55年体制のおわり
55年体制の終わりは、さまざまな要素が重なって迎えました。ある日突然変わったというわけではありません。
東西冷戦の終結とともに訪れたバブル崩壊と度重なる汚職事件、止まらない内部分裂に歯止めがかからない自由民主党の人気がすでに地に落ちていたことは言うまでもないでしょう。
一方の日本社会党もバブル崩壊の頃には「土井ブーム」が過ぎ去り、海外への支援のために送られる自衛隊に反対の姿勢を示したりして人気を落としていました。
55年体制の終わりは来るべくしてきたのですが、では、どのような終わりを迎えたのでしょうか。また、55年体制崩壊後の日本政治はどうなっていったのでしょう。詳しく見ていきましょう。
細川護熙と「新党ブーム」
55年体制崩壊のキーマン、細川護煕が自由民主党を離党したのはは熊本県知事を退任したと同時でした。文藝春秋にて「自由社会連合」結党を公表し、10年以内の政権獲得を国民に約束したのです。党名となった日本新党は公募で募った結果で、細川は代表として日本各地を遊説しました。
1993年、第40回衆議院議員選挙の前哨戦である東京都議会議員選挙で大勝。続く衆議院議員選挙でも、羽田孜率いる羽田派が自由民主党を離党した関係で同党の単独過半数が守れず、日本新党をはじめとする新党が存在感をあらわにしました。
羽田は、細川同様「新生党」を、元滋賀県知事の武村正義は「新党さきがけ」をそれぞれ結党していました。「新党ブーム」で誕生したこれら非自民系政党の大連立により、細川は首相に担ぎあげられ、1993年、細川大連立内閣が誕生したのです。参加した政党は日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・公明党・民社党・社会民主連合の8党。自由民主党は結党以来初めて野党に回り、ここに55年体制は崩壊したのでした。
続かなかった連立与党と自由民主党の返り咲き
しかし、この連立与党は長くは続きませんでした。1994年、内部対立と細川自身の金銭問題で政権は倒れ、続く羽田内閣、村山内閣もスキャンダルや阪神淡路大震災をはじめとする自然災害、オウム真理教事件の対応の遅れを指摘され次々に退陣。その過程で、連立内閣に自由民主党が加わっていました。
1996年、村山富市が突然の退陣を発表。次に首相に選出されたのは自由民主党総裁の橋本龍太郎でした。つまり、また55年体制の時のように自由民主党が国政の中心となる時が来たのです。
連立与党が続かなかった原因として挙げられるのは、政策が不十分であったことです。そもそも細川が連立与党を成し遂げたのも、「自由民主党にやらせるぐらいなら」というもので、政権獲得後のプランは明確にはなっていませんでした。
また、自由民主党側も与党への返り咲きを狙い、細川内閣退陣後、連立与党に参加した経緯があります。日本経済新聞論説フェローの芹川洋一は、著書『平成政権史』で次のように述べています。
自民党は右から左まで、なりふり構わず政権に復活しようとしていた
結局、自由民主党の思惑通りに事が進んでしまったのです。2009年に再び野党に転落するまで、自由民主党はまたしても政権を担う与党として返り咲いたのです。
55年体制の歴代首相とその覚え方
歴代首相一覧
1955年に55年体制が始まった時の首相は鳩山一郎です。そして、55年体制が終わった1993年に首相を務めていた宮沢喜一です。
- 鳩山一郎(はとやまいちろう)
- 石橋湛山(いしばしたんざん)
- 岸信介(きしのぶすけ)
- 池田勇人(いけだはやと)
- 佐藤栄作(さとうえいさく)
- 田中角栄(たなかかくえい)
- 三木武夫(みきたけお)
- 福田赳夫(ふくだたけお)
- 大平正芳(おおひらまさよし)
- 鈴木善幸(すずきぜんこう)
- 中曽根康弘(なかそねやすひろ)
- 竹下登(たけしたのぼる)
- 宇野宗佑(うのそうすけ)
- 海部俊樹(かいふとしき)
- 宮澤喜一(みやざわきいち)
歴代首相の覚え方
歴代首相の名前は、初代伊藤博文から順番に、名前の頭文字を取り上げて、呪文のように繰り返し唱えながら覚えていく方法がおすすめです。最後の「あ」は安倍晋三ですね。
いくやまいまい、おやい、かさかさ、かやおって、はたか、やきかわった、はわい、さおひは、こひあ、よことこす、ひしよか、あよは、いきいさた、みふお、すなた、うかみほは、むはお、もこあふ、あはかのあ
この中で55年体制で首相を務めたのは以下の15人です。
は、いきいさた、みふお、すなた、うかみ
鳩山一郎や岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、中曽根康弘、海部俊樹は、内閣を複数回組閣しているので、注意が必要です。
55年体制とはに関するまとめ
戦後間もなくから1993年の崩壊まで続いた55年体制。その過程での政治腐敗や政権への固執、これに対抗する野党の弱体化や新興勢力の下克上など、ドラマチックな場面がその都度繰り広げられてきました。
55年体制は、日本の戦後政治の基盤を築いたのは事実です。この間の政治は非常に安定もしていました。しかし一方で政治への無関心を招いたこともまた事実。現在の選挙に対する国民の意識の低さを作り出した原因といってもいいでしょう。55年体制は良くも悪くも、今の日本社会の政治に対する考え方を形成したのです。
ここに書いたことは55年体制のほんの一部にすぎません。ですが、この記事をとおして日本の政治や55年体制そのものに興味を持ってもらえると幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!