小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

55年体制とは?内容や問題点、終焉までわかりやすく解説

戦後日本の政治史を語る上で外せないキーワードに「55年体制」があります。

この言葉自体は知っていても、いざ説明しようと思うと難しいと感じている人も多いのでは?。1955年の体制成立から、93年の崩壊までと長い歴史を持つのですから仕方ないといえば仕方ないかもしれません。

実はこの55年体制は今の政治を理解する上でも欠かせない重要なキーワードの1つ。一度は崩壊した体制がなぜ今の政治を語る上で外せないのでしょうか。

今回は、戦後日本の政治体制を形作り、そして現在に続く日本政治の基礎を作った55年体制について成立から崩壊までを詳しく解説していきます。

そもそも55年体制とは?

自由民主党結党の壇上に座る中核議員たち

55年体制とは、その名のとおり1955年に発足し続いた政治体制を指します。諸説ありますが、1993年に日本社会党を含む連立与党の誕生で自由民主党の与党独占の体制が終わるまでの約40年間を総称してこう呼ばれています。

1955年以降の日本の国会で、議席の約2/3を占める自由民主党と、残りを占める日本社会党の対立がこの体制の発端です。自由民主党は1955年の結党以来、現在に至るまで日本の戦後政治を動かしてきた政党として知られています。対する日本社会党はこの55年体制の中で分裂し、消滅していますが、この当時は野党第一党として強力な力を持っていました。

この二大政党による政治的対立を55年体制とするのが一般的です。

55年体制以前の日本の政治

玉音放送を聴く民衆。これにより国民は戦争の終結を知った。

55年体制が始まる前の政治、主に戦後政治は日本人だけで運営されてきたものではありません。

1945年8月15日、日本が無条件降伏をし第二次世界大戦が終戦を迎えると、アメリカが主体となって占領政策を始めます。GHQと呼ばれるこの組織は、日本が独立を宣言するまでのあいだ、事実上日本の政治を動かしてきました。しかし、独立後すぐに55年体制が始まったわけではありません。

ここでは、55年体制以前の日本の戦後政治について説明していきます。

GHQの占領政策から独立へ

終戦を迎えてすぐ、アメリカは日本の占領政策を担うための組織ある連合国軍再考司令官総司令部、通称GHQを送ります。最高司令官であるダグラス・マッカーサーと、その後任マシュー・リッジウェイによる統治が1952年に終わるまで、日本の政治は事実上彼らの裁量で決定されました。

初代GHQ司令官、ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に到着した時の写真

GHQが日本政治に介入した理由は、ずばり日本の民主化。天皇を頂点とした大日本帝国憲法を廃止し、各種法律を改正・制定します。日本国憲法や労働基準法のような現代にも残る日本のルールを作り上げた一方、自分たちの意にそわない政治家は公職追放で投獄するなどの独裁も行いました。

1952年、朝鮮戦争の激化と、その前年に結ばれたサンフランシスコ講和条約により日本の独立に伴い、GHQは日本を去りました。国際社会への復帰を成し遂げたのです。しかしGHQが行った各種に反対し、のちに55年体制の一角を担うことになる社会党が、GHQ解消とともに力を強めていきました。

第5次吉田内閣の総辞職と自由民主党結党

独立を宣言する詔書を読み上げる吉田茂

1954年、それまでGHQと渡り合っていた吉田茂の第5次内閣が解散します。当初は日本独立後に退任することを目論んでいた吉田ですが、結局独立後3年間、内閣総理大臣を務めました。

この背景には、自ら率いていた自由党と考え方の異なる社会党の抑制がありました。特に憲法に関する態度の違いから対立を深めていた状態で、アメリカを刺激する態度を取りたくなかった吉田の考えがあります。

しかしこの内閣は自由党の分裂と疑獄事件のために信用は失墜しており、かつ公職追放から復帰した鳩山一郎らの反吉田体制の完成によってわずか1年ほどで総辞職に追い込まれました。

