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55年体制とは?内容や問題点、終焉までわかりやすく解説

「55年体制って何のこと?」
「55年体制はなぜそんなに長く続いたの?」
「55年体制はどうやって終わった?」

戦後の日本政治史を知る上で欠かせないのが55年体制です。とはいえ、戦後史というのは学生時代に学ぶ機会が少なく、言葉だけは聞いたことがあっても、何のことなのかわからないという人も多いのではないでしょうか?

しかし、今の日本の政治は55年体制に直結したものです。アメリカでは大統領選挙でしばしば政権交代が行われるのに、日本はなぜ、政権交代がなかなか起こらないのか?外国の政治体制と比較して、日本の政治の仕組みにこんな素朴な疑問を抱いている人は、この記事を読むことで、理解の糸口が見つかるかもしれません。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

そもそも55年体制とは?

自由民主党結党の壇上に座る中核議員たち

55年体制とは、1955(昭和30)年秋に、自由民主党と自由党の保守合同により成立した自民党と、左右両派の統一によって成立した日本社会党との、二大政党政治体制のことです。

アメリカやイギリスと異なり、資本主義と社会主義という対抗を軸にした二大政党であったことや、社会党が衆議院で多数党になることができなかったこともあり、政権交代は長らく実現しませんでした。しかし1993(平成5)年の衆議院選挙で自民党議席数がが過半数を割ったことで、55年体制は崩れたのです。

55年体制以前の日本の政治

玉音放送を聴く民衆。これにより国民は戦争の終結を知った。

55年体制が始まる前の政治、主に戦後政治は日本人だけで運営されてきたものではありません。

1945年8月15日、日本が無条件降伏をし第二次世界大戦が終戦を迎えると、アメリカが主体となって占領政策を始めます。GHQと呼ばれるこの組織は、日本が独立を宣言するまでのあいだ、事実上日本の政治を動かしてきました。しかし、独立後すぐに55年体制が始まったわけではありません。

ここでは、55年体制以前の日本の戦後政治について説明していきます。

GHQの占領政策から独立へ

終戦を迎えてすぐ、アメリカは日本の占領政策を担うための組織ある連合国軍再考司令官総司令部、通称GHQを送ります。最高司令官であるダグラス・マッカーサーと、その後任マシュー・リッジウェイによる統治が1952年に終わるまで、日本の政治は事実上彼らの裁量で決定されました。

初代GHQ司令官、ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に到着した時の写真

GHQが日本政治に介入した理由は、ずばり日本の民主化。天皇を頂点とした大日本帝国憲法を廃止し、各種法律を改正・制定します。日本国憲法や労働基準法のような現代にも残る日本のルールを作り上げた一方、自分たちの意にそわない政治家は公職追放で投獄するなどの独裁も行いました。

1952年、朝鮮戦争の激化と、その前年に結ばれたサンフランシスコ講和条約により日本の独立に伴い、GHQは日本を去りました。国際社会への復帰を成し遂げたのです。しかしGHQが行った各種に反対し、のちに55年体制の一角を担うことになる社会党が、GHQ解消とともに力を強めていきました。

第5次吉田内閣の総辞職と自由民主党結党

独立を宣言する詔書を読み上げる吉田茂

1954年、それまでGHQと渡り合っていた吉田茂の第5次内閣が解散します。当初は日本独立後に退任することを目論んでいた吉田ですが、結局独立後3年間、内閣総理大臣を務めました。

この背景には、自ら率いていた自由党と考え方の異なる社会党の抑制がありました。特に憲法に関する態度の違いから対立を深めていた状態で、アメリカを刺激する態度を取りたくなかった吉田の考えがあります。

しかしこの内閣は自由党の分裂と疑獄事件のために信用は失墜しており、かつ公職追放から復帰した鳩山一郎らの反吉田体制の完成によってわずか1年ほどで総辞職に追い込まれました。

右から2番目が鳩山一郎。その右にいるのはのちの首相、鳩山由紀夫。

1955年、鳩山一郎率いる自由党と保守政党の合流により自由民主党が誕生。国内最大の政党となり、第1党となりました。同時期に、右派・左派で分裂していた社会党も日本社会党として統一。ここに55年体制の対立構図が完成したのです。

時をほぼ同じくして、アメリカはソビエトと「冷戦」と呼ばれる状態になります。偶然の一致ではありますが、日本の55年体制を「冷戦の代理戦争」と例える人もいます。同時期に国際社会でも同じような動きが合ったのは面白いところですね。

55年体制の内容を簡単解説

長引く55年体制での論点はなんだったのでしょうか?

教科書でも重要になる割にはあまり中身について触れられていません。また、55年体制の間政権を運営していたのは自由民主党なのですが、なぜ日本社会党は勝てなかったのかについてはあまり詳しく触れられていません。

本章では、55年体制の対立の中心と自由民主党の事実上の一強の理由、そして日本社会党の状態についてお話します。

自由民主党と日本社会党の対立原因は「自主憲法」

日本国憲法の最初のページ。発布時の内閣人事が書かれている

自由民主党と野党最大の日本社会党の対立。その最大の理由は憲法にありました。

先にも少し触れましたが、戦後に制定された日本国憲法はGHQ主導のもとで作成されました。この「GHQ主導」をよく思わない自由民主党はこれを「押しつけ憲法」と揶揄して改正を目指します。

一方の日本社会党は護憲の体制を明確にしました。この背景には朝鮮戦争へ向けた再軍備反対の動きがあり、日本社会党の中でもこの動きが加熱していたことが挙げられます。

そんな中で行われた第27回衆議院議員選挙。結果は自由民主党は議席全体の2/3を獲得、残り1/3を日本社会党が獲得しました。この体制が55年体制の基礎となります。しかし、自由民主党は与党にはなったもの憲法改正に必要な議席数は獲得できず。一方の日本社会党も、憲法改正は阻止できたが与党に離れずの状態になりました。

この後も憲法を巡った対立は続きますが、双方が目的を達成できないまま月日は経っていったのです。

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