55年体制とは?内容や問題点、終焉までわかりやすく解説

吉田学校の優等生が率いた自由民主党

始め、鳩山一郎などの反吉田の首班が率いていた自由民主党。しかし、結局長続きはしませんでした。代わりに現れたのは、吉田茂子飼いの政治家たち。世間では「吉田学校」と呼ばれた吉田茂の懐刀たちが首班として自由民主党を牽引していきます。

吉田学校を小説化した『小説 吉田学校』の表紙。のちに映画化もされた。

池田勇人や佐藤栄作、田中角栄といった直接薫陶を受けた者から、宮澤喜一のような、吉田から見れば孫弟子に当たるような人間まで幅広く存在していました。

この吉田学校出身者の強さの理由は、官僚出身者が多かったこと、そして政財界に複数のコネクションを持っていたことが挙げられます。吉田学校の出身者は元官僚が多く、各省庁の扱いにも長けていました。また、吉田学校から輩出された人材は日本財界にも複数存在しており、これらとのつながりが自由民主党の強さのひとつとなっていたのです。

しかし、一方で非官僚系の派閥からは不満が噴出。これがのちの自由民主党分裂につながっていくのです。

日本社会党が議席数を減らした原因

吉田学校出身者によって力を増した自由民主党に対して、日本社会党は徐々に議席数を減らしていきました。理由は先に挙げた護憲にこだわり続けたことにあります。

時代が経つにつれ、改憲・護憲の考え方は国民から薄れていきました。1960年代に入ると日本国憲法は日本国民の生活に根付き、受け入れられるようになります。改憲を掲げていた自由民主党もそんな世論の声を反映してか、大々的には改憲を掲げなくなりました。

「土井ブーム」の張本人、土井たか子。「おたかさん」の愛称で親しまれた。

時代錯誤さながらの護憲を掲げ続けた日本社会党は、徐々に議席数を減らしていきます。支持基盤を労働組合に絞ったことも相まって、最大野党としての勢力は失われていきました。後に「土井ブーム」と呼ばれる土井たか子の登場もあり、一時的に人気を得ますが結局単独で与党になることはできませんでした。

度重なる汚職と離党者

ここまでお話していると、自由民主党は敵なしの政党に見えます。しかし、実際には内部での汚職や離党者が徐々に増えだしていました。

自由民主党を離党した議員たちは少数でも政党を結成しました。これがミニ政党と呼ばれるもので、のちのち55年体制の崩壊につながる勢力として存在することになります。

田中角栄逮捕の記事。総理大臣経験者が逮捕された前代未聞の事件だった。

汚職事件で言えば、代表的な田中角栄のロッキード事件をはじめ、佐川急便事件、リクルート事件など、時の内閣を総辞職に追い込むようなものがありました。これにより、自由民主党の信頼は失墜。「新党ブーム」の火付け役、細川護煕が率いる日本新党の台頭で、信頼を失いつつあった自由民主党、勢いがつかない日本社会党による55年体制は徐々に陰りを見せ始めたのでした。

55年体制の問題点は?

約40年にわたって日本の政治を動かしてきた55年体制。後述するようにその最後はあっけなく終わってしまいます。

それ以前の問題として、55年体制にはいくらかの問題がありました。それは自由民主党の大きさと内部事情にあり、この両方が重なり合って、最終的に大敗することとなってしまったのです。

では、その問題とはなんだったのでしょうか?詳しく見ていきましょう。

事実上の自由民主党一強だった

日本社会党が最大野党として存在したものの、その体制は自由民主党の一強にほかなりませんでした。つまり、どの野党も与党自由民主党に勝てるほどの人気や支持を得られないままだったのです。

ケネディ大統領と談笑する池田勇人(左)
吉田茂の側近と称された佐藤栄作(左)

自由民主党が強かったのは事実です。先にお話した吉田学校出身者は特にそうで、池田勇人の「国民所得倍増計画」、佐藤栄作の「非核三原則」、そして田中角栄の「日本列島改造論」と「日中国交正常化」は国民生活に支持されました。何よりも彼らが強すぎたのもあるでしょう。

しかし、田中以降はどうかと言うと、彼に端を発した汚職事件や内部分裂に歯止めがかからなくなってしまっていました。田中1人の責任ではありませんが、この頃から国民の政治不信・興味の低下が現れたのは事実です。

ですが、その他にこれと言って支持したい政党もない。じゃあ自由民主党でいいか。これが55年体制の後半の自由民主党の姿だったのです。

党内の分裂が止まらなかった

党内の分裂に歯止めがかからなかったことも、55年体制の問題点として挙げられます。

ひとつの政党には複数の派閥が存在します。考え方が微妙に違ったり、目指すべきゴールが大筋は同じだが過程が異なるなどの場合、中心人物を据えて派閥を作ることが政治の世界では一般的です。この派閥の首領から総理大臣を出すのが、自由民主党内では重要だったのです。

自由民主党の派閥を追った図。分裂や合流を繰り返す派閥もある。

これに待ったをかけたのが田中角栄でした。田中は自身の派閥を持っており、勢力は当時党内最大でした。この派閥を半ば私的に使ったことで党内にいらぬ混乱を招きました。ロッキード事件での逮捕後も代表として居座ったのです。この混乱は収まることなく、55年体制の崩壊のきっかけとなりました。

田中の政界引退後、自由民主党は分裂・離党を激しくします。決定打である細川護煕の離党と「日本新党」の結成は55年体制に終止符を打つ結果となりました

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