「土田御前ってどんな人だろう?」
「『麒麟がくる』で出てきたけどもっと詳しく知りたい」
土田御前は室町時代後期の女性で、尾張の大名織田信秀の正室で織田信長の母です。「おおうつけ」といわれながらも、戦国時代の覇者となった織田信長のお母さんってどんな人か気になりますよね。「麒麟がくる」に登場していたこともあり、注目されている女性ではないでしょうか。
土田御前は織田信長という有名な人物の母ですが、その半生は非常に謎に包まれている女性といわれています。最近は「毒親」と揶揄されたりもしますが、実際はどうだったのでしょうか。残っている資料の中で、毒親だったかどうかも含めて、紐解いていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
土田御前とはどんな人物か
名前 | 土田御前 |
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誕生日 | 不明 |
没日 | 1594年2月26日 |
生地 | 近江国・美濃国などの説がある |
没地 | 伊勢国(三重県) |
配偶者 | 織田信秀 |
埋葬場所 | 三重県津市の塔世山四天王寺 |
土田御前の生涯をハイライト
まずは土田御前の人生を簡単に紹介していきましょう。
土田御前は生年・生誕場所は不明です。出生地は尾張国とも美濃国ともいわれています。実名はわからず、花屋夫人と別称されていました。そして時期は不明ですが、織田信秀の継室として嫁ぎました。織田信秀は最初の正妻織田達勝娘と離縁して、土田御前と再婚しています。
織田信秀との間に、信長、信行、秀孝、信包、市、犬の4男2女もうけました。「うつけ」といわれる信長を嫌い、品行方正な弟の信行を可愛がったといわれ、夫の信秀が亡くなった後は、信長ではなく信行が家督を継ぐことを望んでいたといいます。しかし信行は家督争いに負け、信長に誅殺されてしまいました。
信行の死後は信長や市と共に暮らし、信長の子供や市の子供の面倒を見ていたといわれています。本能寺の変の後は、孫の信雄の庇護を受けていましたが、最終的に息子の信包の元に引き取られ伊勢国に住み、その地で1594年に没しました。享年は不明です。
土田御前の出自はどこなのか?
土田御前の出自ははっきりしません。一級の史料は存在せず当時の史料で推察される複数の説を、以下紹介します。
六角氏末裔土田家の娘説
一番一般的な説が、佐々木六角氏の末裔である土田政久の娘とする説です。ただしこの説も当時の一次資料ではなく、孫の織田信雄系の史料に「土田政久息女」と記されているものです。
土田政久は、美濃国土田か尾張国土田の豪族といわれています。どちらかは分かっていません。もし美濃の豪族であるならば、読み方は「どた」、尾張の豪族ならば読み方は「つちた」となります。
小嶋信房の娘説
「津島大橋記」「干城録」など織田家家臣の記録には、信秀正室・信長生母は小嶋信房息女と書かれています。実はこの人物が土田御前だという説があります。
もしこの説を取るならば、小嶋氏は美濃国可児郡土田に本拠を置く織田氏の家臣の家柄なので、土田御前は美濃で誕生したことになるでしょう。
六角高頼の娘説
美濃国の記録を記してある史書「美濃国諸旧記」には、土田御前は六角高頼の息女と記されています。
この説を取るならば、六角氏は宇多源氏の血を引く家格の高い守護大名であるため、非常に身分が高い女性であったことになります。この場合六角氏が南近江の守護大名であるために、近江で誕生したことになるといえます。