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細川幽斎とはどんな人?性格や功績、愛刀、明智光秀との関係も紹介

細川幽斎とは、戦国時代に活躍した戦国大名です。名門である細川家で育ち、教養や武術を持ちあわせ、政治や合戦にてその能力をいかんなく発揮し、めまぐるしく移り変わる戦国時代をかしこく生き抜いてきました。

明智光秀とは親戚で、仲が良い人物としても知られており、大河ドラマの「麒麟がくる」でも主人公の明智光秀と関わる重要人物として、細川幽斎は登場しています。

細川 幽斎

そんな細川幽斎ですが、戦国大名でありながら戦国時代随一の文化人としても知られています。関ヶ原の戦いでは、敵対する軍勢の多くが偉大過ぎる細川幽斎との戦闘を避けたと言われています。

今回はそんな名門の細川家に生まれ、頭も良く武術を持ち合わた、多才な戦国大名「細川幽斎」について紹介していきます。この多才な能力を、戦国の時代にてどのように活用していったのか、注目です!

細川幽斎とはどんな人物か

細川幽斎の妻・沼田麝香
名前細川 幽斎 / 細川 藤孝
誕生日1534年6月3日(天文3年4月22日)
没日1610年10月6日(慶長15年8月20日)
生地京都東山
没地京都三条車屋町
配偶者沼田 麝香
子供細川 忠興
埋葬場所熊本県熊本市 立田自然公園

細川幽斎の生涯をハイライト

細川幽斎の生まれた京都東山の現在

細川幽斎は1534年6月3日に、室町幕府幕臣である三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれました。7歳の頃に三淵晴員の兄・細川元常(ほそかわもとつね)の養子になります。12歳になると足利義輝のもとで、幕臣として仕えるようになりました。

1565年、足利義輝が永禄の変にて討たれたため、足利義輝の弟である足利義昭とともに、織田信長のもとにつくようになりました。のちに足利義昭と織田信長が対立しますが、細川幽斎は織田信長のもとにつくようになり、その後も数々の戦いで明智光秀とともに活躍します。

1582年の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれます。これを機に細川幽斎は明智光秀から一緒に戦うようにお願いされましたが、これを断り、家督を息子・忠興(ただおき)に譲り田辺城に隠居します。明智光秀はすぐさま山崎の戦いにて討たれ、豊臣秀吉の時代となりました。

ともに豊臣秀吉の側近となった文化人・千利休

細川幽斎はその後も、多才で頭も良かったことから文化人として豊臣秀吉の側近として優遇されます。さらに徳川家康とも交流があったため、豊臣秀吉死後には徳川家康のもとにつきます。

1600年に、関ヶ原の戦いが起こります。細川幽斎は徳川家康と交流があったため、西軍から狙われてしまい、田辺城を15000人もの軍勢に攻撃されます。この「田辺城の戦い」には負けてしまいますが、
結果としてたった500人で西軍の15000人もの軍勢を2ヶ月間もひきつけたため、関ヶ原の戦いの勝利に貢献しました。

その後は悠々自適な晩年を送り、1610年10月6日に京都の自宅にて77歳で亡くなります。

めまぐるしい戦国の世をかしこく生き抜く

細川幽斎が最初に仕えた足利義輝

細川幽斎はめまぐるしく戦況の変わる戦国時代を、かしこく生き抜いてきました。

足利義昭と織田信長が対立した際も、優勢である織田信長のもとにつき、織田信長が明智光秀に討たれた後は、親友である明智光秀のもとに行かずに無関係を貫きます。これにより、のちに豊臣秀吉や、徳川家康にも多才さを認められ優遇されるようになり、戦国の時代を長く生き抜くことが出来ました。

戦国の時代が終わった後の晩年の細川幽斎は、趣味である文芸などを楽しみながら悠々自適な生活を送ったとされています。

細川家随一の教養人

細川家家紋

細川幽斎は名門である細川家で育ったこともあり、非常に頭が良く、さらに様々な教養を身に着けています。

茶道を千利休の師でもある武野紹鴎(たけのじょうおう)に教えてもらい、歌道においては藤原定家の歌道を受け継いだ、三条西実枝(さんじょうにしさねき)から「古今伝授(こきんでんじゅ)」を受けた唯一の人物でもあります。

そのため戦国大名でありながら、文化人としても有名です。「田辺城の戦い」で西軍から攻められなかったのは、西軍にも細川幽斎の偉大さを知る人が多く、攻撃をためらってしまったため、と言われています。

明智光秀とは親戚でもあり親友

明智光秀

細川幽斎と明智光秀は親戚で親友でもあります。ともに足利義昭のもとに仕え、そして織田信長家臣となったあとも、数々の戦場で共に戦い、勝利してきました。のちに織田信長のすすめで、明智光秀の娘・玉と細川幽斎の息子・忠興が結婚することになり、親戚という関係になります。

