教科書でもおなじみの『枕草子』。『徒然草』『方丈記』と並び日本三大随筆の一つに数えられ、最も古い随筆集とされています。
これほど有名な『枕草子』ですが、平安時代に清少納言が書いた書物と知っていても、その内容となると「春はあけぼの」ぐらいしか思い出せない人もいるかもしれません。
「枕草子ってどんな内容なのかな?」
「枕草子について簡単に特徴やあらすじを知りたい!」
そこでこの記事では『枕草子』はいったいどんなことが書かれた書物なのか、内容、作者、成立時期、書いた目的、特徴と魅力について簡単に解説していきたいと思います。一部の章段のあらすじや主な登場人物、『枕草子』のおすすめ本も紹介しています。
『枕草子』は気軽に読める書物ではありますが、少し登場人物の人間関係や歴史的事情も知っておくほうが、より理解しやすく楽しめます。この記事を読んで「こんな本だったんだ。読んでみたいな」と思ってもらえれば幸いです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
『枕草子』とは?
『枕草子』の簡単な内容と解説
『枕草子』は平安時代中期に一条天皇の中宮定子(ちゅうぐうていし)に仕えた女房・清少納言によって書かれた随筆集です。随筆とは今のエッセイのようなものです。
作者である清少納言が自身の宮廷生活を中心に、自然や人生、人間関係などについての体験や考えを思うままに書いています。とくに清少納言が「をかし」(趣がある、面白い)と感じたことを中心にとりあげています。清少納言の豊かな感性と鋭い視点で「こういう点がをかし」と、独特の「をかし」の世界を表出したものです。
『枕草子』はおおよそ300の章段で構成されていますが、内容は主に次の3つに分けられます。
類聚的章段(るいじゅうてきしょうだん)
いわゆる「ものづくし」と呼ばれる段で、「好きなもの」「残念なもの」「木は」「川は」など、清少納言が思うものを並べたもの。
日記的(回想的)章段
清少納言の宮廷生活でのできごとを回想風につづったもので、宮中の儀式や日々のこと、貴族たちとの交流などが記されています。その主題はほぼ定子賛美となっています。
随想的章段
季節や人間関係、日常生活などを観察し、思ったことを自由に書いています。こんな男やこんな恋愛は嫌だなど、現代にも通じる視点も数多いので興味深く読めるでしょう。
『枕草子』はこの3つの内容が混在しています。歯切れのよい軽快な文章で書かれ、短編が多いため比較的読みやすい作品です。
また、回想風の部分も時系列に並んでいるわけではありません。自分の興味のある段から読んでみるのもおすすめです。
作者の清少納言について
清少納言は966年ごろ、中流貴族で歌人としても有名な清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘に生まれました。元輔は『後選和歌集』の編纂、曾祖父の深養父(ふかやぶ)も『古今和歌集』の代表的歌人と、清原家は歌人、学問で名高い家系でした。
父の教育方針もあったのか清少納言は、和歌、さらに当時女性が学ぶことが少なかった漢詩の教養も身につけ、才智に優れた女性へと成長しました。
16歳ごろ、貴族の橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、則長を生みますが離婚。30歳前にその豊かな教養を買われて一条天皇の中宮定子の教育係ともいえる女房になりました。以降、約7年間にわたり定子に仕えることになります。
宮中につとめた清少納言は美しく知性豊かな定子を敬愛します。定子も教養があり機転が利く清少納言を気に入ったようです。
清少納言にとって宮中での生活は雲の上とも思う優雅な世界で、尊敬できる定子に仕え、自らの才能も存分に発揮できる輝いた日々だったことでしょう。そしてこの宮仕えをしている期間に、『枕草子』の執筆を始めたようです。日記的な章段はこの宮中での出来事を多くとりあげています。
定子が1001年頃若くして亡くなると、清少納言は再婚相手の藤原棟世(ふじわらのむねよ)の任地・大阪へ同行したとも、のちに京都に戻ったともいわれ、1025年頃に亡くなったようです。
息子の則長、棟世との間に生まれた娘の小馬命婦(こまのみょうぶ)はともに歌人としても活躍しました。
ちなみに清少納言という名前は彼女が宮中に出仕した時につけた宮中で使った通称で、本名ではありません。清原氏の清と少納言という官職を組み合わせたもので清・少納言(せい・しょうなごん)と分けて読みます。清少納言の本名は清原諾子(きよはらのなぎこ)という説もありますがその真偽のほどは不明です。
『枕草子』が成立した時期
『枕草子』は清少納言が宮中に仕えていたころから書き始め、1001年頃の成立とされています。
『枕草子』には、執筆のきっかけと世に広まったいきさつが記されています。それによると、定子が兄の伊周(これちか)から献上された当時貴重品だった紙を、清少納言に何か書くようにと下賜しました。それに清少納言が思うことなどを書きとめたのが『枕草子』なのだそうです。
具体的にはそのあと、しばらく清少納言が里に下がっていたときに書き始めたらしく、996年ごろから定子死去直後の1001年ころまで書きつがれました。なお、そのあとも数年は推敲、加筆されていたという説もあります。
また、清少納言はもともとこの書いたものを人に見せるつもりはなかったのですが、家を訪れてきた源経房(みなもとのつねふさ)が持ち帰って広めたと記されています。以降、『枕草子』は宮中に広まっていきました。
『枕草子』の「枕」の意味とは?
