一休宗純とはどんな人?生涯・年表まとめ【逸話や名言、女性関係も紹介】

「一休宗純ってあの有名な一休さんの事?」
「どんな人物だったの?」
「頓智(とんち)が有名な人だよね」

一休宗純は、室町時代の禅宗の僧侶です。「一休さん」というと、有名なアニメがあるのでそのイメージが先行してしまう人も多いようです。

アニメの「一休さん」は世代を超えて親しまれている
出典:Wikipedia

実際の一休宗純は頓智も有名ですが、仏僧としても多くの功績を残しています。少し癖のある人生を送っていますが、それは全て仏道への熱意から取る行動と言われているほどです。

この記事ではそんな一休宗純を、アニメの「一休さん」が大好きで一休宗純に興味を持ち、沢山調べてきた筆者が紹介していきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

一休宗純とはどんな人物か

名前一休宗純
誕生日1394年2月1日
没日1481年12月12日
生地京都
没地京都府京田辺市
宗旨臨済宗
宗派大徳寺派
後小松天皇
日野中納言の娘・花山院某の娘・楠木正成の孫説など
埋葬場所酬恩庵

一休宗純の生涯をハイライト

一休宗純

一休宗純の生涯を簡単にダイジェストします。

  • 1394年 京都で生まれる
  • 1400年 安国寺の像外集艦(ぞうがいしゅうかん)に入門し「周健」と名づけられる
  • 1410年 謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を「宗純」と改める
  • 1414年 自殺未遂を起こす
  • 1415年 高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、道号を「一休」とする
  • 1420年 悟りを開く
  • 1474年 大徳寺の住持となる
  • 1481年 マラリアにより死去、享年88歳

一休宗純の生まれと名前の由来とは?

一休宗純は数奇な生い立ちだった

一休宗純は、後小松天皇の皇子だったといわれています。母ははっきり分かっていませんが、南朝の貴族である、日野中納言の娘や花山院某の娘、楠木正成の孫という説が有力です。帝の命を狙っているとの誹謗によって、宮中を追放されてしまい、京都の嵯峨で一休を産みました。

「親王宣下」を受けることなく、宮中を退いているので一休宗純は「御落胤」扱いとなっています。こうした母の悲運と自身の数奇な生い立ちは、一休宗純の生涯に少なからず影響を及ぼしたと考えられています。6歳の時に安国寺にて出家し、戒名「宗純」を与えられました。一説によると母が南朝方の家臣の娘の為に、幕府に対しての体面を考えての出家だったともいわれています。

一休宗純は、現世は仏の世界への「一休み」をしているところだと答えたという

当初は「周建」と名づけられた一休宗純ですが、1415年に「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と、師である華叟(かそう)和尚に答えたことから「一休」という道号を授けられました。この言葉の意味は、「この世は迷いから悟り(仏)の世界への一休みのようなものだ。雨が降るなら降るがよい。風が吹くなら吹けばよい」といった意味で、この世を一休みしているという表現に因んだものでした。

頓智(とんち)で得意な僧だった

アニメでも虎の話は有名

一休宗純は、頓智が得意で有名でした。後世に語り継がれる頓智話は創作も多いのですが、史実に基づいたものもあります。特に有名なのは、将軍「足利義満」を遣り込めた「虎退治」の話ではないでしょうか。

一休の頓智が得意という話に興味をもった足利義満が、当時8歳の一休を和尚と共に金閣寺に呼んでいます。金閣寺で謁見した一休に、将軍は「屏風の虎を縄で縛れ」と難題をふっかけます。対して一休は「虎を縛りますので、まずは虎を追い出してください」と言い返すのです。これを聞いた将軍足利義満は、「噂通りの賢い奴だ」と感心したという話が伝わっています。

厳しい修行を行い悟りを開いたこと

一休宗純は非常に厳しい修行を経て悟りの道を開いた

一休宗純は非常に厳しい修行を乗り越えて、仏の悟りを開いた僧侶でした。一休の存在は、当時の仏教界に一石を投じることとなったのです。

次第に仏教界のあり方に疑問を持つようになっていく

仏教界でも権力争いが頻繁におこなわれていた

一休が活躍した室町時代は、住職になるためには幕府にお金を納めねばならず、修行よりもお金や地位を求める僧侶が多くいました。しかし一休は次第に、「仏教の教えと違うのではないか」という疑問を抱くようになったといいます。仏教の教えは「お金や地位で幸せになれない」というものだったからです。

