一休宗純の功績
功績1「『風狂』の僧として活躍したこと」
一休宗純は、一見風変わりな行動をとっていましたが、その実は「当時の仏教界」に対しての形骸化を痛烈に批判する意図がありました。一休宗純が生きた時代は、幕府が寺院を管理し住職になるためにはお金を納めないといけませんでした。
結果修行よりも、地位や権力を欲する僧侶が増えていました。一休はそのような仏教界を憂い自身は幕府の庇護を受けず、択鉢や内職を行い貧しい生活を送り、人間の有りのままを見ようとしたのです。晩年に天皇の勅命を受けて、「大徳寺」の住職になりますが、自身は大徳寺に住まずに自身の庵に住み続けています。
若い時に一休の出生のコネを使えば、厳しい修行を踏まずとも大きい寺院の住職になることも可能でした。しかし敢えてそれをせず、真に仏教というものに取り組んだ人物といえるでしょう。
功績2「『とんちの一休さん』と親しまれたこと」
一休宗純が有名になったのは、江戸時代に「一休咄」という本が出たのがきっかけといわれています。この本の影響で、「一休さん」の愛称で親しまれるようになったのです。昭和の中頃まで、絵本の童話の題材や紙芝居の題材としてよく用いられていました。特に、屏風の虎退治などの話は有名で、絵本や紙芝居でも多く題材とされています。
「一休咄」の内容は、幼少期に頓智で和尚や将軍・足利義満を遣り込め厳しい修行を積み、名僧になったというものです。実際の頓智話には、一休宗純の事績の他にも、民間伝承や他の高僧の話などもまざったフィクションですが、何時しか一休宗純の頓智話として定着していきました。
そして長らく、子供向けの話の主人公として親しまれることとなったのです。これは一休宗純の戒律や形式に囚われない人間的な生き方が、民間の共感を得たのが要因ではないかと分析されています。
一休宗純の名言
袈裟が有り難く見えるのは、在家の他力本願
僧侶が付けている「袈裟」をありがたがっているのは、他力本願の象徴だという言葉です。仏の心は僧侶に求めるのではなく、自身で見出さないといけないという考えに基づいているといわれています。
正月は、冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし
有名な言葉です。正月をめでたいと皆祝うけれども、冥土の旅路に一年近づいたことではないかという意味です。めでたくもあり、めでたくもないと言っていたといいます。
生まれては、死ぬるなり。釈迦も達磨も、猫も杓子も
人間は、誰しも生を受ければ死も待っている。皆平等に訪れるという心でしょうか。確かに貴賎も動物も関係なく「死」は平等に訪れるものです。
一休宗純にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実は破戒僧だった!?」
一休宗純は、いわゆる「破戒僧」でした。男色を好み、仏教戒で禁じられている飲酒や肉食・女犯を犯しています。盲目の女性の森侍者という妻や、岐翁紹禎という実子の弟子がいたといいます。その他にも阿弥陀如来を枕にして寝ていたという話もあります。
また、木製の刀身の朱鞘の太刀を差した風変わりな格好で街を歩いていたといいます。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということを、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされています。
これらの行動の裏にも、当時の仏教界の批判と足利将軍家の批判が含まれていました。堂々と将軍家を批判してもお咎めがなかったのはやはり「天皇の御落胤」だったことが大きかった考えられています。この「破戒僧」行動に民衆は呆れつつも、権力を堂々と批判する一休宗純に人気が集まった理由といえるでしょう。
都市伝説・武勇伝2「蜷川新右衛門は実在した!?」
一休宗純と交友が深い人物に、蜷川親当という武将がいました。この武士の通称が「新右衛門」だったといわれ、アニメの「新右衛門さん」のモデルになったといわれています。
実在の蜷川新右衛門は、室町幕府の政所執事である伊勢氏の使える武士だったといいます。アニメの設定のように「寺社奉行」の役人ではないですが、和歌を嗜み連歌会によく参加したといわれ、一休と交友深かったそうです。