『枕草子』の作品名、「枕」の意味についてはいくつかの説があります。
『枕草子』によると、ある時定子が白紙の冊子を手に「これに何を書きましょうか。天皇のところでは中国の歴史書の『史記』を写すそうですよ」と清少納言に相談をもちかけます。清少納言はこれを受けて「枕でございましょう」と答えたとされています。
これは中国の詩文集『白氏文集』にある「書を枕にして眠る」の一節をもじったもの。このあと、清少納言はこの紙を託され、『枕草子』を書き始めました。この時の会話を思い出して書名を『枕草子』と名付けたとされています。
ただ「枕でございましょう」といった枕の意味についてはほかの説もあります。『史記』と四季をかけて「四季を枕(最初)にしたものを書きましょう」と言ったもので、そのため「春はあけぼの」と最初に四季を取り上げたという説があります。また、『史記』を「敷く」ととらえ、天皇が「敷く」ならばこちらは「枕」にしましょうといったダジャレ説も。
そのほか、当時「枕草子」は一般的な名詞として使われていたという意見もあるようです。つまり『枕草子』は特定の書名ではなく、例えば日記帳や忘備録といった種類そのものを指したもの。そのため『清少納言の書いた枕草子』だったのかもしれません。ただこの場合、「枕草子」という名詞がどういう意味を持っていたのか不明で、忘備録を兼ねた日記帳、歌枕の解説書などいくつかの説が存在します。
現在の私たちは『枕草子』といえば、平安時代の清少納言が書いた随筆集がすぐに思い浮かびます。ところが当時は『清少納言の枕草子』と名前を付けないと、誰のものかわからなかったのかもしれませんね。
『枕草子』を書いた理由
『枕草子』を執筆した直接の動機は、定子から当時貴重でなかなか手に入らない「紙」をもらったことだと前にも書きました。
ただし清少納言は暇つぶしに思いついたことを書いたわけではありません。実は『枕草子』は一般向けではなく、敬愛する定子を励まそうと書いたものだったとされています。
清少納言が出仕したころの定子は、時の権力者である父藤原道隆のもと、一条天皇の中宮となって栄華の絶頂期で輝いていました。清少納言は思いやりがあり聡明で美しい定子を尊敬し、定子もまた才気あふれる清少納言を気に入ります。ふたりは信頼を深めていきました。
ところが定子の父道隆が亡くなり、兄弟が叔父の道長に追い落とされたことから後見をなくした定子の権勢が弱まります。一条天皇のもとには他のお妃が入り、道長も娘を中宮にしようと、定子に嫌がらせをするようになりました。
そのさなか、清少納言は仲間の女房達から道長に通じた裏切りものという疑いをかけられ、一時宮中から身を引かざるを得なくなったのです。
それでも清少納言が定子を思う気持ちは変わりませんでした。そこで定子を慰めようと『枕草子』を書き始めたのです。せめてこれを読んで定子に楽しい気持ちになってもらいたいと、宮中での華やかな楽しい日々、身の回りの面白いことを書いていきました。
『枕草子』は定子の亡くなった後も加筆されています。今度は定子のすばらしさを世に残そうと筆を執ったのでしょう。『枕草子』は清少納言が定子と出会ったからこそ成立した、定子に捧げた書物だったのです。
現代に伝わる『枕草子』伝本
成立から1000年以上たった今も読み継がれている『枕草子』。後世の随筆『徒然草』も大きな影響を受けたとされており、随筆集の金字塔ともいえる作品です。
ただし清少納言が書いた『枕草子』は残っていません。清少納言の書いた『枕草子』は、これを世に広めた源経房からいったん返却されました。そして清少納言の死後は娘の小馬命婦に引き継がれたとみられています。
しかしその後の行方はわかりません。当時、本は書き写して伝えられたため、1000年の間に多くの人によって書写されてきました。しかも書写した本をまた書写するなかで、多くの人の加筆、推敲が加えられたため、内容が大きく異なる『枕草子』の伝本(伝えられた本)が生まれました。今では伝本は4つの系統にわかれます。
- 三巻本(さんかんぼん)・・・室町時代の写本で、最も原本に近いとされています。
- 能因本(のういんぼん)・・・三巻本の次に原本に近いとされています。江戸時代にはこの能因本が中心とされてきました。
- 前田家本・・・加賀前田家に伝わる伝本で1冊しか存在しません。
- 堺本・・・堺に住む人の所持していた本を写したとされます。
これらは章段の並びや内容によってもかなり相違があります。現在は三巻本が最も使われ、その次に能因本が使われています。
『枕草子』の特徴と魅力
随筆という新たなジャンル誕生
