「ハインリヒ・ヒムラーってどんな人?」
「ナチスの映画に出てきた変わった人だよね?」
「名前だけ聞いた事あるけど何をした人?」
ハインリヒ・ヒムラーは日本ではあまり知名度がない人物ですが、実はこの男性は第2次世界大戦時に、悪名高いナチ党の政治警察(ゲシュタポ)の責任者であり、「ユダヤ人絶滅政策」の責任者をしていた男性です。
総統アドルフ・ヒトラーが「ユダヤ人絶滅計画」を指示し、実行役が「ハインリヒ・ヒムラー」でした。よってヨーロッパでは非常に有名な人物であり、現在でも悪の代名詞のようになっています。褒められた人物ではありませんがヒムラーを知ることによって、反省することもできると思います。
どうして恐ろしい「ホロコースト」が起きたのか、学生時代に「アンネの日記」を読み、「どうして人間は同じ人間にこんなに酷いことができるのか」と考え続けている筆者が、ヒムラーから掘り下げていきたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
ハインリヒ・ヒムラーとはどんな人物か
名前 | ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー |
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誕生日 | 1900年10月7日 |
没日 | 1945年5月23日 |
生地 | ドイツ領邦バイエルン王国首都ミュンヘン |
没地 | ドイツ国 |
配偶者 | マルガレーテ・ヒムラー |
埋葬場所 | リューネブルクの森(墓碑無し) |
役職 | 全ドイツ警察長官・内務大臣・ドイツ民族性強化委員会・国家保安本部長官 |
ハインリヒ・ヒムラーの生涯をハイライト
ハインリヒ・ヒムラーは1900年に、ドイツ帝国領邦バイエルン王国のの首都ミュンヘンで生まれました。父は教師であり、バイエルン王家のハインリヒ王子の家庭教師も務めている人物でした。そのゆかりで「ハインリヒ」という名前が付けられた中産階級の息子として生まれたのです。
幼少期は体が弱く学校を休みがちでしたが、家庭教師を付けてもらい優秀な成績で小学校を卒業し、入学したギムナジウムも「クラスで最優秀の成績を修めて」卒業しました。
1919年にミュンヘン工科大学に入学し農業を学び始めるものの、政治活動にのめりこむようになっていきました。そして1923年にドイツ労働者党(ナチ党)に入党しました。
1923年のミュンヘン一揆も無名の時に参加しています。ミュンヘン一揆鎮圧後は、あまりに無名すぎて逮捕を免れました。1924年にヒトラーが釈放されると、頭角を現し始めました。1927年に親衛隊(SS)に入隊し長らく副官でしたが、1934年にトップのヘルマン・ゲーリングに代わって、ゲシュタポの実質的な長官の地位にたっています。
1932年にヒトラーから認められ、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」目的で、突撃隊から独立した組織となりました。そして親衛隊だけでなく「全ドイツ警察長官」に任命され、政治警察を含めた全ての警察の長官となったのです。
強制収容所も親衛隊の管轄になり、「強制収容所」を多く作りました。この頃は、ユダヤ人を送り込む収容所ではなく、通常の犯罪者の収容所でした。ユダヤ人というだけで強制収容所に送られるようになるのは、第二次世界大戦が始まってからです。
1941年に「ユダヤ人絶滅政策」をヒトラーが打ち出し、命令を受けて「ホロコースト」を組織したのがヒムラーと親衛隊でした。これにより「ユダヤ人」というだけで逮捕されるようになり、アウシュビッツ強制収容所などにユダヤ人が移送されるようになりました。
1941年に第二次世界大戦に突入しますが、1945年にはドイツの敗戦色が強くなりヒムラーはヒトラーには報告せず単独で米・英に降伏交渉を行っています。そしてBBCのラジオ放送で「ヒムラーが無条件降伏を申し出た」と暴露され、ヒトラーに知られることとなったのです。
ヒトラーは怒り、ヒムラーの役職を全部解任させて、逮捕状を出しています。しかし逮捕が行われる前に、ヒトラーは自殺してしまいました。その後20日ほど「ハインリヒ・ヒッツィンガー」として逃亡しましたが、イギリス軍に捕まり捕虜として「リューネブルグ捕虜収容所」に送られます。
そこで自身が「ハインリヒ・ヒムラー」であることを暴露し、交渉を希望しますが拒否されます。そして身体検査中に奥歯に挟んでいた青酸カリで服毒自殺をしました。享年44歳でした。
ナチ党での活動
ハインリヒ・ヒムラーは秘密警察・ゲシュタポの責任者であり、「ホロコースト」の実行責任者です。ユダヤ民族を「絶滅」させようとしたのです。ヒトラーの指令を受けた彼の指揮で多くの人命が失われました。彼が行ったナチ党での役割を簡単に説明したいと思います。
ゲシュタポを統率していた
ヒムラーはゲシュタポの責任者をしていました。ゲシュタポの主な職務は共産主義者や社会主義者の取り締まりや、ナチ党内反ヒトラー活動、堕胎、同性愛、ユダヤ人との交際を取り締まることでした。政治批判者はむろんの事、同性愛者やユダヤ人と交際をしたものを逮捕するのもゲシュタポの仕事でした。
そして1941年にヒトラーが「ユダヤ人絶滅政策」を打ち出すと、「ユダヤ人であるということ」が逮捕条件になり、多くのユダヤ人を強制収容所に送り出すことになりました。
ホロコーストの責任者となる
1941年のヒトラーのユダヤ人政策を受けて、ホロコーストを組織化したのがヒムラーです。ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させる政策を発表し、以前から犯罪者に使用されていた「強制収容所」をユダヤ人の絶滅収容所に改造することにしたのです。
ヨーロッパ中のユダヤ人を集め収容所に送り、ガス室等で大量に虐殺を行っています。ガス殺害を免れた人も軍需需要への奴隷労働者として、「労働を介した絶滅」を作り上げ恐るべき組織的な仕組みを作り上げたのです。「ホロコースト」での犠牲者は600万人ともいわれています。