明智光秀とは親戚でもあり親友
細川幽斎と明智光秀は親戚で親友でもあります。ともに足利義昭のもとに仕え、そして織田信長家臣となったあとも、数々の戦場で共に戦い、勝利してきました。のちに織田信長のすすめで、明智光秀の娘・玉と細川幽斎の息子・忠興が結婚することになり、親戚という関係になります。
しかし本能寺の変を機に、細川幽斎は明智光秀を見捨てることになります。これは親友とはいえ、足利義昭の幕臣だった時代に、細川幽斎は明智光秀よりも上の地位にいたため、明智光秀の下で働くのは嫌だったのではないかと推測されていますが、どのような魂胆があったのかは謎です。
息子・忠興が影響を受けるほど刀が好き
細川幽斎は非常に多才で文武両道です。特に刀に関しての知識は非常に多く持ち合わせていたそうです。この刀好きな性格は息子・忠興にも大きく影響しており、「歌仙兼定」や「彫貫盛光」や「希首座」など数々の刀を所持していました。これらの刀は現在も美術館や神社などに保管されています。
特に細川幽斎の所持していた「銘 豊後国行平作」は国宝として永青文庫に保管されています。
細川幽斎の功績
功績1「足利義昭の葬儀を執り行う」
足利義昭が幕府を追われたあと、死去した際に葬儀を執り行う人物がいなかったため、細川幽斎が葬儀を主催したといわれています。そのため足利義昭と織田信長が対立した際、織田信長側についた細川幽斎ですが、それでも足利義昭に対する忠義は持っていたのだと思われます。
細川幽斎がいなければ、237年続いた室町幕府最後の将軍の葬儀は行われることなく、非常にさみしい最後になっていたかもしれません。
功績2「関ヶ原の戦いの勝利に貢献する」
細川幽斎は間接的ではありますが、関ヶ原の戦いの勝利に貢献したともいわれています。豊臣秀吉の死後、徳川家康と関わることの多かった細川幽斎は関ヶ原の戦いにて、西軍に狙われることになります。
細川幽斎の居城「田辺城」に西軍の小野木重勝が15000人の軍勢を連れて攻撃を開始します。一方の細川軍は500人しかいませんでしたが、この戦いを2か月耐え抜きます。最終的には城を明け渡すことになりましたが、結果として15000人の軍勢を2ヶ月もの間ひきつけたことで、西軍の戦力を大きく削ぎ落しました。
そのためこの「田辺城の戦い」で関ヶ原の戦いの勝利に貢献したといっても過言ではありません。
功績3「細川家を遺した」
細川幽斎は、和泉上守護家細川氏の養子に入りました。もともと細川家とは足利家の一族であり、鎌倉時代は幕府の御家人でしたが、足利尊氏の挙兵に従い、室町時代には一族で8カ国の守護を担っていました。細川家の嫡流は代々室町幕府の管領を務めている名家です。しかし室町時代末期にはその勢力にも限りが見えていました。
幽斎が養子に入った和泉上守護細川家は、和泉の守護を任されていた家です。幽斎が戦国時代を上手く舵取りしたおかげで、数ある細川家の分家の中でも、幽斎が養子に入った細川家は江戸時代に肥後熊本54万石の藩主となりました。第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕は、この血統にあたります。
本能寺の変の後、親友でもあった明智光秀を見捨てるなど、非情な面もみられる細川幽斎ですが、世を上手く渡っていく判断力のおかげで、名門細川家を守ることができたのです。現在では細川家中興の祖とも言われています。
功績3「古今伝授を継承して政治を動かした」
古今伝授とは歌道伝授の一形式で、古今和歌集の解釈を中心に口伝や切紙などで秘説伝承していくことです。古今伝授の形式が確立したのは室町時代の頃です。その後古今伝授はいくつかの流派に分かれていましたが、細川幽斎が集大成します。室町時代末期、細川幽斎は古今和歌集の秘事口伝の伝承者として、文芸界のトップにいたとも言えるのです。
関ヶ原の戦いの直前、石田三成は徳川方についていた細川幽斎の居城である田辺城を包囲します。しかし古今伝授が絶えてしまうことを恐れた八条宮智仁親王が講和の道を探り、最終的には後陽成天皇による勅命が出されて講和となりました。
この田辺城の戦いは、関ヶ原の戦いで徳川方の勝利に貢献したものとして評価されていますが、その駆け引きとして武力ではなく、古今伝授という文化の力を使った点を注目しましょう。細川幽斎は、文化が政治を動かすこともできると、古今伝授によって証明したのです。