そして処世術に力を入れる周りの僧侶への違和感を押さえられなくなり、17歳の時に裕福な安国寺を去って、西金寺という寺に入門することになりました。

西金寺で修行を積む

悟りが開けないことを苦悩した一休は自殺未遂をするほどだった

西金寺は幕府の保護が無いので、択鉢で生活をする貧しい寺でした。そこで厳しい修行を積みますが、師である謙翁和尚が病気がちになると、択鉢をしながら薬を貰うという生活を続けていました。そんなある日謙翁和尚が、「自身が死んだら、大徳寺の華叟宗曇(かそううどん)を頼りなさい」と一休に伝えます。

謙翁和尚は「純粋禅を受け継いでいるのは大徳寺の華叟宗曇ただ一人」と評していました。やがて謙翁和尚は一休が21歳の時に亡くなり、自暴自棄になった一休は、石山観音に籠るものの悟りが開けないことに苦悩し、川に身を投げようと自殺未遂を起こしています。一休の仏教への熱意が分かるエピソードです。

大徳寺の入門を許される

一休は大徳寺の前で雪の中6日間座り込み続けたという

一休宗純はその後、華叟宗曇(かそううどん)の元を訪れますが、入門を断られます。しかし一休は諦めずに雪の中を五日間、門の前に座り込み続けました。6日目に華叟和尚が外出しようとすると、一休がまだ座っていたために弟子に水をかけて追い払うように命じています。

本当に水をかけられても、雪の中座り込んでおり、華叟和尚が外出先から帰ってくると再度弟子入りを願い出ました。そこで遂に根負けした華叟和尚が入門を許したというエピソードが残されています。

遂に仏の道を悟る

華叟和尚の元で、とても厳しい修行を積んだという

大徳寺の華叟和尚の元で修行を始めた一休は、択鉢と内職を行いながら修行に打ち込みます。華叟和尚と公案(禅宗の修行における謎かけ)を出され、その答えを見つけるために6年間厳しい修行を積みまました。そして一休が26歳の時、琵琶湖に小舟を浮かべて夜通し座禅を組んでいると、真っ暗な中で鳥が鳴く姿を見ます。それを聞いた時に遂に悟りが開けたのでした。

このことを華叟和尚に話すと、修行の終了証「印可」を授けられますが一休は辞退しています。実に仏門に入ってからちょうど20年で、他の僧侶よりも特に厳しい修行を経て、悟りを開くに至ったのです。

一休宗純の性格が分かる逸話

終了証である「印可」を火に投じてしまったという

一休宗純の性格は真面目で几帳面ですが、行動は破天荒で周囲を驚かしました。しかし、破天荒な行動も、実は仏教に基づいた行動がほとんどです。エピソードとして、

「印可」の証明書や由来ある文書を火に投じた
正月に杖の頭に髑髏(どくろ)をしつらえ、「ご用心、ご用心」と歩いた

などです。こうした奇抜な行動は、禅宗の教義における「風狂」の精神から来ているといわれています。「風狂」とは元々中国仏教から伝わったもので、禅宗で特に重要視されました。戒律を外した行動を取ることによって、それさえも悟りを開いているという考え方が元になった行動でした。

髑髏を杖に刺して正月に練り歩いたという

一休が真面目な性格だったことは、自身の禅風の法語「七仏通誡偈」で窺い知ることができます。これは一休の仏の教えを解いた法語であり、いかに仏道への道の造詣が深かったかが分かる書として現在も伝わっています。

一休宗純の「著書」と「書」

非常に能書家であり、一休の真面目な性格がにじみ出た書体である

一休宗純は多数の詩を残し、能書家でも知られました。一休が書いた茶の間の墨蹟が極めて珍重されたといわれています。また詩集も多く残されており、代表作品は以下になります。

  • 狂雲集
  • 続狂雲集
  • 自戒集
  • 骸骨
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