右から2番目が鳩山一郎。その右にいるのはのちの首相、鳩山由紀夫。

1955年、鳩山一郎率いる自由党と保守政党の合流により自由民主党が誕生。国内最大の政党となり、第1党となりました。同時期に、右派・左派で分裂していた社会党も日本社会党として統一。ここに55年体制の対立構図が完成したのです。

時をほぼ同じくして、アメリカはソビエトと「冷戦」と呼ばれる状態になります。偶然の一致ではありますが、日本の55年体制を「冷戦の代理戦争」と例える人もいます。同時期に国際社会でも同じような動きが合ったのは面白いところですね。

55年体制の内容を簡単解説

長引く55年体制での論点はなんだったのでしょうか?

教科書でも重要になる割にはあまり中身について触れられていません。また、55年体制の間政権を運営していたのは自由民主党なのですが、なぜ日本社会党は勝てなかったのかについてはあまり詳しく触れられていません。

本章では、55年体制の対立の中心と自由民主党の事実上の一強の理由、そして日本社会党の状態についてお話します。

自由民主党と日本社会党の対立原因は「自主憲法」

日本国憲法の最初のページ。発布時の内閣人事が書かれている

自由民主党と野党最大の日本社会党の対立。その最大の理由は憲法にありました。

先にも少し触れましたが、戦後に制定された日本国憲法はGHQ主導のもとで作成されました。この「GHQ主導」をよく思わない自由民主党はこれを「押しつけ憲法」と揶揄して改正を目指します。

一方の日本社会党は護憲の体制を明確にしました。この背景には朝鮮戦争へ向けた再軍備反対の動きがあり、日本社会党の中でもこの動きが加熱していたことが挙げられます。

そんな中で行われた第27回衆議院議員選挙。結果は自由民主党は議席全体の2/3を獲得、残り1/3を日本社会党が獲得しました。この体制が55年体制の基礎となります。しかし、自由民主党は与党にはなったもの憲法改正に必要な議席数は獲得できず。一方の日本社会党も、憲法改正は阻止できたが与党に離れずの状態になりました。

この後も憲法を巡った対立は続きますが、双方が目的を達成できないまま月日は経っていったのです。

吉田学校の優等生が率いた自由民主党

始め、鳩山一郎などの反吉田の首班が率いていた自由民主党。しかし、結局長続きはしませんでした。代わりに現れたのは、吉田茂子飼いの政治家たち。世間では「吉田学校」と呼ばれた吉田茂の懐刀たちが首班として自由民主党を牽引していきます。

吉田学校を小説化した『小説 吉田学校』の表紙。のちに映画化もされた。

池田勇人や佐藤栄作、田中角栄といった直接薫陶を受けた者から、宮澤喜一のような、吉田から見れば孫弟子に当たるような人間まで幅広く存在していました。

この吉田学校出身者の強さの理由は、官僚出身者が多かったこと、そして政財界に複数のコネクションを持っていたことが挙げられます。吉田学校の出身者は元官僚が多く、各省庁の扱いにも長けていました。また、吉田学校から輩出された人材は日本財界にも複数存在しており、これらとのつながりが自由民主党の強さのひとつとなっていたのです。

しかし、一方で非官僚系の派閥からは不満が噴出。これがのちの自由民主党分裂につながっていくのです。

日本社会党が議席数を減らした原因

吉田学校出身者によって力を増した自由民主党に対して、日本社会党は徐々に議席数を減らしていきました。理由は先に挙げた護憲にこだわり続けたことにあります。

時代が経つにつれ、改憲・護憲の考え方は国民から薄れていきました。1960年代に入ると日本国憲法は日本国民の生活に根付き、受け入れられるようになります。改憲を掲げていた自由民主党もそんな世論の声を反映してか、大々的には改憲を掲げなくなりました。

