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新撰組局長!近藤勇とはどんな武士?生涯・年表まとめ【性格や死因についても紹介】

江戸末期、尊王攘夷の思想が渦巻いていた京都において尊王攘夷の志士たちを恐れおののかせた新撰組。

今回解説していく近藤勇はこの新撰組の局長であり、池田屋事件や禁門の変などで功績を挙げることになります。

近藤勇

しかし、その一方で幕府が崩壊すると近藤勇は新政府軍に捕らえられ、斬首されるという悲劇的な最期を遂げていました。

この記事ではそんな近藤勇がどのような生涯を送り、そしてどのような功績を挙げていったのかについて迫っていこうと思います。

近藤勇ってどんな人?

名前近藤勇
誕生日1834年11月9日
生地武蔵国多摩郡上石原村
没日1868年5月17日
没地板橋刑場
配偶者松井つね
埋葬場所龍源寺(東京都三鷹市)

近藤勇の生涯をハイライト

農民に生まれながら武士の信念を持っていた近藤勇の生涯

新撰組局長として名高い近藤勇はどのような人生を送ったのでしょうか。はじめに簡単にまとめて説明したいと思います。

近藤勇は1834年、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)に百姓の息子として生まれました。幼い頃から剣術に親しんでいた近藤は1848年に天然理心流の道場「試衛館」に入門。1861年に才能が認められ、天然理心流の師範となりました。

師範になって2年、近藤は土方歳三を含めた道場の門下生8人と共に、幕府が募集する浪士組(後に新撰組と呼ばれる)に応募します。思想の違いや当時の浪士組の隊長芹沢鴨との対立など数々の障害にあいながらも、近藤と近藤を慕うものたちはなんとか新撰組を安定させました。

1864年、敵対関係にあった長州藩の暗殺計画を知った近藤たちは池田屋事件を起こします。新撰組は池田屋に潜んでいた長州藩約20名を斬り、生き残った者の捕縛に成功しました。この事件をきっかけに、新撰組の名が世間に知れ渡りました。

第二次長州征伐、将軍徳川家茂の死亡を受けて、近藤たちは京都へ帰還します。1867年には京都での活動が認められ、幕府直属の家臣になりました。しかし幕府はわずか1年で崩壊してしまいます。

1868年、近藤が所属する旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽伏見の戦いが起こりました。しかし新兵器を持っていた新政府軍に、旧幕府軍は太刀打ちできません。戦いは新政府軍の勝利に終わり、新撰組は江戸へと撤退しました。

追いつめられた近藤たちは、新撰組の恩人である松平容保が治める会津へ逃げのびようとするのですが、下総国流山で新政府軍に捕まってしまいます。近藤は、新政府軍の手により板橋刑場で斬首されました。その首は、新撰組が名を轟かせた京都の三条河原にて晒し首となったのです。

近藤勇はやさしくて穏やかだが頑固な性格をしていた

やさしくて信念のある近藤勇

近藤勇の性格について、彼のことをよく知っている人の証言がいくつかあります。

温厚な人だった。決して無鉄砲な乱暴者ではない。

愛嬌があって、いつもニコニコと笑っていた。

強情者だった。

武勇と豪胆さでは抜きん出ていて、寡黙な人だった。多くの豪傑を束ねたのもうなずける。

彼らの証言からも、やさしくていつもニコニコしているが、頑固なところもある人であることが伝わってきます。他にも、処刑されるさいに一緒に捕まった仲間2人の命乞いをする、という仲間思いなところが伝わるエピソードも存在します。

幼い頃は、三国志の英雄関羽や忠臣蔵の大石内蔵助など、忠誠心にあつい人物に憧れていました。近藤の信念の固さは、ここからきているのかもしれませんね。

近藤勇、天然理心流との出会い

幼い頃から天然理心流を習っていた

近藤勇と天然理心流との出会いは、父親の過去がきっかけになっています。

近藤の父、久次郎が子どもの頃、家に強盗が押し入りました。そのことから武術の必要性を感じ、自宅に道場を作って出稽古を受けるようになりました。

このときに招かれたのが、天然理心流三代目の近藤周助です。久次郎は近藤を含めた子どもたちに竹刀と防具を与え、剣術に親しませました。これが、近藤勇と天然理心流の出会いです。

天然理心流の道場「試衛館」は貧乏だった?

