ルネ・マグリットにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「絵画との出会いは墓地だった」
画家として生涯を送ることになるルネ・マグリット。少年時代のマグリットは、弟と盛んに悪戯を繰り返す悪童でしたが、絵を描くことにだけは関心が強かったと言われています。その絵画との出会い、さぞ印象的だったのだろうと思われますが、出会いの場所はなんと墓地でした。
ある日、幼馴なじみの女の子と墓地で遊んでいたルネ・マグリット。地下納骨堂の扉をあけて地上に出ると、目に飛び込んできたのはイーゼルを立てて絵を描く画家の姿でした。マグリットはその絵をみて、画家には人を魅了する特別な何かがある、と考えたのでした。
都市伝説・武勇伝2「顔の覆いは亡き母の死の記憶」
若き日のルネ・マグリットが遭遇した重大事件、それは愛する母・レジーナの死でした。重い神経衰弱を患っていたレジーナは、1912年2月24日にサンブル川に身投げをし、3月12日に遺体となって発見されます。発見時レジーナの顔はナイトガウンで覆われていた、ということを後にマグリット自身がルイ・スキュトネールに語っています。
顔の見えない人物を多く描いたマグリット。代表的な作品に「恋人たち」があります。顔を布で覆うまま抱き合い、口づけをする男女。死とエロスを結合させた作品として知られていますが、描いたマグリットの胸中にあったのは、少年時代の遭遇したこの事件の名残だったのかもしれません。
都市伝説・武勇伝3「一途で几帳面な愛妻家」
画家や芸術家といえば派手な外見や奔放な私生活といったイメージがつきものですが、マグリットほど地味な画家も少ないのではないでしょうか。ダーク系のスーツに山高帽がトレードマークのマグリットは、毎日コンスタントに絵を描き続けました。絵を描くときにもスーツ姿のマグリット、几帳面さが伺えますね。
マグリットが14歳の時に出会いそのまま初恋を実らせて結婚した妻・ジョルジェットと生涯を添い遂げといった一途な面も。ジョルジェットは単に絵画のモデルとなるだけでなく、マグリットの描く世界にも影響を与えています。戦時下で一時的に離れた折には、人を介して「最期まで愛していた」と伝言を頼むほど、マグリットは愛妻家だったようです。
ルネ・マグリットの生涯年表
1898年 – 0歳「マグリット、ベルギーに生まれる」
マグリットの少年時代
1898年11月21日、マグリットは仕立屋と行商で生計をたてる父レオポール・マグリットと母・レジーナ・ベルタンシャンの長男として誕生しました。はじめに住んでいた町はエノー州レシーヌでしたが、2歳の頃にジリーに、6歳の頃にはシャトレに移住します。この期間には、レーモン、ポールと弟2人が誕生しました。
1912年マグリット14歳になるこの年の2月24日、母・レジーナは寝室を抜け出し、サンブル川に投身自殺を図ります。3月12日の朝、顔をナイトガウンで覆われ変わり果てたすがたとなって発見されたレジーナ。この事件はながくマグリットの心にとどまることになりました。
のちの妻・ジョルジェットとの出会いと別れ
1913年、マグリットは父と弟2人と一緒にシャルルロワに移住しています。この年のシャルルロワの祭に参加したマグリットは、そこでのちの妻となるジョルジェットと出会いました。マグリット14歳、ジョルジェット12歳、2人は一緒にメリーゴーランドに乗りますが、この時点では交際には至っていません。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、一家はシャトレに移住します。ジョルジェットとも離ればなれとなります。翌1915年にはブリュッセルで一人暮らしをはじめました。この時期のマグリットは印象派風の作品を描き残しています。
1916年 – 18歳「王立アカデミーに入学、本格的に画業の道へ」
王立アカデミーがマグリットの世界を広げる
1916年にマグリットは王立アカデミーに入学、一家がブリュッセルに移住します。アカデミー在学中には未来派や抽象派、キュビズム、ピュリスムとさまざまな新しい絵画に出会いを重ねています。1919年に詩人のピエール・ブルジョア、E.L.Tメセンスらに出会ったこともこうした出会いのきっかけとなりました。
1920年、マグリットはジョルジェットと運命的な再会を果たします。マグリットは画学生、ジョルジェットは画材店員となっていました。7年という空白期間を超えてふたりを結びつけたものは、やはり絵画だったのです。
結婚し、本格的に画業に就く
1921年から1年間の兵役に就いたマグリット。兵役を終えた翌1922年、ついにジョルジェットと結婚します。マグリット22歳、ジョルジェット20歳の夫婦となりました。マグリットは生計を立てるため壁紙デザイナーやポスター・広告デザイナーとしての仕事を請け負うようになります。
20代半ばから後半にかけて雑誌の発刊や初の個展など画家としての活動を本格化させています。この頃、友人のメセンスと1925年に雑誌『食道』を、1926年に雑誌『マリー』を発刊しました。またこの時期に初のシュルレアリスム作品「迷える騎手」を制作しています。1927年には拠点をパリに移し、アンドレ・ブルトンらシュルレアリスム画家たちとの交流をもちました。
1928年 – 30歳「パリでの挑戦と父の死を乗り越え、各地で個展をひらく」
パリでの挑戦と父の死
1928年8月、マグリットの父・レオポールが亡くなります。マグリットを常に応援し、支え続けてきた父。その死はマグリットの心に大きな虚無感を生みました。またシュルレアリスム画家としての大成を期して移ったパリにおいても、マグリットは十分な評価を得ることができず、むしろパリのシュルレアリスムを代表する画家アンドレ・ブルトンと仲違いをしてしまいます。1930年、マグリットはパリでの挑戦を終えブリュッセルに戻ったのでした。
各地で個展をひらく
1930年、マグリットは弟ポールとデザイン事務所「スタジオ・ドンゴ」を設立します。以降、並行してマグリットは制作を続け、各地で個展を開いていきます。また、この時期は「イメージの詩学」から「問題と解答」へと方法論を深化させています。
- 1928年:ブリュッセル(レポック画廊)にて個展
- 1930年:パリ(グーマンス画廊)のシュルレアリスム・コラージュ展に参加
- 1933年:パリ(ピエール・コル画廊)のシュルレアリスム展に参加
- 1936年:アメリカで初の個展、ロンドンの国際シュルレアリスム展に参加
- 1938年:パリの国際シュルレアリスム展に参加、ロンドンで個展を開く