アッバース朝とは
イラクに存在した王朝
アッバース朝は現在のイラクを中心に存在した王朝です。イラクはティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を国土の中心とします。この地域は二つの川に挟まれた地方という意味でメソポタミアとよばれていました。
古来、メソポタミアには多くの勢力が都をおいています。古バビロニア王国はバビロンを、パルティアやササン朝ペルシアはクテシフォンを都としますが、どちらもメソポタミア地域にある都市です。
複数の王朝がメソポタミアに都をおいた理由はメソポタミアが高い農業生産を誇る地域だったからです。アッバース朝も現在のイラクにあたるメソポタミア地域に新都バグダードを建設して本拠としました。
アッバース朝の支配領域は?
アッバース朝の支配領域は、西は北アフリカ、東は中央アジアに及ぶ広大な地域でした。この領土はムハンマドや彼の後継者である正統カリフ、さらにアッバース朝に打倒されるウマイヤ朝によって築かれたものです。
7世紀前半のムハンマドの時代、イスラーム勢力の領土はアラビア半島に限られていました。ムハンマドの後継者である正統カリフの時代、現在のイラン・イラクを支配していたササン朝を倒し、ビザンツ帝国からエジプトやシリアを奪うことで、イスラーム勢力は一大勢力となります。
その跡を継いだウマイヤ朝は北アフリカやイベリア半島、中央アジアのホラーサーン、インダス川の手前まで領土を拡大します。アッバース朝はウマイヤ家の生き残りが独立するイベリア半島(後ウマイヤ朝)以外のウマイヤ朝の領土を継承する大帝国となったのです。
アッバース朝の都「バグダード」
アッバース朝は新たにバグダード(バグダッド)を建設し都としました。バグダードを建設したのはアッバース朝2代目のカリフであるアル・マンスールです。アル・マンスールはウマイヤ朝の残党や敵対するシーア派を弾圧し、アッバース朝の支配を強めたカリフです。
支配力を確固たるものにしたアル・マンスールは762年に新都バグダードの建設を開始します。バグダードはメソポタミア平原のほぼ中央に位置し、ティグリス側の両側を市街地とする都市です。
アル・マンスールは直径2.35キロメートルの正円の城壁を作らせました。円形の外観から、バグダードは円状都市・環状都市ともよばれます。場内に住むことを許されたのはカリフなど特権階級のみで、他の住民は城壁の外に住まわされます。
イスラーム帝国の首都となったバグダードは最盛期には200万の人口を数えます。バグダードに匹敵する都市は唐の都長安ぐらいでしょう。こうして大都市となったバグダードは「マディーナ・アッサラーム(平安の都)」とたたえられます。
モンゴルによって滅ぼされた
アッバース朝を完全に滅ぼしたのはモンゴル帝国のフラグです。フラグはモンゴル帝国の創始者であるチンギス・ハンの孫で、西アジア方面軍の司令官でした。1258年、フラグはバグダードを包囲攻撃し陥落させました。
陥落した時、バグダードには知恵の館とよばれる天文台付きの図書館が破壊され多くの学術書が破棄されました。また、モンゴル軍はバグダードで破壊と略奪の限りを尽くし、数十万人規模の虐殺が起きました。
バグダードの支配者だったアッバース朝のカリフであるムスタアスィムはモンゴル軍に捕らえられフラグによって処刑されました。これによりアッバース朝は滅亡しました。その後、バグダードを含むイラク周辺はフラグの子孫が建てたイル・ハン国(イル・ハン朝)の領土となります。
アッバース朝の特色
ウマイヤ朝を打倒して成立
アッバース朝はウマイヤ朝を打倒して成立した王朝です。ウマイヤ朝打倒運動の中心となったのはアッバース家のアブー・アルアッバースです。彼はイラクのクーファを本拠地に反ウマイヤ朝勢力を結集し反乱を起こしたのです。
では、なぜウマイヤ朝に反発する勢力が生まれたのでしょうか。それは、ウマイヤ朝がアラブ人至上主義の王朝だったからです。身分はもとより、税制もアラブ人が圧倒的に有利でした。イスラーム教に改宗した非アラブ人は「ムスリム(イスラーム教徒)の平等」の理念に反するとしてウマイヤ朝に反発します。
