近藤勇の年表を具体的にまとめると?
1834年 – 0歳「近藤勇生まれる」
近藤勇武蔵国で生まれる
近藤勇は1834年に百姓であった久次郎とみよの三男として武蔵国多摩郡にて生まれました。幼名は勝五郎だと言われています。戸籍によれば近藤の家は石高七石一升と百姓としては中流ぐらいの環境であり、生活に困ることはありませんでした。
1848年 – 14歳「近藤勇、道場に入門する」
近藤勇の道場入門
1848年。勝五郎少年は地元から飛び出し、現在の東京都新宿区にあった天然理心流剣術の道場であった試衛場に入門。天然理心流は江戸時代後期に誕生した流派で、剣術を中心に居合、柔術、棒術なども伝えた混合の流派でした。
近藤勇はこの道場で剣術を学ぶことになるのですが、この時にのちに新撰組の中心メンバーとなる土方歳三・沖田総司・斎藤一 ・永倉新八などと出会うことになります。
近藤勇、天然理心流の師範の養子となる
当時天然理心流の師範は近藤周助という人でしたが、彼は近藤勇の才能を見出し、1849年に彼を養子に迎えて彼に近藤の苗字を与えることになります。(ちなみに近藤勇と名乗るのはこの頃ですが、わかりやすさ重視のため近藤勇で統一しています)
実は近藤周助はこの時には平均寿命の50歳を超えていたため、そろそろ後継ぎを考えていたと思われており、近藤勇に跡を継がずことを決心。1861年には正式に天然理心流の師範を近藤勇に譲ることとなり、近藤勇は4代目天然理心流宗家師範としての肩書きを持つことになったのです。
1863年 – 29歳「近藤勇、新選組を結成」
浪士組の結成
近藤勇が師範となってから2年後の1863年。この頃の幕府は10年前のペリー来航の頃から混乱続きであり、幕府の権威が揺らいでいたそんな時期でした。そんな折、江戸幕府は清河八郎の献策を受け入れて将軍の上洛の警護をする部隊の浪士組の新設を決定し、我こそはという人を募集し始めます。
この募集を受けて近藤勇は土方歳三ら道場の門下生8人共に浪士組にに応募。2月には京都に入り、将軍の警護をすることを決心したのです。
清河八郎との対立と壬生浪士組結成
こうして京都に入った近藤勇ら8人でしたが、そんな中提案者である清河八郎から驚きの一言が飛び出します。
なんと清河八郎曰く、この浪士組の募集は将軍警護のためではなく天皇を守り外国人を追い払うという尊王攘夷の決行のためであると言い出したのです。朝廷に対しても建白書を提出していたそうで、清河は集まった浪士に対し江戸に帰還することを決定。
しかし、近藤勇は尊王攘夷の考え方には反対しており、その結果清河派の江戸帰還と近藤らの京都残留派で分裂してしまうことに。結局、この分裂は最後まで治ることはなく、近藤勇は京都に残留し、京都の治安維持隊としての生活を送ることになるのです。
壬生浪士組の結成
京都に残留したのはわずか20人ほどでしたが3月に京都守護職であった松平容保は幕府老中から京都にいる20人ほどの浪士を使って京都の治安維持部隊を編成せよという命令を受け、京都に残留していた浪士たちを集めて新しい部隊を結成します。
近藤勇ら浪士たちも会津藩に仕えることを決心し、3月12日に会津藩預かりとして壬生浪士組が結成することになりました。ちなみに、この壬生浪士組は近藤勇ではなく、芹沢鴨という人が初代隊長になったのですがこの人がかなり暴れん坊で酒を飲んだら手をつけられないほどだったそうです。
そのため壬生浪士組の結成後もなかなかまとまることはなく、これが対立要因となってくることになるのでした。
八月十八日の政変と新選組結成
壬生浪士組が発足した同年、この当時攘夷派の急先鋒として知られていた長州藩を追放するために会津藩や薩摩藩などが八月十八日の政変を起こします。これによって長州藩士や攘夷派の公家などが追放されることになるのですが、壬生浪士組は御花畑門の警備や長州藩士の残党狩りなどで大活躍。
その活動が認められ、新撰組という隊名を朝廷から下賜されました。
芹沢鴨の粛清
こうして壬生浪士組から新撰組と名を改めましたが、この頃は芹沢派と近藤派で分裂しており、近藤勇はこの芹沢派を排除して新撰組を安定させなければと考えていました。近藤勇は土方歳三と共に遊郭で暴れていた芹沢鴨を暗殺。さらには芹沢派の副長や隊員なども暗殺。
こうして敵対するメンバーがいなくなったことによって実質共に近藤が新撰組の隊長となったのです。かなり血なまぐさい理由で隊長となったのですが、新体制となった新撰組はここから一気に飛躍の時を迎えるのです。
1864年 – 30歳「近藤勇、池田屋事件を起こす」
池田屋事件の勃発
1864年。京都から追放されていた長州藩士は形勢逆転を狙うためにテロ行為も辞さないようになっていきます。5月ごろ新撰組は長州藩士とコンタクトを取っていた承認を捕縛し、その人から情報を聞き出したのですがそれによると長州藩士は『祇園祭が行われる前に吹く風の日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉をした上で一橋慶喜と松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る』という計画を練っていんだとか。
もちろんこんな行為は許せるはずがありません。新撰組は池田屋に潜伏していた長州藩士を襲撃し、実行犯ら20人の内ほとんどを斬り捨て、さらに生き残った人も捕縛に成功。これによって新撰組の名は一気に広まり、朝廷や幕府から感謝状と賞金が与えられました