天然理心流の道場「試衛館」

新撰組が活躍する小説などを読むと、試衛館は貧乏道場というイメージを持ちます。しかしそれはフィクションで、実際は違いました。

確かに天然理心流は、当時人気だった派手な竹刀稽古とは違い、実戦に適した地味な剣術を教えていたため人気がありませんでした。

しかし、その頃の試衛館には多摩の農家の息子や他流の剣士が食客として出入りしています。大飯食らいの彼らを養っていたことを考えると、貧乏道場というほど余裕がなかったわけではないでしょう。少なくとも、彼らを養えるだけの財力を試衛館は持っていました。

近藤勇が指揮していた新撰組とは?

新撰組隊旗の一例

近藤勇が隊長として組織した新撰組という組織は今風にいう所の京都の警察みたいな組織でした。

幕末の京都には尊王攘夷という「天皇を大切にして外国人を追い払う」という考え方が浸透しており、京都にはこの考えに反する人たちを天誅という形で殺害する事件が後を絶たないほど危険地帯となっていました。

そこで新しく創設された京都守護職に就任した会津藩主である松平容保は近藤勇ら浪士を使って京都にいる尊王攘夷の志士たちを捕縛する必要が生まれ、新撰組が誕生しました。

ちなみに、幕府が崩壊すると新撰組もその役割を失い、最後には甲州(山梨県)の防衛をする部隊に変更されることになります。

どうして近藤勇は処刑されたのか?

三条河原での晒し首の様子

近藤勇といえば最期に新政府軍によって処刑されてしまったことでも知られていますが、実は元々新政府軍は近藤勇を処刑するつもりはなかったとされています。

当時新政府軍は薩長土肥という形で薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の武士が中心となっていました。

この当時、近藤勇の処分を決めていたのは薩摩藩と土佐藩でしたが、薩摩藩の方はというと新撰組とはあまり関わっておらず、そこまで敵視していなかったため、懲役刑、重くても遠島(島流し)にする予定だったそうです。

新撰組には坂本龍馬殺害容疑がかけられていた

しかし、問題は土佐藩の方でこの当時土佐藩のヒーローとしても知られていた坂本龍馬が近江屋で暗殺されたばかりであり、しかもその犯人がこの当時新撰組のメンバーだと言われていたのです。

ですから土佐藩からしたら近藤勇は故郷の有名人を暗殺した敵中の敵。

土佐藩の谷干城は近藤勇は浮浪の者だから斬首が相当としてこの主張を押し切り、最終的には武士としてはありえない斬首で処刑されることが決まったのです。

近藤勇の首の行方とは

歌川広重が描いた三条大橋

板橋で斬首された後、近藤勇の首は京都に送られ三条河原に晒されることになります。

三条河原は東海道の起点である三条大橋の近くにあり、江戸時代には晒し首と言ったらここで言われるほどの代名詞であり、ここで晒されたのは特別な心情はなかったとは思いますが、この三条河原の近くには新選組が襲撃した池田屋が近くにありました。

その後、晒された首は行方が分かっておらず、粟田口という場所で埋葬されたという説や、新撰組のゆかりの地である大谷山東本願寺に埋葬されたという説があります。

近藤勇の功績

功績1「才能が認められ、天然理心流四代目を継承」

天然理心流剣術目録

近藤勇は、なぜ天然理心流の四代目として認められたのでしょうか。

きっかけは、近藤が天然理心流の門下生となった、ある夜のことです。近藤勇の家に、強盗が押し入りました。物音で気づいた兄が、刀を持って強盗に襲いかかろうとしたところを近藤は止めました。