アブー・アルアッバースは彼らの不満の受け皿となりました。また、スンナ派のウマイヤ朝に反発するシーア派の支援も取り付けます。こうして準備を整えたアブー・アルアッバースは750年にウマイヤ朝の打倒に成功し、アッバース朝を打ち立てました。このことをアッバース革命ともいいます。
イラン人を登用し中央集権化
アッバース朝で活躍したのは改宗したムスリム、中でもイラン人でした。ウマイヤ朝時代、イラン人はアラブ帝国の二級市民ともいえる存在でした。イスラーム教に改宗したにもかかわらず、常にアラブ人の下に置かれたからです。
アブー・アルアッバースが挙兵した時、ホラーサーン地方のイラン人は彼の軍の主力として参加しアッバース革命で活躍しました。その結果、イラン人たちはアッバース朝で社会的地位を向上できたのです。さらに、イラン人たちはアッバース朝カリフの親衛隊も務めました。
また、アッバース朝は行政能力に長けたイラン人を官僚として登用しました。そのため、アッバース朝の最高官職である宰相(ワズィール)の地位はイラン人によって独占されます。そして、官僚制度なども中央集権化されていたイラン人の王朝であるササン朝ペルシアの影響が強まりました。
スンナ派を採用し、シーア派を弾圧
イスラーム教には大きく分けてスンナ派とシーア派の二つの宗派があります。ウマイヤ朝の君主をムハンマドの後継者と認めるのがスンナ派、ウマイヤ朝によって排除された第4代正統カリフのアリーの子孫のみを後継者と認めるのがシーア派です。
ウマイヤ朝を打倒する際、アブー・アルアッバースはシーア派の力を利用しました。彼がシーア派の力が強いイランやイラクを根拠地としていたこともその理由でしょう。しかし、ウマイヤ朝の打倒後、アッバース朝は手のひらを返してシーア派を弾圧します。
その理由は、イスラーム世界においてスンナ派が圧倒的多数派だったからです。アブー・アルアッバースの裏切りをシーア派は許しませんでした。そのため、アッバース朝の時代を通じてシーア派は反乱を繰り返すようになります。こうした反乱がおきるつど、アッバース朝はシーア派を厳しく弾圧しました。
税制改革を行いムスリム間の平等を目指す
イスラーム教の聖典『コーラン(クルアーン)』において、ムスリム(イスラーム教徒)は性別や年齢、人種、財産などに関わらず平等であると規定されました。にもかかわらず、ウマイヤ朝の時代、支配者のアラブ人は税制面でも優遇された存在でした。
ムスリムの平等を掲げるアッバース朝は、ウマイヤ朝を打倒したのち、ハラージュ(土地税)を非課税だったアラブ人に課します。と同時に、非アラブ人のムスリムに課されていたジズヤ(人頭税)は免除となりました。
これにより、アラブ人も非アラブ人もハラージュを支払い、ムスリムであればアラブ人も非アラブ人もジズヤを免除されることになりました。こうして、税制面でのムスリムの平等が達成されたのです。
イスラーム文化を生み出した
アッバース朝の時代、イスラーム教を中核とするイスラーム文化が栄えました。イスラーム文化はイスラーム教とアラビア語を軸とし、他の地域の文化が融合してできたものです。
イスラーム文化が成立した背景にはイスラーム教の特徴があります。その特徴とはイスラーム教が民族差別を否定し、ムスリムの平等を掲げたことです。これは、アッバース朝でも大義名分として掲げられた考え方でした。
イスラーム文化の代表作の一つが『千夜一夜物語』です。この作品の土台はササン朝ペルシア時代に書かれた『千物語』です。イランから流入した物語は、8世紀後半にバグダードで翻訳され、イスラーム世界全体に流布します。
また、830年ころにはアッバース朝のカリフである第7代カリフのマームーンがバグダードに「知恵の館」を建設しました。この施設では古代ギリシア文献の翻訳などを行います。「知恵の館」はギリシアの叡智を現代に伝える大切な役割を果たしました。
アッバース朝の歴史年表
750年:ウマイヤ朝が打倒されアッバース朝が成立
ウマイヤ朝の支配に反発する人々は747年にイラン東部のホラーサーン地方で反乱を起こしました。反乱軍は749年にイラク中部の都市クーファを占領します。彼らはウマイヤ朝に攻撃されクーファに逃げ込んでいたアブー・アルアッバースをカリフに推戴し、アッバース朝が始まります。
