建設し都としました。バグダードを建設したのはアッバース朝2代目のカリフであるアル・マンスールです。アル・マンスールはウマイヤ朝の残党や敵対するシーア派を弾圧し、アッバース朝の支配を強めたカリフです。

支配力を確固たるものにしたアル・マンスールは762年に新都バグダードの建設を開始します。バグダードはメソポタミア平原のほぼ中央に位置し、ティグリス側の両側を市街地とする都市です。

アッバース朝時代のバグダード

アル・マンスールは直径2.35キロメートルの正円の城壁を作らせました。円形の外観から、バグダードは円状都市・環状都市ともよばれます。場内に住むことを許されたのはカリフなど特権階級のみで、他の住民は城壁の外に住まわされます。

イスラーム帝国の首都となったバグダードは最盛期には200万の人口を数えます。バグダードに匹敵する都市はの都長安ぐらいでしょう。こうして大都市となったバグダードは「マディーナ・アッサラーム(平安の都)」とたたえられます。

モンゴルによって滅ぼされた

アッバース朝を滅ぼしたフラグ

アッバース朝を完全に滅ぼしたのはモンゴル帝国のフラグです。フラグはモンゴル帝国の創始者であるチンギス・ハンの孫で、西アジア方面軍の司令官でした。1258年、フラグはバグダードを包囲攻撃し陥落させました。

陥落した時、バグダードには知恵の館とよばれる天文台付きの図書館が破壊され多くの学術書が破棄されました。また、モンゴル軍はバグダードで破壊と略奪の限りを尽くし、数十万人規模の虐殺が起きました。

フラグ・ウルス(イル・ハン国)の領土
出典:Wikipedia

バグダードの支配者だったアッバース朝のカリフであるムスタアスィムはモンゴル軍に捕らえられフラグによって処刑されました。これによりアッバース朝は滅亡しました。その後、バグダードを含むイラク周辺はフラグの子孫が建てたイル・ハン国(イル・ハン朝)の領土となります。

アッバース朝の特色

ウマイヤ朝を打倒して成立

クーファの大モスク

アッバース朝はウマイヤ朝を打倒して成立した王朝です。ウマイヤ朝打倒運動の中心となったのはアッバース家のアブー・アルアッバースです。彼はイラクのクーファを本拠地に反ウマイヤ朝勢力を結集し反乱を起こしたのです。

では、なぜウマイヤ朝に反発する勢力が生まれたのでしょうか。それは、ウマイヤ朝がアラブ人至上主義の王朝だったからです。身分はもとより、税制もアラブ人が圧倒的に有利でした。イスラーム教に改宗した非アラブ人は「ムスリム(イスラーム教徒)の平等」の理念に反するとしてウマイヤ朝に反発します。

アブー・アルアッバースは彼らの不満の受け皿となりました。また、スンナ派のウマイヤ朝に反発するシーア派の支援も取り付けます。こうして準備を整えたアブー・アルアッバースは750年にウマイヤ朝の打倒に成功し、アッバース朝を打ち立てました。このことをアッバース革命ともいいます。

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