土田御前とはどんな人?生涯・年表まとめ【美人説や信長との関係も紹介】

信長との関係はどうだったのか

長男の信長は、奇抜な行動と容姿により「うつけ」といわれていた

俗説として長男の織田信長を嫌っていて、次男の織田信行を可愛がっていたといわれています。信長は「うつけ」と言われ、弟の信行が品行方正という評価でした。また、土田御前は幼少から弟の信行を手元で育てています。

自分の手元で育てた信行の方が可愛かったのかもしれない

織田信長は当時の慣例で乳母に育てられましたが、次男の信行は乳母の記録が残っていないそうです。土田御前が自身の乳で育てた可能性もあるとされています。後世の想像にはなってしまいますが、気性が激しく行動や言動も理解を超えた「信長」よりも、ずっとそばで育ち品行方正な「信行」の方に愛情を持ちやすかったのかもしれません。

夫の織田信秀の死後、家督問題で家臣の柴田勝家が弟の信行を推して挙兵した為、信長軍と信行軍は稲生で戦うことになりました。この戦いは信長が勝利し末森城の城下を焼き払いますが、土田御前の取りなしにより信行が嘆願を行い、一度は許しています。

結局危険視された信行は暗殺をされてしまう

土田御前の働きかけにより、一度は命を救われた信行でしたが、数年後に不穏な動きがあり謀反の企てがあると噂されたため、結局は信長に暗殺されてしまいました。

その後土田御前は信長の庇護に入り、平穏に暮らしていたといわれています。「本能寺の変」の頃には土田御前は安土城又は、その城下町に住まわせ面倒をみていたとされます。その他にも、信行暗殺後も信長は、信行遺児の信澄を養育し重用したりもしています。その為に、信長は心の底から土田御前や信行を憎んでいたわけでは無かったと評価を受けています。

土田御前は美人だったのか?

現在、美人に描かれることが多い土田御前

「土田御前は美人だった」というイメージが現在も持たれていますが実際はどうだったのでしょうか?、容姿に関する史料は残っていないため、どうしても憶測になってしまいますが、ある程度憶測することが可能です。結論からいうと、土田御前の子供たちが男性も女性も美貌といわれていたため、やはり美人だったのではないかというのが定説となっています。

戦国一の美女といわれたお市

まず息子の織田信長ですが、当時の平均身長は160センチぐらいだったのですが、160センチ後半だったといわれるために比較的身長が高かったと伝わっています。そして妹の市も身長が高く美貌で「戦国一の美女」と評されていました。

左が宣教師の肖像画で右が従来の肖像画

そして溺愛した次男の信行も「容姿端麗」といわれていました。さらに信長の3男信孝も美男で有名だったそうなので、「織田家は美男美女ぞろい」と一般的に評されています。史料として宣教師が描いた写実的な信長の肖像画がありますが、確かに鼻筋が通った端正な顔で描かれているようです。

土田御前の功績

功績1「織田信長を含め、多くの子供の母となったこと」

孫のお江を通じて、皇室や徳川家にも「織田家」の血が受け継がれていくことになった

やはり一番の功績は、戦国の覇者「織田信長」を産んだことではないでしょうか。そして信長をはじめ多くの子に恵まれ、信長の妹、市の娘の「お江」は徳川将軍家に嫁いだ縁で、織田家の血は現在の皇室にも受け継がれています。

この時代の女性は自分の「嫁いだ家」と「実家」の血を残し、家に貢献することが大きな使命と考えられていました。そのような意味では、戦国時代に重要な役割を果たした息子や娘たちに恵まれたことは、土田御前にとって非常に名誉なことだったといえるでしょう。

功績2「面倒見の良いおばあちゃんだったこと」

幼かった孫たちの面倒を見ていたという

溺愛した息子の織田信行が暗殺されてから、土田御前は信長の元に身を寄せていました。そしてまだ小さかった信長や市の子供たち(信忠・信雄・信孝・茶々・初・江など)の面倒を見ていたといわれています。

面倒を見ていた孫の中には、市の子供の「浅井三姉妹」も含まれており、後年豊臣秀吉の側室になった「茶々」や徳川秀忠に嫁いだ「江」もいました。孫たちに囲まれて平穏に暮らしていたということですので、息子を失った悲しみはあると思いますが、安定した幸福な人生を歩んだといえるのではないでしょうか。

土田御前が残した言葉

今までの関係はともかく、実の兄なのだからお見舞いに行くように

織田信行が謀反を起こしているという情報を聞いた信長が、誅殺しようと重病のふりをした時に、土田御前が信行にいった言葉といわれています。この言葉から、織田信長は「扱いにくい嫡男」であると感じていても、「嫌い」や「憎い」まではなかったのではないかと推察されています。

土田御前の人物相関図

大河ドラマ「麒麟がくる」の人物相関図

土田御前にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「信長と亀裂が生じた織田家の事件」

領主に無礼を働いたら「無礼討ち」が行われた

土田御前が織田信長を疎んじた理由の一つに、織田信行ともう一人の弟である「織田秀孝」の死があるといわれています。織田秀孝は、1555年に庄内川付近の松川の渡しという場所で、叔父である織田信次によって、無礼討ちにあい死去する事件がありました。

詳細は、織田信次が家臣を連れて川狩りに興じていました。その時に織田秀孝が単騎で乗馬通行した為、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとした不届き者と誤解されて、信次の家臣に射殺されてしまったのです。

土田御前の息子織田秀孝は馬に乗ったまま、叔父信次の前を横切った

織田信次は、射殺された人物を見て初めて秀孝と気づき、主家である信長の報復を恐れて逃亡してしまいました。この事件で信長は、単騎で領内を通行した秀孝にも咎があるとして罪を許しました。しかし弟、信行はすぐさま挙兵し織田信次旧臣の籠る城下町を焼き払う報復を行ったといいます。

この差により一説には土田御前は、同腹の弟である「秀孝」への情よりも、領主として行動した信長を恨んだのではないかと推察されています。今となっては憶測にしかなりませんが、やはり数えで15歳程だったという実息子の秀孝の死を「事故死」として扱った信長に対して複雑な感情を抱いたのではないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「土田御前屋敷跡と伝わる場所があった!?」

土田山の山麓の宝篋印塔や五輪塔は、地元の人の間で土田屋敷跡といわれているそうだ

史実上の確証はないものの、美濃の土田山の山麓にある田の地には宝篋印塔や五輪塔が数期残っていて、土田一族の墓といわれているそうです。地元の人の間では、土田御前が生まれた屋敷跡(土田屋敷)とも伝わっているといいます。

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