ピカソとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、作品、名言についても紹介】

パブロ・ピカソ(1881-1973)はスペインのマラガで生まれ、フランスにて制作活動を行った芸術家です。

油絵、素描(白黒のみで描かれた完成形のデッサン)、版画、彫刻など、総計で生涯におよそ14万以上の作品を世に送り出し、その功績から多くのメディアで「最も多作な芸術家」だと言われています。実際その作品数はギネス記録にも認定されました。

パブロ・ピカソ

そんなピカソですが、どんな人物だったのか、どんな生涯を送ったのかなど彼自身について知らない人も多くいますよね。

そこで、今回は最も多作な芸術家とうたわれたピカソの生涯を年表にまとめつつ、性格や有名作品・死因なども紹介します

この記事を読みピカソの人柄を知れば、彼の作品も一味違って見えますよ。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ピカソとはどんな人物?

名前パブロ・ディエゴ・ホセ
・フランシスコ・デ・パウラ
・ファン・ネポムセーノ
・チプリアーノ・デ・ラ
・サンティシマ・トリニダード
・ルイス・イ・ピカソ
通称パブロ・ピカソ
誕生日1881年10月25日
生地スペイン マラガ市
没日1973年4月8日(91歳)
没地フランス南部 ニース
配偶者オルガ(1955年没)
ジャクリーヌ・ロック
埋葬場所スぺイン ヴォーヴナルグ城

ピカソの生涯をハイライト

スペイン出身の芸術家パブロ・ピカソ

まずはピカソの生涯を簡単に解説しましょう。

1881年、ピカソはスペイン南部に位置するアンダルシア地方のマラガで生まれます。そして、11歳の頃に美術学校に入学し、美術教員であった父の指導を受けながら多くの作品を生み出しました。

しかし、新たな内容を学ぶことができない学校教育に対して不満を覚え、1897年には中退して独学の道を選びます。

1899年、ピカソはスペインのバルセロナを拠点とし、フランスのパリと行き来しながら数々の個展を開催して注目を集めます。そして、1907年に描いた「アビニヨンの娘たち」をきっかけに、ピカソは現代美術における潮流の1つであるキュビズムを確立し始めました。

プロトキュビズムの時代の頃のピカソ

その後、新古典主義や超現実主義など様々な芸術風潮に関心を抱き、ピカソは多くの作品を残していきます。しかし、1936年にスペイン内戦が勃発し、翌年にはナチス・ドイツによるゲルニカ無差別爆撃が発生。これを受けて、ピカソはドイツ空軍によるゲルニカ爆撃を強く非難し、反戦を主張する壁画「ゲルニカ」を描きました。

晩年、ピカソは過去の巨匠たちが遺した作品をオマージュした絵画や、それまで自身が培ってきた作風を混合させた彩り豊かで力強い絵を描いていきました。

そして、1973年にフランス南部の都市ニース付近に位置するムージャンの自宅で死去します。しかし、彼は亡くなる直前まで創作活動を続け、画家として最後まで時代の最先端を走っていたのです。

ピカソの生い立ち

ピカソはスペイン最南部の港町「マラガ」で生まれる

ピカソはスペインの最南部にある港町「マラガ」でピカソ家の長男として生まれました。父は美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペスです。幼少期は父から絵を学んだと言われています。

ピカソの本名はなぜ長い?

ピカソの本名は非常に長いことで有名。本名は、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」です。

なぜこれほど長いのかというと、キリスト教の洗礼名と、血縁関係の名前を複雑に混ぜているからです。

後半の「ルイス・イ・ピカソ」は父方と母方の姓を合わせたものです。しかし故郷スペインのマラガ市では「ルイス」がありふれた姓だったので、画家になったピカソはルイスを省き「パブロ・ピカソ」と名乗るようになりました。

ちなみにこの長い本名はピカソ本人も覚えきれていなかったらしく、その影響からか歴史書やインターネットでも多少違う名前、順序で説明されることがあります。

反体制思想を持つ共産党員だった?

平和に貢献した共産主義者に贈られるレーニン平和賞のメダル

平和主義者であったピカソは、戦時下のスペインにおいて左翼的な反体制思想の立場をとっていました。そして、特に独裁的な権力に対しては強い反抗の意思を持っていたのです。

第一次世界大戦、第二次世界大戦の際には、スペイン人であるピカソは両大戦に積極的なかかわりを持つことはありませんでした。しかし、1936年に始まったスペイン内戦では、ゲルニカ爆撃を行ったナチス・ドイツとフランコ将軍が率いる右派反乱軍と激しく対立しました。

その結果、スペインにフランコ政権が成立した後に、ピカソはスペインから追放されてしまいます。そして、1944年にフランス共産党に入党。共産党員として活動を続けていたピカソは、ソビエト連邦がノーベル平和賞に対抗して創設した賞である、スターリン平和賞やレーニン平和賞を受賞しました。

