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アフリカ植民地・分割の歴史を年表つきで紹介! 植民地化の理由や独立の流れを解説

アフリカは現在でも世界のなかで貧しい地域として知られています。この原因の1つになったのが、18世紀から20世紀初頭にかけて行われたヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地分割でした。当時は領土を広げることで強大な国家を作ろうとする帝国主義の全盛期で、アフリカはその標的にされたのです。

貧困が深刻化するアフリカのサブサハラ・アフリカ地域

1884年のベルリン会議でアフリカ植民地の獲得ルールが決まるとアフリカ分割はさらに過熱していき、最終的にはたった2か国を残して広いアフリカ大陸のすべてが植民地になりました。列強による植民地化は、アフリカの発展を妨げ、第二次大戦後、アフリカの国々が独立した後も紛争や貧困の原因となって現代の世界や国際情勢にも影響を与えています。

アフリカ植民地はなぜ始まり、どうやって進められ、どのような影響を残しているのでしょうか。
この記事では、アフリカ植民地とはどのようなものだったのか、現代へどのような影響を与えているかを解説していきます。

アフリカ植民地とは

アフリカの地図と植民地

アフリカ植民地とは、18世紀後半から第一次大戦前にかけて、ヨーロッパ諸国が帝国主義のもとアフリカ諸国を植民地にしていったものです。アフリカは産業革命後の工業化を進める欧州諸国にとって、豊富な資源供給先となり、アフリカの植民地化は次第に加熱していきました。

列強によるアフリカ分割は1912年に完了し、エチオピアとリベリアを除くアフリカ全土が、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ポルトガル・スペインのたった7カ国によって支配されるようになります。

アフリカ諸国は第二次大戦後に独立していくことになりますが、ヨーロッパによる植民地化は現代のアフリカにも大きな影響を与えています。

アフリカの植民地化が始まった理由

アフリカの人々を統治するヨーロッパ人

ヨーロッパによるアフリカの植民地化は、アフリカのもつ豊富な資源を目的にはじまりました。産業革命以降、工業化を進めるヨーロッパ諸国は、資源の供給地として魅力をもつアフリカの植民地化を進めていきました。ヨーロッパのアフリカ進出は15世紀から行われていましたが、当時の目的は主に奴隷を得ることで、進出地域も沿岸部に限られていました。

18世紀後半からアフリカの人々にも人権を認めようとする考えが広まり、産業革命による工業化が進んだこともあって、奴隷貿易は廃止されていきます。一方、工業化のため資源を求めるヨーロッパ諸国は、資源や農作物の供給地、そして工業製品を売るための市場としてアフリカを必要とするようになります。

ヨーロッパにはアフリカを遅れた国々とみなす風潮がありました。未開のアフリカに優れた文化や政治制度を与えて文明化するのは進んだヨーロッパ人の使命と考えられ、アフリカの植民地化を正当化する思想になりました。

植民地化が現代のアフリカにも与える影響

アフリカの難民キャンプ

列強によるアフリカの植民地化はアフリカの国家と社会に現代まで続く様々な悪影響を及ぼしました。ヨーロッパの国々が勝手に決めた国境線は民族や部族の境界線を無視したもので、現代の紛争や内戦の一因になっています。

アフリカ人はヨーロッパ人の都合によって住む場所を移動させられたり、強制労働に就かされたりして、劣悪な環境で亡くなる人も大勢いました。さらに、未開人の文明化を謳って文化や言語を強制したため、アフリカ独自の文化は破壊され、現在も多くの国では旧宗主国の言語が公用語になっています。

現在でも企業の進出や財政的援助によって先進国が発展途上国であるアフリカ諸国に影響力を及ぼそうとすることがあり、新植民地主義と呼ばれています。貧しいアフリカ諸国には旧宗主国に莫大な借金を抱えている国も存在し、分かっていてもこうした援助に頼らなければならないのが実情です。

ベルリン会議で決められたアフリカ分割の原則とは

ベルリン会議

1884年から開催された18カ国による国際会議であるベルリン会議(ベルリン・コンゴ会議)では、ヨーロッパ諸国によるアフリカ植民地化のルール作りが行われ、列強同士で植民地分割の原則が確認されました。

この会議では、ある地域を最初に占領した国がその地域を領有できる優先権が認められました。そして、新たにアフリカに植民地を獲得する場合には、他国の利益を侵害しないこと、ヨーロッパ人の通商・航行の自由を認めることなどの条件が定められました。

この原則ができたことで、アフリカ植民地化は早い者勝ちになったため、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割は加速することとなり、第一次大戦までにエチオピアとリベリアを除くすべての国が植民地になりました。