750年、アッバース朝軍とウマイヤ朝軍はイラク北部の中心都市モスル近郊にあるザーブ川のほとりで激突します。アッバース軍は黒旗を、ウマイヤ朝軍は白旗を奉じて戦いました。最終的に戦いはアッバース朝軍の勝利に終わります。
勝利したアッバース朝軍はそのままウマイヤ朝の都があるシリアのダマスクスに進撃し、これを陥落させました。そして、ウマイヤ朝の王族の大半を殺害します。生き残った王族のアブド・アッラフマーンは遠くイベリア半島に逃れ後ウマイヤ朝をたてアッバース朝に抵抗します。
751年:タラス河畔の戦いで唐に勝利
750年、唐の安西節度使だった高仙芝が唐の領土西端にある西域(東トルキスタン)から隣接するソグディアナ(西トルキスタン)に軍事的な圧力をかけました。ソグディアナにあった国の一つ「石国(タシュケント)」は西隣のホラーサーン地方を支配していたアッバース朝に支援を求めます。
要請に応じたアッバース朝軍は西トルキスタンに入りました。一方、唐軍も西トルキスタンのタラス城に入りました。そして、アッバース朝軍と唐軍はタラス河畔で激突します。戦いのさなか、唐軍に加わっていた遊牧民族のカルルクが突如としてアッバース朝軍に寝返ります。
この寝返りがきっかけとなって唐軍は総崩れとなりました。唐軍は3万から10万いたとされますが、その多くが戦死あるいは捕虜となります。捕虜となった兵士の中に紙すき職人がいました。戦いの後、サマルカンドに製紙工場がつくられ製紙法がイスラーム世界全体に伝わります。
766年:都バグダードが完成
766年、アッバース朝2代カリフのアル・マンスールはメソポタミアに新都バグダードを建設しました。彼がこの地に新都を建設した理由は、運河が密集する交通の要衝であり、複雑に流れる河川によって防衛が容易だったからです。
新都建設に先立ってアル・マンスールは建設予定地を灰で取り囲み、その中に油をまいて火をつけました。遠くからこの様子を見たアル・マンスールは新都のおおよその大きさを把握します。
こうして、762年に新都バグダードの建設が始まりました。建設には4年の歳月と400万ディルハムもの巨費が投じられます。そして、766年に円形の城壁を持つバグダードが完成しました。
円形の城壁の内側にはカリフの宮殿「黄金門宮」がそびえ、壮麗なモスクも立てられます。これらの建物にはイスラーム世界で高貴な色とされた緑色のタイルが多数使われました。こうして出来上がった新都バグダードはイスラーム帝国の首都として繁栄を極めます。
786年:ハールーン・アッラシードがカリフとなる
アッバース朝最盛期のカリフは第5代のハールーン・アッラシードです。彼の時代、東には唐王朝、小アジアからバルカン半島には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、西ヨーロッパにはフランク王国がありました。
なかでもフランク王国のカール大帝とは友好関係を持ち、彼に像を贈ったことが記録されています。カール大帝は象に「アブル・アッバース」の名をつけ飼育しました。
ハールーン・アッラシードはビザンツ帝国との3度にわたる戦いで親征し、いずれも勝利しています。これにより、中東地域でのアッバース朝の覇権はゆるぎないものとなりました。国内では安定した治世を展開し、権勢を持ちすぎた宰相一族を粛清するなどカリフの権威を高めます。
彼の名前を後世に残したのが文学作品『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』でした。この中で彼は夜な夜なバグダードに繰り出す君主として描かれています。イスラーム世界にとって、ハールーン・アッラシードの名は平和と安定の象徴となったのかもしれません。
869年:ザンジュの乱がおきる
ザンジュとは、タンザニアやモザンビークといった東アフリカなどからイスラーム商人によって連れてこられた黒人奴隷のことです。彼らはイラク南部のバスラ周辺地域の農場で奴隷として働かされました。彼らの数はおよそ100万人と推計されています。
869年、第4代正統カリフであるアリーの子孫と称するアリー・ブン・ムハンマドがザンジュたちを扇動し反乱を起こしました。反乱軍はアラブ遊牧民の支援を受け勢力を拡大し、イラク南部を占拠します。そして、一時的に独立国を築きました。