押し入ったばかりの強盗は気が立っています。近藤は、彼らが仕事を終えて安心したところを襲うべきだ、とさとしました。強盗がいよいよ盗品を背負って逃げようとしたところを、近藤たちは「待てっ!」と大声で斬りつけると、強盗は盗品を投げ出して、一目散に逃げ出したのです。

逃げた強盗を追おうとした兄を「窮鼠猫を嚙む」のことわざで止め、騒ぎは誰も傷つくことなく終わりました。話を聞いた天然理心流の師範は、近藤の知恵と勇気に感心して、彼に天然理心流を継がせるため、養子に迎えたのです。

功績2「池田屋事件で自ら死番を務める」

隊長自ら、真っ先に突入

池田屋に集まっていた長州藩と肥後熊本藩を襲撃した池田屋事件で、近藤は死番を務めました。

死番とは、一言でいうと敵地に真っ先に飛び込む斬り込み隊長のことです。のちの新撰組では、斬り込みは4人1組であたり、一番最初に踏み込むものを死番と呼びました。

敵の数はわからず、どこに潜んでいるかもわからない暗闇の中へ突入するには、決死の覚悟が必要だったのは想像に難くありません。そんな中を新撰組トップの近藤勇が突入する姿は、あとに続く組員にとってこれ以上ない心強いものだったでしょう。

近藤が見せた武士魂は、結果として新撰組の力を幕府の要人たちや世間に知らしめたのです。

功績3「『剣聖』男谷精一郎が認めた実戦剣 」

実戦重視の天然理心流

男谷精一郎は、数いる剣士の中で「剣聖」と呼ばれた達人です。その腕は幕府も認めるほどで、彼は幕府がつくった講武所の頭取兼剣術師範役に任命されました。講武所とは、剣術や槍術などを教える武道場のことです。

近藤勇はそんな男谷精一郎に、闘う姿勢を認められた数少ない者の一人でした。

近藤と男谷が出会うきっかけは、他流試合です。ある日、近藤は男谷の勤める道場へ、他流試合に出向きました。そこで近藤は、道場の師範である本梅縫之助と打ち合います。

試合の中で、近藤は竹刀を床に落とされてしまいました。普通なら、竹刀が手から失われた時点で、勝負を諦めてしまいます。しかし、近藤は闘う姿勢を崩さずにそのまま柔術の構えを取りました。その眼光、気迫はすさまじく、打ち合っていた本梅が気圧されるほどです。

それを見ていた男谷は、近藤が道場から去ったあとに、門下生の前で最後まで勝負を諦めなかった近藤の姿勢をほめたのです。

近藤勇の名言「人の道」

義に厚い近藤勇らしい名言

忘れてはならぬものは恩義
捨ててならぬものは義理
人にあたえるものは人情
繰り返してならぬものは過失
通してならぬものは我意
笑ってならぬものは人の失敗
聞いてならぬものは人の秘密
お金で買えぬものは信用

近藤勇は義に厚い男でした。彼が残した名言からもわかる通り、人として当たり前のことを大切にしていたのでしょう。近藤の人徳は、腕はたつけれどそれを生かす場のなかった剣士をひきつけました。

新撰組の活躍には、近藤勇の人柄も一躍かっているといっていいでしょう。移り変わりの激しい現代だからこそ、忘れず胸に留めたい言葉です。

土方歳三と沖田総司との関係は?

近藤と土方、沖田の関係は良好だった

近藤勇と土方、沖田の関係は師匠と弟子、上司と部下です。土方と沖田は同じ天然理心流で、近藤に剣を習っていました。2人は近藤をとても慕っており、近藤も2人のことを部下としても友人としても信頼していました。

穏健派の近藤と過激派の土方は正反対といってもいい性格をしており、たびたび意見が対立することがありました。しかし、いずれもちょっとした口論で治まっています。関係が決裂しなかったのは、本当に仲が良かったからでしょう。