「土井ブーム」の張本人、土井たか子。「おたかさん」の愛称で親しまれた。

時代錯誤さながらの護憲を掲げ続けた日本社会党は、徐々に議席数を減らしていきます。支持基盤を労働組合に絞ったことも相まって、最大野党としての勢力は失われていきました。後に「土井ブーム」と呼ばれる土井たか子の登場もあり、一時的に人気を得ますが結局単独で与党になることはできませんでした。

度重なる汚職と離党者

ここまでお話していると、自由民主党は敵なしの政党に見えます。しかし、実際には内部での汚職や離党者が徐々に増えだしていました。

自由民主党を離党した議員たちは少数でも政党を結成しました。これがミニ政党と呼ばれるもので、のちのち55年体制の崩壊につながる勢力として存在することになります。

田中角栄逮捕の記事。総理大臣経験者が逮捕された前代未聞の事件だった。

汚職事件で言えば、代表的な田中角栄のロッキード事件をはじめ、佐川急便事件、リクルート事件など、時の内閣を総辞職に追い込むようなものがありました。これにより、自由民主党の信頼は失墜。「新党ブーム」の火付け役、細川護煕が率いる日本新党の台頭で、信頼を失いつつあった自由民主党、勢いがつかない日本社会党による55年体制は徐々に陰りを見せ始めたのでした。

55年体制の問題点は?

約40年にわたって日本の政治を動かしてきた55年体制。後述するようにその最後はあっけなく終わってしまいます。

それ以前の問題として、55年体制にはいくらかの問題がありました。それは自由民主党の大きさと内部事情にあり、この両方が重なり合って、最終的に大敗することとなってしまったのです。

では、その問題とはなんだったのでしょうか?詳しく見ていきましょう。

事実上の自由民主党一強だった

日本社会党が最大野党として存在したものの、その体制は自由民主党の一強にほかなりませんでした。つまり、どの野党も与党自由民主党に勝てるほどの人気や支持を得られないままだったのです。

ケネディ大統領と談笑する池田勇人(左)
吉田茂の側近と称された佐藤栄作(左)

自由民主党が強かったのは事実です。先にお話した吉田学校出身者は特にそうで、池田勇人の「国民所得倍増計画」、佐藤栄作の「非核三原則」、そして田中角栄の「日本列島改造論」と「日中国交正常化」は国民生活に支持されました。何よりも彼らが強すぎたのもあるでしょう。

しかし、田中以降はどうかと言うと、彼に端を発した汚職事件や内部分裂に歯止めがかからなくなってしまっていました。田中1人の責任ではありませんが、この頃から国民の政治不信・興味の低下が現れたのは事実です。

ですが、その他にこれと言って支持したい政党もない。じゃあ自由民主党でいいか。これが55年体制の後半の自由民主党の姿だったのです。

党内の分裂が止まらなかった

党内の分裂に歯止めがかからなかったことも、55年体制の問題点として挙げられます。

ひとつの政党には複数の派閥が存在します。考え方が微妙に違ったり、目指すべきゴールが大筋は同じだが過程が異なるなどの場合、中心人物を据えて派閥を作ることが政治の世界では一般的です。この派閥の首領から総理大臣を出すのが、自由民主党内では重要だったのです。

自由民主党の派閥を追った図。分裂や合流を繰り返す派閥もある。

これに待ったをかけたのが田中角栄でした。田中は自身の派閥を持っており、勢力は当時党内最大でした。この派閥を半ば私的に使ったことで党内にいらぬ混乱を招きました。ロッキード事件での逮捕後も代表として居座ったのです。この混乱は収まることなく、55年体制の崩壊のきっかけとなりました。

田中の政界引退後、自由民主党は分裂・離党を激しくします。決定打である細川護煕の離党と「日本新党」の結成は55年体制に終止符を打つ結果となりました

55年体制のおわり

「新党ブーム」の火付け役、細川護熙

55年体制の終わりは、さまざまな要素が重なって迎えました。ある日突然変わったというわけではありません。

東西冷戦の終結とともに訪れたバブル崩壊と度重なる汚職事件、止まらない内部分裂に歯止めがかからない自由民主党の人気がすでに地に落ちていたことは言うまでもないでしょう。