しかし本能寺の変を機に、細川幽斎は明智光秀を見捨てることになります。これは親友とはいえ、足利義昭の幕臣だった時代に、細川幽斎は明智光秀よりも上の地位にいたため、明智光秀の下で働くのは嫌だったのではないかと推測されていますが、どのような魂胆があったのかは謎です。

息子・忠興が影響を受けるほど刀が好き

「銘 豊後国行平作」が保管されている永青文庫

細川幽斎は非常に多才で文武両道です。特に刀に関しての知識は非常に多く持ち合わせていたそうです。この刀好きな性格は息子・忠興にも大きく影響しており、「歌仙兼定」や「彫貫盛光」や「希首座」など数々の刀を所持していました。これらの刀は現在も美術館や神社などに保管されています。

特に細川幽斎の所持していた「銘 豊後国行平作」は国宝として永青文庫に保管されています。

細川幽斎の功績

功績1「足利義昭の葬儀を執り行う」

足利 義昭

足利義昭が幕府を追われたあと、死去した際に葬儀を執り行う人物がいなかったため、細川幽斎が葬儀を主催したといわれています。そのため足利義昭と織田信長が対立した際、織田信長側についた細川幽斎ですが、それでも足利義昭に対する忠義は持っていたのだと思われます。

細川幽斎がいなければ、237年続いた室町幕府最後の将軍の葬儀は行われることなく、非常にさみしい最後になっていたかもしれません。

功績2「関ヶ原の戦いの勝利に貢献する」

関ヶ原合戦図

細川幽斎は間接的ではありますが、関ヶ原の戦いの勝利に貢献したともいわれています。豊臣秀吉の死後、徳川家康と関わることの多かった細川幽斎は関ヶ原の戦いにて、西軍に狙われることになります。

細川幽斎の居城「田辺城」に西軍の小野木重勝が15000人の軍勢を連れて攻撃を開始します。一方の細川軍は500人しかいませんでしたが、この戦いを2か月耐え抜きます。最終的には城を明け渡すことになりましたが、結果として15000人の軍勢を2ヶ月もの間ひきつけたことで、西軍の戦力を大きく削ぎ落しました。

そのためこの「田辺城の戦い」で関ヶ原の戦いの勝利に貢献したといっても過言ではありません。

功績3「細川家を遺した」

和泉上守護家細川氏の祖である細川頼有が着用した鎧
出典: 文化遺産オンライン

細川幽斎は、和泉上守護家細川氏の養子に入りました。もともと細川家とは足利家の一族であり、鎌倉時代は幕府の御家人でしたが、足利尊氏の挙兵に従い、室町時代には一族で8カ国の守護を担っていました。細川家の嫡流は代々室町幕府の管領を務めている名家です。しかし室町時代末期にはその勢力にも限りが見えていました。

細川家11代の居城となった熊本城
出典:nippon.com

幽斎が養子に入った和泉上守護細川家は、和泉の守護を任されていた家です。幽斎が戦国時代を上手く舵取りしたおかげで、数ある細川家の分家の中でも、幽斎が養子に入った細川家は江戸時代に肥後熊本54万石の藩主となりました。第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕は、この血統にあたります。

本能寺の変の後、親友でもあった明智光秀を見捨てるなど、非情な面もみられる細川幽斎ですが、世を上手く渡っていく判断力のおかげで、名門細川家を守ることができたのです。現在では細川家中興の祖とも言われています。

功績3「古今伝授を継承して政治を動かした」

細川幽斎による古今伝授の資料の一部「伝心集」の写し
出典:国立国会図書館

古今伝授とは歌道伝授の一形式で、古今和歌集の解釈を中心に口伝や切紙などで秘説伝承していくことです。古今伝授の形式が確立したのは室町時代の頃です。その後古今伝授はいくつかの流派に分かれていましたが、細川幽斎が集大成します。室町時代末期、細川幽斎は古今和歌集の秘事口伝の伝承者として、文芸界のトップにいたとも言えるのです。

細川幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授をした「古今伝授の間」は今も熊本に残されている。
出典:【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。

関ヶ原の戦いの直前、石田三成は徳川方についていた細川幽斎の居城である田辺城を包囲します。しかし古今伝授が絶えてしまうことを恐れた八条宮智仁親王が講和の道を探り、最終的には後陽成天皇による勅命が出されて講和となりました。

この田辺城の戦いは、関ヶ原の戦いで徳川方の勝利に貢献したものとして評価されていますが、その駆け引きとして武力ではなく、古今伝授という文化の力を使った点を注目しましょう。細川幽斎は、文化が政治を動かすこともできると、古今伝授によって証明したのです。

細川幽斎の人物相関図

細川幽斎の人物相関図
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