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土田御前とはどんな人?生涯・年表まとめ【美人説や信長との関係も紹介】

「土田御前ってどんな人だろう?」
「『麒麟がくる』で出てきたけどもっと詳しく知りたい」

土田御前は室町時代後期の女性で、尾張の大名織田信秀の正室で織田信長の母です。「おおうつけ」といわれながらも、戦国時代の覇者となった織田信長のお母さんってどんな人か気になりますよね。「麒麟がくる」に登場していたこともあり、注目されている女性ではないでしょうか。

NHK大河ドラマの「麒麟がくる」にも登場している

土田御前は織田信長という有名な人物の母ですが、その半生は非常に謎に包まれている女性といわれています。最近は「毒親」と揶揄されたりもしますが、実際はどうだったのでしょうか。残っている資料の中で、毒親だったかどうかも含めて、紐解いていきます。

土田御前とはどんな人物か

名前土田御前
誕生日不明
没日1594年2月26日
生地近江国・美濃国などの説がある
没地伊勢国(三重県)
配偶者織田信秀
埋葬場所三重県津市の塔世山四天王寺

土田御前の生涯をハイライト

まずは土田御前の人生を簡単に紹介していきましょう。

土田御前の人生は謎の包まれている

土田御前は生年・生誕場所は不明です。出生地は尾張国とも美濃国ともいわれています。実名はわからず、花屋夫人と別称されていました。そして時期は不明ですが、織田信秀の継室として嫁ぎました。織田信秀は最初の正妻織田達勝娘と離縁して、土田御前と再婚しています。

織田信秀との間に、信長、信行、秀孝、信包、市、犬の4男2女もうけました。「うつけ」といわれる信長を嫌い、品行方正な弟の信行を可愛がったといわれ、夫の信秀が亡くなった後は、信長ではなく信行が家督を継ぐことを望んでいたといいます。しかし信行は家督争いに負け、信長に誅殺されてしまいました。

土田御前の墓所がある四天王寺

信行の死後は信長や市と共に暮らし、信長の子供や市の子供の面倒を見ていたといわれています。本能寺の変の後は、孫の信雄の庇護を受けていましたが、最終的に息子の信包の元に引き取られ伊勢国に住み、その地で1594年に没しました。享年は不明です。

土田御前の出自はどこなのか?

土田御前は謎多き女性である

土田御前の出自ははっきりしません。一級の史料は存在せず当時の史料で推察される複数の説を、以下紹介します。

六角氏末裔土田家の娘説

六角氏は元々宇多源氏の流れといわれている

一番一般的な説が、佐々木六角氏の末裔である土田政久の娘とする説です。ただしこの説も当時の一次資料ではなく、孫の織田信雄系の史料に「土田政久息女」と記されているものです。

土田政久は、美濃国土田か尾張国土田の豪族といわれています。どちらかは分かっていません。もし美濃の豪族であるならば、読み方は「どた」、尾張の豪族ならば読み方は「つちた」となります。

小嶋信房の娘説

土田政久娘にしても小嶋信房娘にしても、美濃可児郡土田という説は一緒である

「津島大橋記」「干城録」など織田家家臣の記録には、信秀正室・信長生母は小嶋信房息女と書かれています。実はこの人物が土田御前だという説があります。
もしこの説を取るならば、小嶋氏は美濃国可児郡土田に本拠を置く織田氏の家臣の家柄なので、土田御前は美濃で誕生したことになるでしょう。

六角高頼の娘説

佐々木城の見取り図(六角高頼の居城)

美濃国の記録を記してある史書「美濃国諸旧記」には、土田御前は六角高頼の息女と記されています。
この説を取るならば、六角氏は宇多源氏の血を引く家格の高い守護大名であるため、非常に身分が高い女性であったことになります。この場合六角氏が南近江の守護大名であるために、近江で誕生したことになるといえます。

信長との関係はどうだったのか

長男の信長は、奇抜な行動と容姿により「うつけ」といわれていた

俗説として長男の織田信長を嫌っていて、次男の織田信行を可愛がっていたといわれています。信長は「うつけ」と言われ、弟の信行が品行方正という評価でした。また、土田御前は幼少から弟の信行を手元で育てています。

自分の手元で育てた信行の方が可愛かったのかもしれない

織田信長は当時の慣例で乳母に育てられましたが、次男の信行は乳母の記録が残っていないそうです。土田御前が自身の乳で育てた可能性もあるとされています。後世の想像にはなってしまいますが、気性が激しく行動や言動も理解を超えた「信長」よりも、ずっとそばで育ち品行方正な「信行」の方に愛情を持ちやすかったのかもしれません。

夫の織田信秀の死後、家督問題で家臣の柴田勝家が弟の信行を推して挙兵した為、信長軍と信行軍は稲生で戦うことになりました。この戦いは信長が勝利し末森城の城下を焼き払いますが、土田御前の取りなしにより信行が嘆願を行い、一度は許しています。

結局危険視された信行は暗殺をされてしまう

土田御前の働きかけにより、一度は命を救われた信行でしたが、数年後に不穏な動きがあり謀反の企てがあると噂されたため、結局は信長に暗殺されてしまいました。

その後土田御前は信長の庇護に入り、平穏に暮らしていたといわれています。「本能寺の変」の頃には土田御前は安土城又は、その城下町に住まわせ面倒をみていたとされます。その他にも、信行暗殺後も信長は、信行遺児の信澄を養育し重用したりもしています。その為に、信長は心の底から土田御前や信行を憎んでいたわけでは無かったと評価を受けています。

土田御前は美人だったのか?