一方の日本社会党もバブル崩壊の頃には「土井ブーム」が過ぎ去り、海外への支援のために送られる自衛隊に反対の姿勢を示したりして人気を落としていました。

55年体制の終わりは来るべくしてきたのですが、では、どのような終わりを迎えたのでしょうか。また、55年体制崩壊後の日本政治はどうなっていったのでしょう。詳しく見ていきましょう。

細川護熙と「新党ブーム」

55年体制崩壊のキーマン、細川護煕が自由民主党を離党したのはは熊本県知事を退任したと同時でした。文藝春秋にて「自由社会連合」結党を公表し、10年以内の政権獲得を国民に約束したのです。党名となった日本新党は公募で募った結果で、細川は代表として日本各地を遊説しました。

左から、羽田孜、細川護熙、武村正義。いずれも新党を率いていた。

1993年、第40回衆議院議員選挙の前哨戦である東京都議会議員選挙で大勝。続く衆議院議員選挙でも、羽田孜率いる羽田派が自由民主党を離党した関係で同党の単独過半数が守れず、日本新党をはじめとする新党が存在感をあらわにしました。

羽田は、細川同様「新生党」を、元滋賀県知事の武村正義は「新党さきがけ」をそれぞれ結党していました。「新党ブーム」で誕生したこれら非自民系政党の大連立により、細川は首相に担ぎあげられ、1993年、細川大連立内閣が誕生したのです。参加した政党は日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・公明党・民社党・社会民主連合の8党。自由民主党は結党以来初めて野党に回り、ここに55年体制は崩壊したのでした。

続かなかった連立与党と自由民主党の返り咲き

震災後の神戸を視察する村山富市(中央)

しかし、この連立与党は長くは続きませんでした。1994年、内部対立と細川自身の金銭問題で政権は倒れ、続く羽田内閣、村山内閣もスキャンダルや阪神淡路大震災をはじめとする自然災害、オウム真理教事件の対応の遅れを指摘され次々に退陣。その過程で、連立内閣に自由民主党が加わっていました。

1996年、村山富市が突然の退陣を発表。次に首相に選出されたのは自由民主党総裁の橋本龍太郎でした。つまり、また55年体制の時のように自由民主党が国政の中心となる時が来たのです。

連立与党が続かなかった原因として挙げられるのは、政策が不十分であったことです。そもそも細川が連立与党を成し遂げたのも、「自由民主党にやらせるぐらいなら」というもので、政権獲得後のプランは明確にはなっていませんでした。

自由民主党の政権奪還の貪欲さを記した芹川洋一氏

また、自由民主党側も与党への返り咲きを狙い、細川内閣退陣後、連立与党に参加した経緯があります。日本経済新聞論説フェローの芹川洋一は、著書『平成政権史』で次のように述べています。

自民党は右から左まで、なりふり構わず政権に復活しようとしていた

結局、自由民主党の思惑通りに事が進んでしまったのです。2009年に再び野党に転落するまで、自由民主党はまたしても政権を担う与党として返り咲いたのです。

55年体制とはに関するまとめ

戦後間もなくから1993年の崩壊まで続いた55年体制。その過程での政治腐敗や政権への固執、これに対抗する野党の弱体化や新興勢力の下克上など、ドラマチックな場面がその都度繰り広げられてきました。

55年体制は、日本の戦後政治の基盤を築いたのは事実です。この間の政治は非常に安定もしていました。しかし一方で政治への無関心を招いたこともまた事実。現在の選挙に対する国民の意識の低さを作り出した原因といってもいいでしょう。55年体制は良くも悪くも、今の日本社会の政治に対する考え方を形成したのです。

ここに書いたことは55年体制のほんの一部にすぎません。ですが、この記事をとおして日本の政治や55年体制そのものに興味を持ってもらえると幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

コメントを残す