ハインリヒ・ヒムラーの生涯年表
1900年 – 0歳「『忠臣ハインリヒ』この世に生を受ける」
ハインリヒ・ヒムラーはバイエルン王国首都のミュンヘンで生を受けました。父は教員であり、バイエルン王家の家庭教師を務めていました。名前も「ハインリヒ王子」から付けたといわれています。比較的裕福な家庭であり、病弱で内気な面はあるものの、卒業証書には「品行方正で几帳面な性格」と書かれていたそうです。
1919年 – 19歳「大学に入学するも、徐々に政治運動に参加し始める」
父の勧めで農業をし、農業を学び始めました。しかし同時に政治活動に関心を寄せるようになり、「ミュンヘン市民自営団」に入団しヴァイマル共和国から銃と鉄兜を渡されています。1923年には「国家社会主義ドイツ労働者党」に入党し、ミュンヘン一揆に参加しています。
1925年 – 25歳「親衛隊(SS)に入隊する」
1925年に、ナチスの親衛隊に入隊しました。ヒムラーは徐々に頭角を現し、親衛隊に大きな影響を及ぼすようになりました。1929年に親衛隊の規定に、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるように指導にあたったといいます。
1934年 – 34歳「親衛隊の実質的なトップとなる」
1932年にヒムラーは「ゲシュタポ監査官兼長官代理」という役職につきます。ゲシュタポ長官にヘルマン・ゲーリングがいましたが、実質的な実権はヒムラーが握ることになりました。強制収容所もゲシュタポの管轄になり、多くの収容所を整備させています。
1941年 – 41歳「ユダヤ人絶滅計画の責任者となる」
1941年にヒトラーは「ユダヤ人絶滅計画」を宣言し、翌年には正式に国家政策をなりました。それにあたりヒムラーは元々あった「強制収容所」をユダヤ人を絶滅させる目的の場所に変え、ガス室などを設置しています。そして「ユダヤ人」というだけで、逮捕され強制収容所に送り込み、「労働を介した絶滅」を実行に移していました。
1945年 – 44歳「敗戦し服毒自殺する」
1945年にドイツの敗戦が確実の物となってくると、ヒムラーはヒトラーに相談せず、英・米と無条件降伏をしようと提案しています。しかし拒絶され、そのことをヒトラーにも知られ全ての役職を解任されました。その後指名手配されますが、終戦し一兵士のふりをして逃げていましたがイギリス軍の捕虜となってしまいます。
捕虜収容所で自身が「ハインリヒ・ヒムラー」であることを証し、交渉を試みますが拒絶されます。そして身体検査を受けている時に、持っていた青酸カリで服毒自殺しました。享年44歳でした。
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ハインリヒ・ヒムラーについてのまとめ
いかがでしたでしょうか?筆者が初めてハインリヒ・ヒムラーを知ったときは、「一つの民族を絶滅させようとした」という事実において、その実行犯が非常に地味で目立たない男だったことに殊更恐怖を感じた覚えがあります。身の毛もよだつことが起きている政策の責任者は、理想主義の男だったのです。非現実的な物に興味をしめす偏った思想の者が、政治を動かすようになるのは恐ろしいことだと感じています。
なぜこのようなことが起こったのか。私たちも持っているかもしれない心の闇に負けることなく過ごすために、歴史を振り返ることも大事と考えています。少しでもこの記事を読んで、考えていただけたらこの上なく嬉しく感じます。最後までお読みいただきありがとうございました。