列強によるアフリカ分割の歴史

18世紀後半~ 探検隊の派遣とイギリス・フランスの進出

アフリカで遭難した探検家リヴィングストンを発見したスタンリー

ヨーロッパ諸国による初期のアフリカ進出は、リヴィングストンやスタンリーといった探検家によって行われたものです。彼らの目的はキリスト教の布教や現地の人々との貿易でしたが、それまで北アフリカや沿岸部だけで活動していたヨーロッパ人のアフリカ奥地への進出は、結果としてアフリカ植民地化のきっかけを作ることになりました。

内陸部に豊富な資源が眠る可能性があると分かったことで、アフリカはヨーロッパ諸国の注目を集めるようになります。エジプト、南アフリカへ進出していたイギリス、北アフリカへの進出を開始していたフランスを中心に、沿岸部から内陸部へと植民地化されていきました。

1884~85年 アフリカ分割の原則を決定したベルリン・コンゴ会議

ベルリン会議

ヨーロッパによるアフリカの植民地化に火をつけたのが、ベルギーのレオポルド2世によるコンゴの領有化を巡って実施されたベルリン会議でした。レオポルド2世は、象牙や金、ダイヤモンドなど豊富な資源がある上に、アフリカの中央にあるため他の国がまだ進出していなかったコンゴに目をつけ、コンゴ自由国として領有化します。

コンゴを領有化したベルギー王レオポルド2世

これにポルトガルが反発し、列強同士の対立が起こりました。この問題を解決するため、ドイツの宰相ビスマルクの提案で、ベルリン・コンゴ会議(ベルリン・西アフリカ会議)が開かれ、アフリカでの植民地獲得のルールが明確化されました。ベルリン会議以降、列強のアフリカ進出は過熱していき、アフリカの植民地化は急速に進んでいきました。

18世紀~ アフリカ諸国で起こった抵抗運動

マフディーの反乱を起こしたムハンマド・アフマド

ヨーロッパによる植民地化は、アフリカ諸国では様々な反乱や抵抗運動につながっています。列強の中には現地人から強制的に土地を奪ったり、強制労働をさせたり、過酷な統治を行う国もあったため、アフリカ現地人の反発を招くことになりました。

  • マフディーの反乱(1881~99年・イギリス領スーダン)
  • 救世主を名乗るムハンマド・アフマドが起こした反乱。
  • 一時は総督を倒してスーダンを支配した。
  • トゥクロール帝国(1848~90年・フランス領西アフリカ)
  • サモリ・トゥーレによって建国されたイスラム国家で、フランスの植民地支配と戦った。
  • マジマジ反乱(1905~08年・ドイツ領東アフリカ)
  • ドイツによる綿花栽培の強制労働に反発した現地人の反乱。
マジマジ反乱の起こった地域

これらの反乱は最終的には圧倒的な軍事力をもつヨーロッパ諸国によって鎮圧され、アフリカの人々には多数の犠牲者を出すことになりました。

1898年 ファショダ事件 英仏の対立から和解へ

ファショダに到着したイギリス軍

1898年のファショダ事件は、アフリカ植民地化を巡る対立からイギリスとフランスの軍事衝突に発展しかけた事件です。イギリスはアフリカのカイロ、ケープタウンとインドのカルカッタを結ぶ3C政策の一環としてカイロからケープタウンをつなぐ大陸縦断政策を進めていました。一方フランスは、北アフリカ西部から東へ向かって領土を広げる大陸横断政策を推進していました。

この2つの戦略がナイル川岸にあるスーダンのファショダ付近でぶつかったのがファショダ事件です。この事件でアフリカ分割を巡る英仏の対立は最高潮に達しますが、どちらも海外での勢力拡大を目指すドイツに対する警戒心をもっていたため、最終的に両国は歩み寄りと妥協を行いました。1904年に英仏協商が締結されて英仏はお互いの植民地支配を認め合い、アフリカにおける英仏の対立は終わりました。

1912年アフリカ分割の完了

1880年から1913年のアフリカ植民地の分割図

1912年にイタリアがリビアを植民地化したことにより、列強によるアフリカ分割は完了しました。アフリカは独立国であるエチオピアとリベリアを除いたすべての地域がヨーロッパの7カ国によって支配されることになります。

しかし、列強のアフリカへの野心はこれで終わることはなく、イタリアはさらにエチオピア獲得を狙って1935年にエチオピア戦争を起こしています。

1951年~アフリカ植民地の独立と現代アフリカへの影響

アフリカの国々が独立した年(黄色が「アフリカの年」といわれた1960年)

アフリカで本格的な独立運動が起きるのは第二次大戦後になります。1945年にマンチェスターで開かれた、アフリカの解放を訴えるパン・アフリカ会議には、アフリカの独立運動家らが数多く参加し、独立運動が高まりをみせます。