『枕草子』は、散文で書かれた随筆集で、随筆の最初の作品ともいわれています。
平安時代の散文は物語や日記といった作品が主流で、自分の思いや自然の美しさなどを自由なスタイルで書く、今のエッセイのような随筆という文学はなかったのです。それはどちらかといえば和歌や詩文を使って表現するものと考えられていました。それを散文形式で書いたのが『枕草子』だったのです。
しかも日ごろからの意見や自然、物事の感想、日記のような回想形式などさまざまなスタイルがあるのも『枕草子』の特徴です。
「をかし」の文学
『枕草子』は自由に書くスタイルですが、基本的な精神は一貫しています。それが「をかし」の精神です。
「をかし」は趣深い、風情があるといった感覚を表わす言葉。『源氏物語』の情緒的な「もののあはれ」と異なり、理知的で明るい感覚表現とも位置付けられます。よりわかりやすく言えば「すてき」「おもしろみがある」を知的に表現したものです。
『枕草子』は清少納言が「をかし」と思ったことを言葉で表現した文学なのです。しかも清少納言の独特の観察力や鋭い視点も見逃せません。
たとえば冒頭の「春はあけぼの」も、
「春はあけぼの。やうやう白くなりたる山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
『枕草子』原文
夏は夜。月のころはさらなり。(略)
秋は夕暮れ。(略)」
とあります。「春は桜、秋は紅葉が美しい」と誰もが知る風物の美しさではなく、
「春は夜が明けようとする頃がよい。日が昇って少しずつ白んでいき、山際が明るくなって、紫がかった雲が長く引いている様子がよい。
夏は夜、月夜の頃はなおよい。(略)
秋は夕暮れがいい。(略)」
という時間軸に着目しています。こうした独特の観察力が読む人を楽しませてくれます。
女房文学
『枕草子』は『源氏物語』とならぶ平安時代の女房文学のツートップ作品といえます。これらの作品が女房文学と呼ばれるのは、宮中で天皇の后妃が住む後宮に仕えた「女房」が書いた文学作品だからです。
女房文学は主に平安時代中期に生まれました。これがこの時期にできた理由はおもにふたつあります。ひとつは平安時代、漢字よりやさしいかな文字が生み出されたため、貴族の女性たちが気軽に日記や物語を書くようになったからです。
ふたつめは后妃(天皇の妻)の家庭教師として、女房と呼ばれる女性たちが宮中に仕えるようになったからです。
平安朝の摂関時代は、実力者である藤原氏が娘を天皇の后に入れ、その生まれた子を次の天皇につけて自分が摂政関白になることで政権を握っていきました。
そのため藤原氏は、天皇に嫁がせた娘が天皇の寵愛を得られるよう躍起になります。そこで娘に教養をつけるとともに娘の後宮を華やかに演出するために、和歌や漢詩に優れた女性たちを女房として雇いました。大半は中下流貴族の娘や妻だったといいます。
こうして后妃の周りは才智にあふれた女房と呼ばれる女性たちが集まる後宮サロンが作られ、華やかな文化活動が花開いたのです。
清少納言や紫式部はこうしたサロンで活躍した女房でした。彼女たちは宮中で女房として仕えて貴族やほかの女房たちと交流し、積極的に歌を詠み、知的な会話を繰り広げます。こうした生活から刺激を受け、和歌集や物語、そして清少納言のような『枕草子』といった作品が生み出されたのです。
とくに定子の後宮サロンは定子の性格もあったのか、明るく華やいでいました。そんなサロンは才気煥発な清少納言にはぴったりだったのでしょう。
清少納言の定子への思い
『枕草子』にはいたるところで清少納言の定子に対する敬慕が記されています。定子の美しさと優しさ、ダジャレを楽しむ定子の知性、女房たちが貴族らに褒められたといって喜ぶ定子の奥ゆかしさなど「定子様はこんなところも素晴らしい」とアピールしています。
ただこれも当時の政治状況を知ると別の面が見えるでしょう。前にも書いた通り栄華の極みにいた定子は父や兄弟を失い、失脚しました。
そんななかで清少納言は、定子を励まそうと、明るく楽しいことが好きな定子のために「こんなものが素敵」「こんなものが嫌」「こんなことがあったよね」と気さくにおしゃべりしているような感覚で『枕草子』を書いたのです。
『枕草子』の定子はいつも優しく明るく微笑んでいます。じつは清少納言の自慢に思える箇所も、清少納言の活躍を知って喜ぶ定子の姿や定子の後宮の素晴らしい様子など、輝く定子を描きだすためでした。そこには晴れやかな定子のみを描こうとした、定子を思う清少納言の優しい気持ちが込められていたのです。
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