アッバース朝とは?年表まとめ【特色や支配領域も分かりやすく解説】

イラン人を登用し中央集権化

アッバース朝で活躍したのは改宗したムスリム、中でもイラン人でした。ウマイヤ朝時代、イラン人はアラブ帝国の二級市民ともいえる存在でした。イスラーム教に改宗したにもかかわらず、常にアラブ人の下に置かれたからです。

ホラーサーンの位置

アブー・アルアッバースが挙兵した時、ホラーサーン地方のイラン人は彼の軍の主力として参加しアッバース革命で活躍しました。その結果、イラン人たちはアッバース朝で社会的地位を向上できたのです。さらに、イラン人たちはアッバース朝カリフの親衛隊も務めました。

また、アッバース朝は行政能力に長けたイラン人を官僚として登用しました。そのため、アッバース朝の最高官職である宰相(ワズィール)の地位はイラン人によって独占されます。そして、官僚制度なども中央集権化されていたイラン人の王朝であるササン朝ペルシアの影響が強まりました。

スンナ派を採用し、シーア派を弾圧

緑色がスンナ派、赤紫色がシーア派の勢力が強い地域

イスラーム教には大きく分けてスンナ派とシーア派の二つの宗派があります。ウマイヤ朝の君主をムハンマドの後継者と認めるのがスンナ派、ウマイヤ朝によって排除された第4代正統カリフのアリーの子孫のみを後継者と認めるのがシーア派です。

ウマイヤ朝を打倒する際、アブー・アルアッバースはシーア派の力を利用しました。彼がシーア派の力が強いイランやイラクを根拠地としていたこともその理由でしょう。しかし、ウマイヤ朝の打倒後、アッバース朝は手のひらを返してシーア派を弾圧します。

その理由は、イスラーム世界においてスンナ派が圧倒的多数派だったからです。アブー・アルアッバースの裏切りをシーア派は許しませんでした。そのため、アッバース朝の時代を通じてシーア派は反乱を繰り返すようになります。こうした反乱がおきるつど、アッバース朝はシーア派を厳しく弾圧しました。

税制改革を行いムスリム間の平等を目指す

アラブ人たちが住むアラビア半島

イスラーム教の聖典『コーラン(クルアーン)』において、ムスリム(イスラーム教徒)は性別や年齢、人種、財産などに関わらず平等であると規定されました。にもかかわらず、ウマイヤ朝の時代、支配者のアラブ人は税制面でも優遇された存在でした。

ムスリムの平等を掲げるアッバース朝は、ウマイヤ朝を打倒したのち、ハラージュ(土地税)を非課税だったアラブ人に課します。と同時に、非アラブ人のムスリムに課されていたジズヤ(人頭税)は免除となりました。

これにより、アラブ人も非アラブ人もハラージュを支払い、ムスリムであればアラブ人も非アラブ人もジズヤを免除されることになりました。こうして、税制面でのムスリムの平等が達成されたのです。

イスラーム文化を生み出した

アッバース朝の時代、イスラーム教を中核とするイスラーム文化が栄えました。イスラーム文化はイスラーム教とアラビア語を軸とし、他の地域の文化が融合してできたものです。

イスラーム文化が成立した背景にはイスラーム教の特徴があります。その特徴とはイスラーム教が民族差別を否定し、ムスリムの平等を掲げたことです。これは、アッバース朝でも大義名分として掲げられた考え方でした。

『千夜一夜物語』の語り部、シェヘラザード

イスラーム文化の代表作の一つが『千夜一夜物語』です。この作品の土台はササン朝ペルシア時代に書かれた『千物語』です。イランから流入した物語は、8世紀後半にバグダードで翻訳され、イスラーム世界全体に流布します。

また、830年ころにはアッバース朝のカリフである第7代カリフのマームーンがバグダードに「知恵の館」を建設しました。この施設では古代ギリシア文献の翻訳などを行います。「知恵の館」はギリシアの叡智を現代に伝える大切な役割を果たしました。

アッバース朝の歴史年表

750年:ウマイヤ朝が打倒されアッバース朝が成立

アッバース朝を開いたアブーアルアッバース

ウマイヤ朝の支配に反発する人々は747年にイラン東部のホラーサーン地方で反乱を起こしました。反乱軍は749年にイラク中部の都市クーファを占領します。彼らはウマイヤ朝に攻撃されクーファに逃げ込んでいたアブー・アルアッバースをカリフに推戴し、アッバース朝が始まります。

750年、アッバース朝軍とウマイヤ朝軍はイラク北部の中心都市モスル近郊にあるザーブ川のほとりで激突します。アッバース軍は黒旗を、ウマイヤ朝軍は白旗を奉じて戦いました。最終的に戦いはアッバース朝軍の勝利に終わります。

勝利したアッバース朝軍はそのままウマイヤ朝の都があるシリアのダマスクスに進撃し、これを陥落させました。そして、ウマイヤ朝の王族の大半を殺害します。生き残った王族のアブド・アッラフマーンは遠くイベリア半島に逃れ後ウマイヤ朝をたてアッバース朝に抵抗します。

751年:タラス河畔の戦いで唐に勝利

750年、唐の安西節度使だった高仙芝が唐の領土西端にある西域(東トルキスタン)から隣接するソグディアナ(西トルキスタン)に軍事的な圧力をかけました。ソグディアナにあった国の一つ「石国(タシュケント)」は西隣のホラーサーン地方を支配していたアッバース朝に支援を求めます。

現在、キルギス領となっているタラス川

要請に応じたアッバース朝軍は西トルキスタンに入りました。一方、唐軍も西トルキスタンのタラス城に入りました。そして、アッバース朝軍と唐軍はタラス河畔で激突します。戦いのさなか、唐軍に加わっていた遊牧民族のカルルクが突如としてアッバース朝軍に寝返ります。

この寝返りがきっかけとなって唐軍は総崩れとなりました。唐軍は3万から10万いたとされますが、その多くが戦死あるいは捕虜となります。捕虜となった兵士の中に紙すき職人がいました。戦いの後、サマルカンドに製紙工場がつくられ製紙法がイスラーム世界全体に伝わります。

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