土方歳三についてもっと知りたい方は、こちらの記事で詳しく解説しているのでぜひご覧ください。

土方歳三とはどんな武士?生涯・年表まとめ【死因や性格、エピソードについても紹介】

近藤勇にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「口が大きかった」

近藤勇は口が大きいことで知られており、特技の一つとして口の中に拳を加えるという面白いものがありました。

ちなみに、近藤勇はこの特技を大変気に入っており、同じく拳が口に入ったという伝説がある加藤清正になぞらえていつか私も清正公みたいに出世したいと笑っていたんだそうです。

都市伝説・武勇伝2 「刀が大好き」

無類の刀好きだった

近藤勇ら新撰組といえば剣術に特化した集団でしたが、近藤勇はその中でも特に刀が大好き。

暇さえあれば仲間と刀の話に熱中しおり、手紙の中に『脇差はできるだけ長いほうがよろしい』という文章が現存しているんだとか。

ちなみに、彼のお気に入りの刀は江戸時代前期の刀工である虎徹。池田屋事件の後には養父に対して『自分の刀は虎徹だったから大丈夫でした』と記していたんだそうです。

都市伝説・武勇伝3「剣だけでなく、勉学にも励んでいた?」

線香の明かりで本を読んでいた

近藤勇は剣だけでなく、勉学も怠っていなかったといいます。近藤が11、2歳の頃、ある夜に父が目を覚ますと線香の匂いが部屋に漂っていました。父は不思議に思って見回すと、隅の机に向かって近藤が座っています。

何をしているのか、と父が聞いたところ、近藤は「線香の光で本を読んでいるんです」と答えたといいます。このエピソードは近藤の甥が語ったもので、事実であったかは定かではありません。

しかし、近藤の頑固で誠実な性格を考えると、事実に思えてきますね。

近藤勇の年表を簡単にまとめると?

1834年
近藤勇生まれる
近藤勇は1834年武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)の百姓の息子として生まれました。幼名は勝五郎だとされています。

江戸時代の百姓といえばかなり辛い生活を送っていたと思われますが、江戸時代後期に入るとかなり裕福になっていき、さらには彼が生まれたところが幕府領であり税率も低かったことがあってか生活に困ることはありませんでした。

1849年
剣術家の養子となる
1848年に近藤勇は東京都新宿区にあった天然理心流の試衛場という道場に入門。

ここで目覚ましい才能を見せて翌年には天然理心流の師範である近藤周助の養子となり、近藤という名字をもらいました。その後天然理心流の4代目師範となり、名実とともに一流の剣士として認められることになります。

1863年
浪士組に入隊
近藤勇は、時の将軍徳川家茂が護衛を募集していたことを受けて土方歳三など8名を始め、240名以上と共に京へ上洛。

途中清河派との騒動があり、大半が江戸に帰りましたが、残った24人は京都に残留し、京都守護職であった松平容保のもとで壬生浪士組が発足。これがいわゆる新撰組の前身となるのでした。

1864年
池田屋事件
この頃の京都には尊王攘夷派の志士が多くおり、反対派を天誅と称して斬り殺す事件が後を絶ちませんでした。さらに、八月十八日の政変で追い出されていた長州藩士が一発逆転を狙おうと京都に火を放ちクーデターを起こす計画を起こします。

これをキャッチした近藤勇ら新撰組は長州藩士が宿泊していた池田屋に急襲。斬り捨てるか捕縛するかのどちらかとなり、尊王攘夷派の志士を壊滅に追い込みました。

1867年
幕府の家臣となる
池田屋事件以降京都にその名を轟かせた新撰組は幕府からついに家臣として認められ、会津藩預かりの幕臣となります。近藤勇も300俵の旗本となり、将軍に直々に会うことができる武士に出世することになりました。

当時身分制度が厳しい時代において百姓から武士になることはそれに見合う功績を残すことしか無理でしたので、近藤勇の苦労が報われた瞬間でした。

1868年
板橋にて処刑される
幕府から武士として認められた近藤勇でしたが、その一年後に幕府は崩壊。さらには鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れたことによって新政府軍から逃げる生活を余儀なくされます。

近藤勇は大久保剛という偽名を使って新撰組を甲陽鎮撫隊と改名。板垣退助率いる迅衝隊と甲州勝沼で戦うことになるのですが、ここで敗北。その後近藤勇は下総国流山に隠れながら活動を行なったのですが、新政府軍によって逮捕。

処分を巡って大揉めしましたが、上に書いた理由によって近藤勇は35歳で板橋刑場で斬首されてしまいました。

近藤勇の年表を具体的にまとめると?

