近藤勇の功績
功績1「才能が認められ、天然理心流四代目を継承」
近藤勇は、なぜ天然理心流の四代目として認められたのでしょうか。
きっかけは、近藤が天然理心流の門下生となった、ある夜のことです。近藤勇の家に、強盗が押し入りました。物音で気づいた兄が、刀を持って強盗に襲いかかろうとしたところを近藤は止めました。
押し入ったばかりの強盗は気が立っています。近藤は、彼らが仕事を終えて安心したところを襲うべきだ、とさとしました。強盗がいよいよ盗品を背負って逃げようとしたところを、近藤たちは「待てっ!」と大声で斬りつけると、強盗は盗品を投げ出して、一目散に逃げ出したのです。
逃げた強盗を追おうとした兄を「窮鼠猫を嚙む」のことわざで止め、騒ぎは誰も傷つくことなく終わりました。話を聞いた天然理心流の師範は、近藤の知恵と勇気に感心して、彼に天然理心流を継がせるため、養子に迎えたのです。
功績2「池田屋事件で自ら死番を務める」
池田屋に集まっていた長州藩と肥後熊本藩を襲撃した池田屋事件で、近藤は死番を務めました。
死番とは、一言でいうと敵地に真っ先に飛び込む斬り込み隊長のことです。のちの新撰組では、斬り込みは4人1組であたり、一番最初に踏み込むものを死番と呼びました。
敵の数はわからず、どこに潜んでいるかもわからない暗闇の中へ突入するには、決死の覚悟が必要だったのは想像に難くありません。そんな中を新撰組トップの近藤勇が突入する姿は、あとに続く組員にとってこれ以上ない心強いものだったでしょう。
近藤が見せた武士魂は、結果として新撰組の力を幕府の要人たちや世間に知らしめたのです。
功績3「『剣聖』男谷精一郎が認めた実戦剣 」
男谷精一郎は、数いる剣士の中で「剣聖」と呼ばれた達人です。その腕は幕府も認めるほどで、彼は幕府がつくった講武所の頭取兼剣術師範役に任命されました。講武所とは、剣術や槍術などを教える武道場のことです。
近藤勇はそんな男谷精一郎に、闘う姿勢を認められた数少ない者の一人でした。
近藤と男谷が出会うきっかけは、他流試合です。ある日、近藤は男谷の勤める道場へ、他流試合に出向きました。そこで近藤は、道場の師範である本梅縫之助と打ち合います。
試合の中で、近藤は竹刀を床に落とされてしまいました。普通なら、竹刀が手から失われた時点で、勝負を諦めてしまいます。しかし、近藤は闘う姿勢を崩さずにそのまま柔術の構えを取りました。その眼光、気迫はすさまじく、打ち合っていた本梅が気圧されるほどです。
それを見ていた男谷は、近藤が道場から去ったあとに、門下生の前で最後まで勝負を諦めなかった近藤の姿勢をほめたのです。
近藤勇の名言「人の道」
忘れてはならぬものは恩義
捨ててならぬものは義理
人にあたえるものは人情
繰り返してならぬものは過失
通してならぬものは我意
笑ってならぬものは人の失敗
聞いてならぬものは人の秘密
お金で買えぬものは信用
近藤勇は義に厚い男でした。彼が残した名言からもわかる通り、人として当たり前のことを大切にしていたのでしょう。近藤の人徳は、腕はたつけれどそれを生かす場のなかった剣士をひきつけました。
新撰組の活躍には、近藤勇の人柄も一躍かっているといっていいでしょう。移り変わりの激しい現代だからこそ、忘れず胸に留めたい言葉です。
土方歳三と沖田総司との関係は?