第二次長州戦争の勃発
池田屋事件が起こった後、長州藩は第一次長州征伐によって幕府に恭順しましたが、この直後に高杉晋作による高山寺挙兵が勃発。幕府はこれを受けて第二次長州征伐を実行に移すことになります。
近藤は幕府が長州藩に攻め入ろうとしたことを聞くと隊員と共に広島まで同行することになり、ここで長州藩との交渉に打って出ますが、この第二次長州征伐において幕府軍か完全敗北した上に大坂城で将軍徳川家茂が亡くなったことを聞くと近藤は京都に帰還しました。
1867年 – 33歳「近藤勇、幕府の旗本となる」
近藤勇らが幕府の家臣となる
京都に帰った後、近藤ら新撰組は京都のテロ集団を捕縛しながら実績を上げていきます。そして1867年には幕府からその功績が認められ新撰組は会津藩の預かりから幕府による直属の家臣として認められることになりました。そもそも百姓生まれである近藤勇ら新撰組隊士らが武士として幕府から認められることは異例中の異例。まさしく新撰組が幕府から認められた証拠でした。
幕府の崩壊
こうして新撰組は幕府の家臣となりましたが、事態は新撰組とは真逆の方向に向かっていました。第二次長州征伐以降薩摩藩と長州藩は幕府に対して攻撃を開始する姿勢を見せ始めるようになり、さらには朝廷によって長州藩に倒幕の密勅が出されたことが分かると徳川慶喜は二条城において大政奉還を宣言し幕府は崩壊。
近藤勇はこの大政奉還に否定的だったそうですが、これによって新撰組が幕府の家臣になってからわずか1年ほどで幕府は消滅することになったのです。
1868年 – 34歳「近藤勇、板橋にて処刑される」
近藤勇と戊辰戦争
近藤勇は大政奉還が出された後長州藩を擁護した隊士たちを暗殺するなど過激な方向に向かうことになるのですが、この時御陵衛士によって肩を斬りつけられ大坂城で療養することになりました。その直後1868年1月3日に京都において旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽伏見の戦いが勃発。新兵器を持っていた新政府軍に旧幕府軍が太刀打ちできず、さらに官軍の証である錦の御旗を掲げると徳川慶喜らは江戸へと撤退。
これによって新政府軍の勝利に終わり、新撰組は旧幕府軍と共に江戸へと撤退を余儀なくされたのでした。
甲州勝沼の戦い
鳥羽伏見の戦いにて敗北した後、新政府軍は官軍として徳川家もろとも潰すことを決定し、軍勢を西へと向けることになりました。新撰組はこのルートの一つであった中仙道の途中にある甲州勝沼の防衛を任され、新撰組も甲州鎮撫隊に名前を変えることになります。
しかし、甲州鎮撫隊に名前を変えた新撰組はかの板垣退助率いる迅衝隊に敗北。近藤らは八王子に逃げ延び、江戸へと撤退してしまいその後の方針を巡って永倉新八などが離反する事態に追い込まれました。近藤勇は旧幕府軍の要所であり、新撰組の恩人である松平容保が治める会津に逃げのびようと江戸を出立するのですが、この出立が近藤勇の最後の行動となってしまうのです。
流山で捕縛される
近藤勇は会津ににげのびるために下総国流山に滞在。大久保大和という偽名を使い再起を図ろうとするのですが、この頃には新政府軍は板橋宿に到着しており、もはや袋の鼠となっていました。この状態で会津ににげのびることは不可能と判断し、新政府軍に降伏。近藤勇は新撰組であることを隠し、幕府の家臣という立場を貫き通しますが、新政府軍の中にもと新撰組のメンバーがいたことによって近藤勇であることが判明。
土佐藩の谷干城の断固たる主張によって近藤勇は板橋刑場によって斬首されてしまいます。その後、近藤勇の首は皮肉にも新撰組の名を轟かせた池田屋近くの三条河原にて晒し首となりました。
近藤勇の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
近藤勇白書
近藤勇の生涯をわかりやすく解説しているこの本は新撰組がどのように振舞っていき、そしてどのようにして明治維新を迎えていったのかについてよくわかる本となっています。
新選組
この本は新撰組の主要な人物や事件のほかに、副長である土方歳三が作ったとされる新選組隊規の局注御法度や、会津藩主である松平容保の関係、など新撰組にまつわるいろんなことを学ぶことができます。
新選組実像に興味がある方には、是非手にとって読んでほしい一冊です。
おすすめドラマ
新撰組!
三谷幸喜が脚本を務めた大河ドラマであり、これまでのイメージを覆す新しい角度での新撰組を描いています。
局長である近藤勇は元SMAPの香取慎吾が演じているほか、人気俳優が新撰組の隊員を演じている点も注目です。
関連外部リンク
近藤勇についてのまとめ
近藤勇や新撰組は元尊王攘夷派が中心となった明治時代においては「明治時代の政治家の同志を斬った悪人」という評価が一般的でしたが、時代が下るにつれて江戸幕府や京都の治安を守るために活躍した新撰組の評価が見直されていきました。
たしかに、新撰組が尊王攘夷派の志士を斬り捨てたことによって有能な人材を失ったかもしれませんが、もし新撰組がいなかったら尊王攘夷派の志士が本当にテロを起こし今の京都の姿は無かったかもしれませんし、もしかしたら天皇が長州藩に誘拐され、それこそ長州征伐みたいな戦争では済まされなかったかもしれません。
信念を守り京都の治安維持を死守した近藤勇や新撰組の生き方を今だからこそ考えるべきではないのでしょうか?