1834年 – 0歳「近藤勇生まれる」

近藤勇武蔵国で生まれる

近藤勇は1834年に百姓であった久次郎とみよの三男として武蔵国多摩郡にて生まれました。幼名は勝五郎だと言われています。戸籍によれば近藤の家は石高七石一升と百姓としては中流ぐらいの環境であり、生活に困ることはありませんでした。

1848年 – 14歳「近藤勇、道場に入門する」

近藤勇の道場入門

土方歳三との出会い

1848年。勝五郎少年は地元から飛び出し、現在の東京都新宿区にあった天然理心流剣術の道場であった試衛場に入門。天然理心流は江戸時代後期に誕生した流派で、剣術を中心に居合、柔術、棒術なども伝えた混合の流派でした。

近藤勇はこの道場で剣術を学ぶことになるのですが、この時にのちに新撰組の中心メンバーとなる土方歳三・沖田総司・斎藤一 ・永倉新八などと出会うことになります。

近藤勇、天然理心流の師範の養子となる

当時天然理心流の師範は近藤周助という人でしたが、彼は近藤勇の才能を見出し、1849年に彼を養子に迎えて彼に近藤の苗字を与えることになります。(ちなみに近藤勇と名乗るのはこの頃ですが、わかりやすさ重視のため近藤勇で統一しています)

実は近藤周助はこの時には平均寿命の50歳を超えていたため、そろそろ後継ぎを考えていたと思われており、近藤勇に跡を継がずことを決心。1861年には正式に天然理心流の師範を近藤勇に譲ることとなり、近藤勇は4代目天然理心流宗家師範としての肩書きを持つことになったのです。

1863年 – 29歳「近藤勇、新選組を結成」

浪士組の結成

清河八郎

近藤勇が師範となってから2年後の1863年。この頃の幕府は10年前のペリー来航の頃から混乱続きであり、幕府の権威が揺らいでいたそんな時期でした。そんな折、江戸幕府は清河八郎の献策を受け入れて将軍の上洛の警護をする部隊の浪士組の新設を決定し、我こそはという人を募集し始めます。

この募集を受けて近藤勇は土方歳三ら道場の門下生8人共に浪士組にに応募。2月には京都に入り、将軍の警護をすることを決心したのです。

清河八郎との対立と壬生浪士組結成

近藤勇

こうして京都に入った近藤勇ら8人でしたが、そんな中提案者である清河八郎から驚きの一言が飛び出します。

なんと清河八郎曰く、この浪士組の募集は将軍警護のためではなく天皇を守り外国人を追い払うという尊王攘夷の決行のためであると言い出したのです。朝廷に対しても建白書を提出していたそうで、清河は集まった浪士に対し江戸に帰還することを決定。

しかし、近藤勇は尊王攘夷の考え方には反対しており、その結果清河派の江戸帰還と近藤らの京都残留派で分裂してしまうことに。結局、この分裂は最後まで治ることはなく、近藤勇は京都に残留し、京都の治安維持隊としての生活を送ることになるのです。

壬生浪士組の結成

京都に残留したのはわずか20人ほどでしたが3月に京都守護職であった松平容保は幕府老中から京都にいる20人ほどの浪士を使って京都の治安維持部隊を編成せよという命令を受け、京都に残留していた浪士たちを集めて新しい部隊を結成します。