1951年のリビア独立を筆頭に、アフリカ諸国の独立がはじまりました。1960年には17カ国が独立を果たし、「アフリカの年」と呼ばれました。しかし、1954年のアルジェリア戦争のように支配国との間で独立戦争が勃発することもあり、他にもアンゴラやモザンビークなどが武力により独立を獲得しています。

独立は果たされましたが、アフリカの植民地化はアフリカ諸国の近代化を大きく妨げることになり、内戦や紛争を生む一因にもなって現代のアフリカにも大きな爪跡を残しています。

各国のアフリカ植民地

イギリスによる大陸縦断製作の風刺画

アフリカ植民地はそのほとんどが、早くからアフリカへの進出を開始したイギリスとフランスの植民地になっています。イギリスは3C政策を実現するため大陸縦断政策をとり、フランスは最初に植民地化したアルジェリアから北アフリカを西に向かって進む大陸横断政策をとっていたため両国の競争は激化し、ファショダ事件で対立が頂点に達しました。イギリスやフランスの植民地は面積も広く、植民地同士が隣り合ったりつながっていることが多いのが特徴です。

一方、後発で植民地獲得に乗り出したドイツやイタリアは英仏がまだ植民地化していない場所を狙うしかなかったため、植民地の位置もバラバラで経済的にもほとんど利益をもたらしませんでした。第一次大戦での敗北後、ドイツのアフリカ植民地は没収され、他の列強によって分割統治されることになりました。

【イギリス】
エジプト・南アフリカ・スーダン・オレンジ自由国・トランスヴァール・ローデシア・ゴールドコースト・ナイジェリア

【フランス】
アルジェリア・チュニジア・モロッコ・マダガスカル・サハラ

【ドイツ】
東アフリカ・南西アフリカ・トーゴラント・カメルーン

【イタリア】
リビア・東アフリカ・ソマリア

【スペイン】
西サハラ(リオ・デ・オロ)・モロッコ

【ポルトガル】
アンゴラ・モザンビーク

【ベルギー】
ベルギー領コンゴ

アフリカで植民地にならなかった国

エチオピアを植民地化から守ったメナリク2世

第一次大戦勃発前までに、アフリカのほとんどの国はヨーロッパの植民地になっていましたが、エチオピア帝国とリベリア共和国の2国だけは、アフリカ大陸で最後までヨーロッパの植民地になることがありませんでした。

エチオピア

エチオピアの地図

現存する世界最古の独立国の1つとされるエチオピアは、皇帝メナリク2世のもと、列強同士の対立を利用するなど、うまく立ち回って独立を守りました。1896年のアドワの戦いでは侵攻してきたイタリアを破っており、アフリカの黒人国家がヨーロッパに勝利した画期的な出来事とされました。

アドワの戦い

ただ、1936年から41年にかけてのみ、エチオピアはムッソリーニのファシスト・イタリア王国によって占領されています。もう1つのリベリアが実質的にはアメリカの保護国だったため、アフリカで真に独立を守りきった国はエチオピアだけといえます。

リベリア

リベリアの地図

西アフリカにあるリベリアは、1847年にアメリカで解放された黒人奴隷の国で、エチオピアと並んでアフリカの中で独立を守り抜いた国です。

リベリアは強制的に連れてこられたアメリカの奴隷たちを祖国へと帰還させ、アフリカに彼らの国を作ろうとしたアメリカ植民教会の運動によって建国されました。アメリカの後ろ盾があったリベリアは、他の国の侵略を受けることもなく、現在のアフリカでエチオピアの次に古い国になっています。

アフリカ植民地を学べる本

改訂新版 新書アフリカ史 (講談社現代新書)

人類の誕生から現代までを解説したアフリカ史の入門書で、アフリカの歴史を現在の国境にこだわることなく地域ごとにまとめています。各章はその分野の専門家によって書かれており、アフリカの歴史では避けて通ることのできないヨーロッパによる侵略と植民地支配の歴史も詳しく書かれています。日本人にはあまり馴染みのないアフリカ史を分かりやすく学ぶことのできるおすすめの1冊です。

アフリカ植民地に関するまとめ

アフリカ諸国が独立を果たした現在では、アフリカ植民地は遠い過去の出来事にも思えます。ですが、アフリカ諸国の貧困や紛争など、アフリカ植民地の爪跡は現代の世界にも大きな影響を与えているといえます。

ヨーロッパの国のなかには、今でもかつての植民地に大きな影響力をもっている国もあり、アフリカ植民地の歴史を理解することで、現代の国際社会に対しても理解が深まるのではないでしょうか。

それでは、長時間をこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。

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