これに対しアッバース朝は何度も討伐軍を差し向けますが、その都度撃退されます。ようやく、883年にザンジュの乱は鎮圧されました。しかし、アッバース朝の心臓部にあたるイラク南部で反乱が長期化したことによりアッバース朝の権威は大きく低下しました。
946年:ブワイフ朝がバグダードを占領
後ウマイヤ朝やファーティマ朝の君主がカリフを称するようになると、アッバース朝のカリフの権威は低下しました。同時に、各地の地方政権が独立するとアッバース朝は一層弱体化し、10世紀にはイラク周辺を支配するだけの地方政権となっていました。
946年、イランを支配していたシーア派のブワイフ朝の軍勢がバグダードに入城します。このとき、カリフはブワイフ朝の君主を大アミールに任じ、イスラーム法執行の権利を委ねました。こうして、カリフは宗教的な権威だけを持ち、政治はブワイフ朝の君主である大アミールが行う体制が出来上がります。
この時代のカリフはブワイフ朝の君主によってその地位を左右される弱い存在となりました。ブワイフ朝の君主はカリフを交代させたいと考えた時、その目をつぶします。五体満足なものしかカリフになれないという規定を利用し、カリフの目をつぶすことでカリフの資格を喪失させたのです。
1055年:セルジューク朝がバグダードを占領
シーア派のブワイフ朝によるバグダード支配は1世紀にわたって続きました。その間、ブワイフ朝では内紛が起き国力を低下させてしまいます。この隙をついてバグダードに入城したのがセルジューク朝でした。
セルジューク朝は中央アジア発祥のトルコ人政権です。スンナ派を奉じ、シーア派のブワイフ朝からアッバース朝のカリフを解放しました。これに喜んだカリフはセルジューク朝のリーダーにスルタンの称号を与えます。
セルジューク朝に解放された後もアッバース朝のカリフには実権が戻らず、セルジューク朝のスルタンに政治権力を握られたままでした。
1258年:モンゴル帝国のフラグがアッバース朝を滅ぼす
12世紀末、セルジューク朝の衰退に乗じてアッバース朝のカリフはイラクの支配権を回復しました。しかし、13世紀前半になると新たな脅威が東からやってきました。モンゴル帝国の西アジア進出です。
モンゴル帝国の創始者であるチンギス・ハンの孫のフラグは10万の大軍を率いて西方遠征を開始しました。フラグ率いるモンゴル軍はバグダードに到着するや、アッバース朝のカリフに降伏を勧告します。しかし、カリフのムスタアスィムはフラグの降伏勧告を拒否しました。
そのため、フラグはバグダードの総攻撃を命じます。ムスタアスィムは2万の兵でモンゴル軍に抵抗しましたが大敗を喫し、モンゴル軍に捕らえられます。そして、ムスタアスィムは3人の子供と共に処刑されアッバース朝は滅亡しました。
その後、アッバース朝の生き残りはエジプトに逃れ、マムルーク朝のバイバルスによってカリフに推戴されます。以後、マムルーク朝が滅亡するまでエジプトのカイロでアッバース朝のカリフは命脈をつなぎました。アッバース家のカリフが完全に滅ぶのはマムルーク朝滅亡後の1543年になります。
アッバース朝に関するまとめ
いかがでしたか?
アッバース朝は8世紀から13世紀にかけてイラクのバグダードを中心に存在したイスラームの王朝です。ウマイヤ朝を打倒したアッバース朝は税制改革などを行いムスリムの平等を達成しました。
アッバース朝の最盛期はハールーン・アッラシードの時代です。この時代はイスラーム世界にとっても素晴らしい時代と考えられ、『千夜一夜物語』にもハールーン・アッラシードは登場します。しかし、アッバース朝はブワイフ朝やセルジューク朝の傀儡にされてしまい、最終的にモンゴル帝国のフラグによって滅ぼされます。
アッバース朝がどんな王朝だったのか、アッバース朝がどこに存在した王朝だったのか、アッバース朝の建国と滅亡はどうだったのかなどについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。
長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。