松平容保

近藤勇ら浪士たちも会津藩に仕えることを決心し、3月12日に会津藩預かりとして壬生浪士組が結成することになりました。ちなみに、この壬生浪士組は近藤勇ではなく、芹沢鴨という人が初代隊長になったのですがこの人がかなり暴れん坊で酒を飲んだら手をつけられないほどだったそうです。

そのため壬生浪士組の結成後もなかなかまとまることはなく、これが対立要因となってくることになるのでした。

八月十八日の政変と新選組結成

新撰組隊旗の一例

壬生浪士組が発足した同年、この当時攘夷派の急先鋒として知られていた長州藩を追放するために会津藩や薩摩藩などが八月十八日の政変を起こします。これによって長州藩士や攘夷派の公家などが追放されることになるのですが、壬生浪士組は御花畑門の警備や長州藩士の残党狩りなどで大活躍。

その活動が認められ、新撰組という隊名を朝廷から下賜されました。

芹沢鴨の粛清

こうして壬生浪士組から新撰組と名を改めましたが、この頃は芹沢派と近藤派で分裂しており、近藤勇はこの芹沢派を排除して新撰組を安定させなければと考えていました。近藤勇は土方歳三と共に遊郭で暴れていた芹沢鴨を暗殺。さらには芹沢派の副長や隊員なども暗殺。

こうして敵対するメンバーがいなくなったことによって実質共に近藤が新撰組の隊長となったのです。かなり血なまぐさい理由で隊長となったのですが、新体制となった新撰組はここから一気に飛躍の時を迎えるのです。

1864年 – 30歳「近藤勇、池田屋事件を起こす」

池田屋事件の勃発

現在の池田屋跡地

1864年。京都から追放されていた長州藩士は形勢逆転を狙うためにテロ行為も辞さないようになっていきます。5月ごろ新撰組は長州藩士とコンタクトを取っていた承認を捕縛し、その人から情報を聞き出したのですがそれによると長州藩士は『祇園祭が行われる前に吹く風の日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉をした上で一橋慶喜と松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る』という計画を練っていんだとか。

もちろんこんな行為は許せるはずがありません。新撰組は池田屋に潜伏していた長州藩士を襲撃し、実行犯ら20人の内ほとんどを斬り捨て、さらに生き残った人も捕縛に成功。これによって新撰組の名は一気に広まり、朝廷や幕府から感謝状と賞金が与えられました

第二次長州戦争の勃発

池田屋事件が起こった後、長州藩は第一次長州征伐によって幕府に恭順しましたが、この直後に高杉晋作による高山寺挙兵が勃発。幕府はこれを受けて第二次長州征伐を実行に移すことになります。

近藤は幕府が長州藩に攻め入ろうとしたことを聞くと隊員と共に広島まで同行することになり、ここで長州藩との交渉に打って出ますが、この第二次長州征伐において幕府軍か完全敗北した上に大坂城で将軍徳川家茂が亡くなったことを聞くと近藤は京都に帰還しました。

1867年 – 33歳「近藤勇、幕府の旗本となる」

近藤勇らが幕府の家臣となる

京都に帰った後、近藤ら新撰組は京都のテロ集団を捕縛しながら実績を上げていきます。そして1867年には幕府からその功績が認められ新撰組は会津藩の預かりから幕府による直属の家臣として認められることになりました。そもそも百姓生まれである近藤勇ら新撰組隊士らが武士として幕府から認められることは異例中の異例。まさしく新撰組が幕府から認められた証拠でした。

幕府の崩壊

大政奉還により幕府が解体される

こうして新撰組は幕府の家臣となりましたが、事態は新撰組とは真逆の方向に向かっていました。第二次長州征伐以降薩摩藩と長州藩は幕府に対して攻撃を開始する姿勢を見せ始めるようになり、さらには朝廷によって長州藩に倒幕の密勅が出されたことが分かると徳川慶喜は二条城において大政奉還を宣言し幕府は崩壊。