近藤勇と土方、沖田の関係は師匠と弟子、上司と部下です。土方と沖田は同じ天然理心流で、近藤に剣を習っていました。2人は近藤をとても慕っており、近藤も2人のことを部下としても友人としても信頼していました。
穏健派の近藤と過激派の土方は正反対といってもいい性格をしており、たびたび意見が対立することがありました。しかし、いずれもちょっとした口論で治まっています。関係が決裂しなかったのは、本当に仲が良かったからでしょう。
土方歳三についてもっと知りたい方は、こちらの記事で詳しく解説しているのでぜひご覧ください。
土方歳三とはどんな武士?生涯・年表まとめ【死因や性格、エピソードについても紹介】
近藤勇にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1 「口が大きかった」
近藤勇は口が大きいことで知られており、特技の一つとして口の中に拳を加えるという面白いものがありました。
ちなみに、近藤勇はこの特技を大変気に入っており、同じく拳が口に入ったという伝説がある加藤清正になぞらえていつか私も清正公みたいに出世したいと笑っていたんだそうです。
都市伝説・武勇伝2 「刀が大好き」
近藤勇ら新撰組といえば剣術に特化した集団でしたが、近藤勇はその中でも特に刀が大好き。
暇さえあれば仲間と刀の話に熱中しおり、手紙の中に『脇差はできるだけ長いほうがよろしい』という文章が現存しているんだとか。
ちなみに、彼のお気に入りの刀は江戸時代前期の刀工である虎徹。池田屋事件の後には養父に対して『自分の刀は虎徹だったから大丈夫でした』と記していたんだそうです。
都市伝説・武勇伝3「剣だけでなく、勉学にも励んでいた?」
近藤勇は剣だけでなく、勉学も怠っていなかったといいます。近藤が11、2歳の頃、ある夜に父が目を覚ますと線香の匂いが部屋に漂っていました。父は不思議に思って見回すと、隅の机に向かって近藤が座っています。
何をしているのか、と父が聞いたところ、近藤は「線香の光で本を読んでいるんです」と答えたといいます。このエピソードは近藤の甥が語ったもので、事実であったかは定かではありません。
しかし、近藤の頑固で誠実な性格を考えると、事実に思えてきますね。
近藤勇の年表を簡単にまとめると?
近藤勇は1834年武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)の百姓の息子として生まれました。幼名は勝五郎だとされています。
江戸時代の百姓といえばかなり辛い生活を送っていたと思われますが、江戸時代後期に入るとかなり裕福になっていき、さらには彼が生まれたところが幕府領であり税率も低かったことがあってか生活に困ることはありませんでした。
1848年に近藤勇は東京都新宿区にあった天然理心流の試衛場という道場に入門。
ここで目覚ましい才能を見せて翌年には天然理心流の師範である近藤周助の養子となり、近藤という名字をもらいました。その後天然理心流の4代目師範となり、名実とともに一流の剣士として認められることになります。
近藤勇は、時の将軍徳川家茂が護衛を募集していたことを受けて土方歳三など8名を始め、240名以上と共に京へ上洛。
途中清河派との騒動があり、大半が江戸に帰りましたが、残った24人は京都に残留し、京都守護職であった松平容保のもとで壬生浪士組が発足。これがいわゆる新撰組の前身となるのでした。
この頃の京都には尊王攘夷派の志士が多くおり、反対派を天誅と称して斬り殺す事件が後を絶ちませんでした。さらに、八月十八日の政変で追い出されていた長州藩士が一発逆転を狙おうと京都に火を放ちクーデターを起こす計画を起こします。
これをキャッチした近藤勇ら新撰組は長州藩士が宿泊していた池田屋に急襲。斬り捨てるか捕縛するかのどちらかとなり、尊王攘夷派の志士を壊滅に追い込みました。
池田屋事件以降京都にその名を轟かせた新撰組は幕府からついに家臣として認められ、会津藩預かりの幕臣となります。近藤勇も300俵の旗本となり、将軍に直々に会うことができる武士に出世することになりました。
当時身分制度が厳しい時代において百姓から武士になることはそれに見合う功績を残すことしか無理でしたので、近藤勇の苦労が報われた瞬間でした。
幕府から武士として認められた近藤勇でしたが、その一年後に幕府は崩壊。さらには鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れたことによって新政府軍から逃げる生活を余儀なくされます。
近藤勇は大久保剛という偽名を使って新撰組を甲陽鎮撫隊と改名。板垣退助率いる迅衝隊と甲州勝沼で戦うことになるのですが、ここで敗北。その後近藤勇は下総国流山に隠れながら活動を行なったのですが、新政府軍によって逮捕。
処分を巡って大揉めしましたが、上に書いた理由によって近藤勇は35歳で板橋刑場で斬首されてしまいました。