アッバース朝とは?年表まとめ【特色や支配領域も分かりやすく解説】

766年:都バグダードが完成

766年、アッバース朝2代カリフのアル・マンスールはメソポタミアに新都バグダードを建設しました。彼がこの地に新都を建設した理由は、運河が密集する交通の要衝であり、複雑に流れる河川によって防衛が容易だったからです。

新都建設に先立ってアル・マンスールは建設予定地を灰で取り囲み、その中に油をまいて火をつけました。遠くからこの様子を見たアル・マンスールは新都のおおよその大きさを把握します。

イスラーム世界で使用されたディルハム銀貨

こうして、762年に新都バグダードの建設が始まりました。建設には4年の歳月と400万ディルハムもの巨費が投じられます。そして、766年に円形の城壁を持つバグダードが完成しました。

円形の城壁の内側にはカリフの宮殿「黄金門宮」がそびえ、壮麗なモスクも立てられます。これらの建物にはイスラーム世界で高貴な色とされた緑色のタイルが多数使われました。こうして出来上がった新都バグダードはイスラーム帝国の首都として繁栄を極めます。

786年:ハールーン・アッラシードがカリフとなる

カール大帝の使節団を謁見するハールーン・アッラシード

アッバース朝最盛期のカリフは第5代のハールーン・アッラシードです。彼の時代、東には王朝、小アジアからバルカン半島には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、西ヨーロッパにはフランク王国がありました。

なかでもフランク王国のカール大帝とは友好関係を持ち、彼に像を贈ったことが記録されています。カール大帝は象に「アブル・アッバース」の名をつけ飼育しました。

アッバース朝軍がビザンツ帝国に勝利したアモリオンの戦い

ハールーン・アッラシードはビザンツ帝国との3度にわたる戦いで親征し、いずれも勝利しています。これにより、中東地域でのアッバース朝の覇権はゆるぎないものとなりました。国内では安定した治世を展開し、権勢を持ちすぎた宰相一族を粛清するなどカリフの権威を高めます。

彼の名前を後世に残したのが文学作品『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』でした。この中で彼は夜な夜なバグダードに繰り出す君主として描かれています。イスラーム世界にとって、ハールーン・アッラシードの名は平和と安定の象徴となったのかもしれません。

869年:ザンジュの乱がおきる

黒人奴隷(ザンジュ)の輸出港となったザンジバルとその周辺

ザンジュとは、タンザニアやモザンビークといった東アフリカなどからイスラーム商人によって連れてこられた黒人奴隷のことです。彼らはイラク南部のバスラ周辺地域の農場で奴隷として働かされました。彼らの数はおよそ100万人と推計されています。

869年、第4代正統カリフであるアリーの子孫と称するアリー・ブン・ムハンマドがザンジュたちを扇動し反乱を起こしました。反乱軍はアラブ遊牧民の支援を受け勢力を拡大し、イラク南部を占拠します。そして、一時的に独立国を築きました。

これに対しアッバース朝は何度も討伐軍を差し向けますが、その都度撃退されます。ようやく、883年にザンジュの乱は鎮圧されました。しかし、アッバース朝の心臓部にあたるイラク南部で反乱が長期化したことによりアッバース朝の権威は大きく低下しました。

946年:ブワイフ朝がバグダードを占領

後ウマイヤ朝やファーティマ朝の君主がカリフを称するようになると、アッバース朝のカリフの権威は低下しました。同時に、各地の地方政権が独立するとアッバース朝は一層弱体化し、10世紀にはイラク周辺を支配するだけの地方政権となっていました。

ブワイフ朝の領土

946年、イランを支配していたシーア派のブワイフ朝の軍勢がバグダードに入城します。このとき、カリフはブワイフ朝の君主を大アミールに任じ、イスラーム法執行の権利を委ねました。こうして、カリフは宗教的な権威だけを持ち、政治はブワイフ朝の君主である大アミールが行う体制が出来上がります。

この時代のカリフはブワイフ朝の君主によってその地位を左右される弱い存在となりました。ブワイフ朝の君主はカリフを交代させたいと考えた時、その目をつぶします。五体満足なものしかカリフになれないという規定を利用し、カリフの目をつぶすことでカリフの資格を喪失させたのです。

1055年:セルジューク朝がバグダードを占領

セルジューク朝の領土

シーア派のブワイフ朝によるバグダード支配は1世紀にわたって続きました。その間、ブワイフ朝では内紛が起き国力を低下させてしまいます。この隙をついてバグダードに入城したのがセルジューク朝でした。

セルジューク朝は中央アジア発祥のトルコ人政権です。スンナ派を奉じ、シーア派のブワイフ朝からアッバース朝のカリフを解放しました。これに喜んだカリフはセルジューク朝のリーダーにスルタンの称号を与えます。

セルジューク朝に解放された後もアッバース朝のカリフには実権が戻らず、セルジューク朝のスルタンに政治権力を握られたままでした。

1258年:モンゴル帝国のフラグがアッバース朝を滅ぼす

12世紀末、セルジューク朝の衰退に乗じてアッバース朝のカリフはイラクの支配権を回復しました。しかし、13世紀前半になると新たな脅威が東からやってきました。モンゴル帝国の西アジア進出です。

モンゴル帝国の創始者であるチンギス・ハンの孫のフラグは10万の大軍を率いて西方遠征を開始しました。フラグ率いるモンゴル軍はバグダードに到着するや、アッバース朝のカリフに降伏を勧告します。しかし、カリフのムスタアスィムはフラグの降伏勧告を拒否しました。

バグダードを攻撃するフラグのモンゴル軍

そのため、フラグはバグダードの総攻撃を命じます。ムスタアスィムは2万の兵でモンゴル軍に抵抗しましたが大敗を喫し、モンゴル軍に捕らえられます。そして、ムスタアスィムは3人の子供と共に処刑されアッバース朝は滅亡しました。

アッバース朝の生き残りをカリフとして推戴したマムルーク朝のスルタン、バイバルス

その後、アッバース朝の生き残りはエジプトに逃れ、マムルーク朝のバイバルスによってカリフに推戴されます。以後、マムルーク朝が滅亡するまでエジプトのカイロでアッバース朝のカリフは命脈をつなぎました。アッバース家のカリフが完全に滅ぶのはマムルーク朝滅亡後の1543年になります。

アッバース朝に関するまとめ

いかがでしたか?

アッバース朝は8世紀から13世紀にかけてイラクのバグダードを中心に存在したイスラームの王朝です。ウマイヤ朝を打倒したアッバース朝は税制改革などを行いムスリムの平等を達成しました。

アッバース朝の最盛期はハールーン・アッラシードの時代です。この時代はイスラーム世界にとっても素晴らしい時代と考えられ、『千夜一夜物語』にもハールーン・アッラシードは登場します。しかし、アッバース朝はブワイフ朝やセルジューク朝の傀儡にされてしまい、最終的にモンゴル帝国のフラグによって滅ぼされます。

アッバース朝がどんな王朝だったのか、アッバース朝がどこに存在した王朝だったのか、アッバース朝の建国と滅亡はどうだったのかなどについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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