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帝国主義とは?どんな思想?意味と背景、広まった原因について分かりやすく紹介

「帝国主義ってなに?誰か簡単に詳しく教えてほしい!」
「帝国主義時代の植民地競争について知りたいな。」
「なんで帝国主義になったの?背景について知りたい!」

この記事を読んでいる方はこのような疑問を持っていると思います。

帝国主義とは、19世紀から20世紀初めまでヨーロッパを中心に広まった思想です。ナショナリズムが高まり、国としての仲間意識が高まった結果、他国を侵略し多くの戦争が起こりました。結果的には第一次世界大戦や第二次世界大戦を引き起こした根本の思想と言っても良いでしょう。

本記事では、帝国主義とはなにかを説明し、広まった背景や経緯について解説します。また、主要な学者の帝国主義論や各国の動きについてもご紹介しますので、ぜひ参考にしてください。

帝国主義とは

帝国主義の意味

植民地獲得競争・再分割が頻繁に起こった

帝国主義とは、自国の利益のために他国を、政治や経済、軍事を用いて支配する思想のことです。

19世紀後半に使われた用語ですが、他国を侵略し自国を豊かにするといった考えは古代からありました。それでは、なぜ近代になって「帝国主義」という言葉が生まれたのでしょうか。

帝国主義が最初に使われたのは?

最初は学者たちが使い始めた

「帝国主義」という言葉が広まったのは1870年代のイギリスです。

ナポレオン3世による、他国への軍事的な干渉を通じた政治的な支援を説明するために使われました。また、19世紀から20世紀にかけては、列強によるアジアやアフリカの支配をさす言葉として用いられています。

帝国主義を正当化した思想

帝国主義は初め支持されていなかった

「帝国主義」という言葉が広まった当初、その言葉は否定的な意味で使われていました。しかし、時代が進むと、世界では他者の支配を良しとする風潮が広まります。

帝国主義は、生物学の概念であった「適者生存(環境に適応できたものが生き、適応できないものは滅んでいくという考え方)」などによって正当化され、文明的に劣っている国を支配することは「良心」に基づく行為とされました。

また19世紀後半は、個人の幸福よりも国の繁栄を重視する考えが多数だったため、そういった国は帝国主義を支持したのです。

主な帝国主義論

ホブスン

レーニンの帝国主義論に影響を与えたホブスン

ホブスンは1902年に『帝国主義論』を執筆し、イギリス帝国拡大を批判した経済学者です。

彼は著書の中で、イギリスの領地拡大は本来の「植民」から離れた資本輸出と市場開拓のための帝国主義と批判しました。どういうことかというと、当時のイギリスは生産過剰となっており、国内だけでは生産した商品に余りが出てしまう状況だったのです。

そこで、余ってしまった商品を外国に流すことにしました。ここまでは良かったのですが、それらの商品は外国の国力を高め、帝国主義を助長する要因になっていたのです。

そして、ホブスンはこれらの事情に関わる金融や軍事、物流の面でかかるコストを目的とする階層が、イギリス国内で影響力を持つことに警鐘を鳴らしたのが『帝国主義論』です。

ホブスンの指摘は後のレーニンの著作に大きな影響を与えました。

レーニン

社会主義革命家レーニン

レーニンは1917年に『資本主義の最高段階としての帝国主義』を出版したロシアの革命家兼政治家です。

著書でレーニンは、帝国主義とは資本主義が極まった末に行き着く結果であり、避けられない現象であると主張しました。

彼の主張を簡単に説明します。

まず、自由な商売ができる社会(少なくともその時代)では、作れば作るほど物が売れます。となると、当然たくさんの製品を作れる会社が最も利益を得られることになります。利益を得た会社がどうするかというと、よりたくさんの物を作るための投資を行うわけです。

そうするとさらに物が売れて、その利益をまた投資に使います。その企業はどんどん大きくなっていきますが、みんなが大企業になれるわけではありません。結果的にその企業が作る製品が市場を独占することになります。

市場を独占するのが企業だけなら良いのですが、ここに銀行も加わってきます。資金の融通や両替をしている銀行も独占に走り、資金の融通や簿記を通じて産業をコントロールするようになります。やがて、銀行と大企業が手を結び一体化すると、影響は経済だけに止まりません。

政治や社会を支配するようになります。

重化学工業によって発達した経済により、企業が巨大化した

こうなった社会では、上記のような大企業・銀行に勤めている人以外、つまり大多数の人間は貧困状態のままです。余った製品は海外へ輸出され、やがて製品を輸出する国を巡って資本家団体の間で世界の分割が行われるようになります。

輸出先をどんどんと獲得していく彼らですが、国は有限。それを繰り返せば誰も手に入れていない国などなくなります。しかし、各国では資本主義の発展が進んでいます。スピードはまちまちで、海外へ製品を輸出する必要が出てくる国は続々と出現するのですが、輸出先はすでにありません。

そこで後から来た資本主義の国は、他国の領土を奪うわけです。こうして、利権を得るための帝国主義的な戦争が始まります。

レーニンは以上のことから、帝国主義とは資本主義の最終段階であると主張しています。国に多大な影響を及ぼす資本家が帝国主義を支持し、労働者から富を搾取しているとし、これは本来の経済の在り方を失っていると批判しました。

そして、それらの問題は社会主義によって解決されるとも考えていました。

モーゲンソー(モーゲンソウ)