現在、美人に描かれることが多い土田御前

「土田御前は美人だった」というイメージが現在も持たれていますが実際はどうだったのでしょうか?、容姿に関する史料は残っていないため、どうしても憶測になってしまいますが、ある程度憶測することが可能です。結論からいうと、土田御前の子供たちが男性も女性も美貌といわれていたため、やはり美人だったのではないかというのが定説となっています。

戦国一の美女といわれたお市

まず息子の織田信長ですが、当時の平均身長は160センチぐらいだったのですが、160センチ後半だったといわれるために比較的身長が高かったと伝わっています。そして妹の市も身長が高く美貌で「戦国一の美女」と評されていました。

左が宣教師の肖像画で右が従来の肖像画

そして溺愛した次男の信行も「容姿端麗」といわれていました。さらに信長の3男信孝も美男で有名だったそうなので、「織田家は美男美女ぞろい」と一般的に評されています。史料として宣教師が描いた写実的な信長の肖像画がありますが、確かに鼻筋が通った端正な顔で描かれているようです。

土田御前の功績

功績1「織田信長を含め、多くの子供の母となったこと」

孫のお江を通じて、皇室や徳川家にも「織田家」の血が受け継がれていくことになった

やはり一番の功績は、戦国の覇者「織田信長」を産んだことではないでしょうか。そして信長をはじめ多くの子に恵まれ、信長の妹、市の娘の「お江」は徳川将軍家に嫁いだ縁で、織田家の血は現在の皇室にも受け継がれています。

この時代の女性は自分の「嫁いだ家」と「実家」の血を残し、家に貢献することが大きな使命と考えられていました。そのような意味では、戦国時代に重要な役割を果たした息子や娘たちに恵まれたことは、土田御前にとって非常に名誉なことだったといえるでしょう。

功績2「面倒見の良いおばあちゃんだったこと」

幼かった孫たちの面倒を見ていたという

溺愛した息子の織田信行が暗殺されてから、土田御前は信長の元に身を寄せていました。そしてまだ小さかった信長や市の子供たち(信忠・信雄・信孝・茶々・初・江など)の面倒を見ていたといわれています。

面倒を見ていた孫の中には、市の子供の「浅井三姉妹」も含まれており、後年豊臣秀吉の側室になった「茶々」や徳川秀忠に嫁いだ「江」もいました。孫たちに囲まれて平穏に暮らしていたということですので、息子を失った悲しみはあると思いますが、安定した幸福な人生を歩んだといえるのではないでしょうか。

土田御前が残した言葉

今までの関係はともかく、実の兄なのだからお見舞いに行くように

織田信行が謀反を起こしているという情報を聞いた信長が、誅殺しようと重病のふりをした時に、土田御前が信行にいった言葉といわれています。この言葉から、織田信長は「扱いにくい嫡男」であると感じていても、「嫌い」や「憎い」まではなかったのではないかと推察されています。

土田御前の人物相関図

大河ドラマ「麒麟がくる」の人物相関図

土田御前にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「信長と亀裂が生じた織田家の事件」

領主に無礼を働いたら「無礼討ち」が行われた

土田御前が織田信長を疎んじた理由の一つに、織田信行ともう一人の弟である「織田秀孝」の死があるといわれています。織田秀孝は、1555年に庄内川付近の松川の渡しという場所で、叔父である織田信次によって、無礼討ちにあい死去する事件がありました。

詳細は、織田信次が家臣を連れて川狩りに興じていました。その時に織田秀孝が単騎で乗馬通行した為、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとした不届き者と誤解されて、信次の家臣に射殺されてしまったのです。

土田御前の息子織田秀孝は馬に乗ったまま、叔父信次の前を横切った

織田信次は、射殺された人物を見て初めて秀孝と気づき、主家である信長の報復を恐れて逃亡してしまいました。この事件で信長は、単騎で領内を通行した秀孝にも咎があるとして罪を許しました。しかし弟、信行はすぐさま挙兵し織田信次旧臣の籠る城下町を焼き払う報復を行ったといいます。

この差により一説には土田御前は、同腹の弟である「秀孝」への情よりも、領主として行動した信長を恨んだのではないかと推察されています。今となっては憶測にしかなりませんが、やはり数えで15歳程だったという実息子の秀孝の死を「事故死」として扱った信長に対して複雑な感情を抱いたのではないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「土田御前屋敷跡と伝わる場所があった!?」

土田山の山麓の宝篋印塔や五輪塔は、地元の人の間で土田屋敷跡といわれているそうだ

史実上の確証はないものの、美濃の土田山の山麓にある田の地には宝篋印塔や五輪塔が数期残っていて、土田一族の墓といわれているそうです。地元の人の間では、土田御前が生まれた屋敷跡(土田屋敷)とも伝わっているといいます。

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