近藤勇はこの大政奉還に否定的だったそうですが、これによって新撰組が幕府の家臣になってからわずか1年ほどで幕府は消滅することになったのです。

1868年 – 34歳「近藤勇、板橋にて処刑される」

近藤勇と戊辰戦争

鳥羽伏見の戦い

近藤勇は大政奉還が出された後長州藩を擁護した隊士たちを暗殺するなど過激な方向に向かうことになるのですが、この時御陵衛士によって肩を斬りつけられ大坂城で療養することになりました。その直後1868年1月3日に京都において旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽伏見の戦いが勃発。新兵器を持っていた新政府軍に旧幕府軍が太刀打ちできず、さらに官軍の証である錦の御旗を掲げると徳川慶喜らは江戸へと撤退。
これによって新政府軍の勝利に終わり、新撰組は旧幕府軍と共に江戸へと撤退を余儀なくされたのでした。

甲州勝沼の戦い

錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」

鳥羽伏見の戦いにて敗北した後、新政府軍は官軍として徳川家もろとも潰すことを決定し、軍勢を西へと向けることになりました。新撰組はこのルートの一つであった中仙道の途中にある甲州勝沼の防衛を任され、新撰組も甲州鎮撫隊に名前を変えることになります。

しかし、甲州鎮撫隊に名前を変えた新撰組はかの板垣退助率いる迅衝隊に敗北。近藤らは八王子に逃げ延び、江戸へと撤退してしまいその後の方針を巡って永倉新八などが離反する事態に追い込まれました。近藤勇は旧幕府軍の要所であり、新撰組の恩人である松平容保が治める会津に逃げのびようと江戸を出立するのですが、この出立が近藤勇の最後の行動となってしまうのです。

流山で捕縛される

龍源寺にある近藤勇の墓

近藤勇は会津ににげのびるために下総国流山に滞在。大久保大和という偽名を使い再起を図ろうとするのですが、この頃には新政府軍は板橋宿に到着しており、もはや袋の鼠となっていました。この状態で会津ににげのびることは不可能と判断し、新政府軍に降伏。近藤勇は新撰組であることを隠し、幕府の家臣という立場を貫き通しますが、新政府軍の中にもと新撰組のメンバーがいたことによって近藤勇であることが判明。

土佐藩の谷干城の断固たる主張によって近藤勇は板橋刑場によって斬首されてしまいます。その後、近藤勇の首は皮肉にも新撰組の名を轟かせた池田屋近くの三条河原にて晒し首となりました。

近藤勇の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

近藤勇白書


近藤勇の生涯をわかりやすく解説しているこの本は新撰組がどのように振舞っていき、そしてどのようにして明治維新を迎えていったのかについてよくわかる本となっています。

新選組


この本は新撰組の主要な人物や事件のほかに、副長である土方歳三が作ったとされる新選組隊規の局注御法度や、会津藩主である松平容保の関係、など新撰組にまつわるいろんなことを学ぶことができます。

新選組実像に興味がある方には、是非手にとって読んでほしい一冊です。

おすすめドラマ

新撰組!


三谷幸喜が脚本を務めた大河ドラマであり、これまでのイメージを覆す新しい角度での新撰組を描いています。

局長である近藤勇は元SMAPの香取慎吾が演じているほか、人気俳優が新撰組の隊員を演じている点も注目です。

関連外部リンク

近藤勇についてのまとめ

近藤勇や新撰組は元尊王攘夷派が中心となった明治時代においては「明治時代の政治家の同志を斬った悪人」という評価が一般的でしたが、時代が下るにつれて江戸幕府や京都の治安を守るために活躍した新撰組の評価が見直されていきました。

たしかに、新撰組が尊王攘夷派の志士を斬り捨てたことによって有能な人材を失ったかもしれませんが、もし新撰組がいなかったら尊王攘夷派の志士が本当にテロを起こし今の京都の姿は無かったかもしれませんし、もしかしたら天皇が長州藩に誘拐され、それこそ長州征伐みたいな戦争では済まされなかったかもしれません。

信念を守り京都の治安維持を死守した近藤勇や新撰組の生き方を今だからこそ考えるべきではないのでしょうか?

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