レーニンの意見に反論したハンス・モーゲンソー

ハンス・モーゲンソーは社会主義的な視点から論じられた資本主義と帝国主義の関係について否定的な立場をとったドイツの政治学者です。

レーニンが、資本家が帝国主義を助長したという意見について、モーゲンソーは歴史を見る限り、資本家は帝国主義的な戦争に賛成するどころか反対してきたと反論しました。そして、そもそも戦争は本質的に予想外の危険を持ち、資本家にとってリスクの大きい事柄であるとしました。

また、経済活動とはある程度の社会的な安定があってこそであり、軍事活動とは基本的に両立できないものです。つまり、戦争が起こってしまえば、資本家は利益を上げることが難しくなります。

以上のことからモーゲンソーは、資本主義が必ずしも帝国主義に結びつくわけではないと主張しました。

帝国主義が広まった理由・背景

帝国主義は政治・軍事・経済など多様な手段があるため、理由も多岐に渡る

帝国主義は1870年代に最も強まった思想です。そのため、狭い意味での帝国主義はこの時代の動きを指します。それでは、なぜこの時代に帝国主義が広まったのでしょうか。さまざまな理由がありますが、今回は4点に絞ってご紹介します。

国家の政治的な事情

国民としての自覚が生まれ、自尊心をみたすために他国の領地を欲した

1870年代のヨーロッパの列強諸国では、ナショナリズム(他国からの干渉を嫌い、国家や民族の統一・独立を進めようとする思想)が発展し、国として、そして1つの民族としての自尊心を満たすための拡張主義を取りました。

この流れは特にフランスが顕著で、積極的に海外へと進出していきます。これに遅れてドイツやイタリアも自国の国力が十分であると証明するために植民地獲得を目指しました。

しかし、一足先にイギリスとフランスが有望な植民地を獲得していたため、ドイツとイタリアは2国が進出していなかったエリアへと手を伸ばしました。

こうした列強諸国の動きは、今まで存在していた非ヨーロッパ人へのキリスト教布教と簡単に結びつきます。列強諸国の侵略は、宣教師たちにとってキリスト教を広めやすい環境を与えました。そのため、彼らの侵略を歓迎する風潮が現れ始めました。

こうした事情があり、帝国主義の手は広まっていったのです。

借金による経済的な進出

後進地域にお金を貸して、金銭的に頼らざるを得ないようにした

帝国主義と言えば、戦争による領土奪取というイメージがありますが、実は経済面での侵略といった手段も取ります。

経済的な帝国主義の事情として、産業革命によって生産過剰となった製品の市場確保や原料確保が挙げられますが、それは一部分だけで全部が全部そうとは言えません。

実は、植民地化が最も進んだ1913年の主要な植民地であったアフリカ・インドの世界貿易割合は両方とも3.5%です。対して、同時代のヨーロッパ諸国やアメリカの貿易総額は全体の72.4%であり、市場確保という観点から見ると、植民地の大半は経済的に重要でなかったと見て取れます。

むしろ経済は、侵略の理由ではなく手段として用いられるのが大半でした。後進国に対して、列強諸国はお金を貸していました。オスマン帝国や清などの旧帝国は財政難に陥り、それを乗り切るために他国のお金を頼ったのです。

そのため、資金源である列強諸国に対し頭が上がらなくなり、関税自主権の喪失など利権の供与や譲歩を受け入れざるを得ません。こうして、戦争することなく経済的に他国を従属させていったのです。

3B政策・3C政策による交通進出

鉄道を作り、他国への道を確保しようとした

列強諸国の侵略は軍事・経済だけでなく、鉄道敷設によっても行われました。

国は、アフリカなどの後進地域に鉄道を建設していきました。特に有名なものとして挙げられるのが、ドイツの3B政策とイギリスの3C政策です。

まずドイツの3B政策ですが、これはベルリン・ビザンティウム・バグダードを鉄道で結ぶ政策です。この政策は鉄道建設につきものの線路沿いの港湾整備や産業・工業を通じて近東に投資し、自国の経済圏へ取り込んでしまうことを目的とした物でした。

しかし、3B政策の延長線上に、イギリスの重要拠点であるインドが入ることや、スエズ運河の重要性が低くなり利益が減ってしまうことを嫌がったイギリスの3C政策と対立します。

イギリスの3C政策とは、これはカイロ・ケープタウン・カルカッタを鉄道で結びアフリカ大陸の南と北両方からインドへの道を確保しようとした政策です。こちらの政策は他国と対立することもありましたが、その度に妥協を引き出し、なんとか成功します。

しかし、19世紀末に前述したドイツの3B政策と衝突。これまでと同様に妥協を引き出せず、ヨーロッパに「三国協商」対「三国同盟」という図式を作りだし、第一次世界大戦の土壌を整えてしまいました。

技術の発展により侵略が容易に

医学と軍事力の発展により、熱帯地域への進出が可能になった

以前まで、ヨーロッパ諸国は熱帯地域での軍事行動が困難でした。熱帯地域では疫病が蔓延していたからです。

しかし、医学が発展したことにより、疫病で命を落とす人が減りました。そのため、今までは難しかった熱帯地域での大規模な軍事行動が可能になったのです。これはアフリカへの侵攻のハードルを下げ、アフリカの植民地化を進める一要因となりました。

また、産業革命や科学の発展は武器をより強力にし、ヨーロッパ諸国の軍事力を増大させました。また、経済の急成長も国力を押し上げ、後進地域との力の差をさらに広げました。これにより、他国への侵略にコストが掛からなくなり、帝国主義思想はより広がったのです。

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