その後、彼は死ぬまで共産党員であり続けたのです。

ピカソの死因は「急性肺水腫(はいすいしゅ)」

ピカソはユーモアに富んだ人物だった

ピカソは91歳、1973年4月8日に「急性肺水腫」が原因でこの世を去りました。死因となった「急性肺水腫」は、肺胞に水が溜まって呼吸困難になる病気です。

呼吸ができず苦しんでいる姿を、当時の妻ジャクリーヌが発見し、医者を呼んだものの助からなかったそう。彼は亡くなる半年前からアトリエに籠って制作活動に没頭しており、死ぬ間際まで作品の発想が途切れないほど元気だったと言われています。

ピカソの有名絵画・作品

ピカソは、91歳までの生涯で、油絵、素描、版画、彫刻など総計でおよそ14万以上の作品を世に送り出しました。

その中でも特に有名になっているいくつかの絵画・作品を紹介していきます。

アビニヨンの娘たち(1907年)

キュビズム革命のきっかけとなった「アビニヨンの女たち」

「アビニヨンの女たち」とは、1907年にアフリカ彫刻に興味を惹かれたピカソが描いた絵画作品です。この絵画では、バルセロナのアビニヨ通りにある売春宿の風景と5人の売春婦の姿が描かれています。

現在、この作品は近現代専門美術館であるニューヨーク近代美術館に所蔵されています。1929年に開館したこの美術館は、近現代美術の発展と普及に大きく貢献してきたことで知られており、「ザ・モダン」と呼ばれました。

また「アビニヨンの女たち」は、ピカソが創始した芸術風潮であるキュビズムの始まりのきっかけでもあります。

この作品は、プロトキュビズムの時代に描かれたものであり、ここから分析的キュビズムの時代、総合的キュビズムの時代へと移り変わっていくのです。

ゲルニカ(1933年)

ピカソが描いた壁画「ゲルニカ」のタペストリー

「ゲルニカ」とは、内戦下のスペインにおいてナチス・ドイツが実行したゲルニカ無差別爆撃をテーマとしてピカソが描いた作品です。この作品では、泣き叫ぶ女性や子供の遺体などが描かれており、後世において反戦・抵抗のシンボルとされました。

この作品を描いた後、ピカソが居住していたパリはドイツ軍によって占領されてしまいます。その際に、ドイツ国防軍の将校たちは、彼に対して「ゲルニカを描いた人物はあなたですか」と何度も問いました。

そして、それに対してピカソは「いいえ、あなたたちだ」と答えたそうです。この言葉から、彼のナチス・ドイツに対する怒りが伝わってきます。

1992年以降、「ゲルニカ」はスペインのマドリードにあるソフィア王妃芸術センターに展示されています。それ以前は、中世からの傑作が並ぶプラド美術館が所蔵していましたが、ピカソの作品は近現代美術に分類されるため、ソフィア王妃芸術センターへ移送されることになったのです。

泣く女(1937年)

テート・モダンが所蔵している「泣く女」

「泣く女」とは、1937年に愛人のドラ・マールをモデルにして描かれた作品です。この絵画作品は、様々な作風で描かれており、100種類以上のバリエーションが存在しています。

複数存在するバリエーションのうち、最も有名な「泣く女」を所蔵しているのが、ロンドンの国立近現代美術館であるテート・モダンです。そして、同名作品がオーストラリアのビクトリア国立美術館にも展示されています。

また、ピカソの代表作「ゲルニカ」には「泣く女」が描かれており、作品内の他の部分においても共通の特徴がいくつか見られるのです。この2つの作品は、どちらも1937年に発表された作品であり、相互の関連性が強いためであると言われています。

朝鮮の虐殺(1951年)

信川虐殺事件をモチーフに描いた「朝鮮の虐殺」

「朝鮮の虐殺」とは、朝鮮戦争下の北朝鮮において発生した信川虐殺事件の影響を受けたピカソが1951年に描いた作品です。

この事件は、国連軍が人民を虐殺した犯罪であると北朝鮮側は主張していますが、実際の加害者が何者であったかについては未だに明確にはわかっていません。

実は、「朝鮮の虐殺」はスペイン最高峰の画家であるフランシスコ・デ・ゴヤが描いた「マドリード、1808年5月3日」や、19世紀のフランスの画家エドゥアール・マネが描いた「皇帝マキシミリアンの処刑」と同じ構図で描かれています。この頃のピカソは、過去の巨匠たちの作品をアレンジした絵画を描くことが増えていたのです。

現在、この作品はパリにあるピカソ美術館に収蔵されています。

また、アメリカ合衆国の音楽家であるフレディ・ハバードとイルハン・ミマールオールが、ベトナム戦争中に起きたソンミ村虐殺事件を題材にしたアルバム「Sing Me a Song of Songmy」を発表した際に、「朝鮮の虐殺」がアルバムジャケットに使用されました。

ピカソが残した名言

I do not seek, I find.
私は捜し求めない。見出すのだ。

パブロ・ピカソ

Good artists copy, great artists steal.
優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。

パブロ・ピカソ

Love is the greatest refreshment in life.
人生で最もすばらしい癒し、それが愛なのだ。

パブロ・ピカソ

People want to find a meaning in everything and everyone. That’s the disease of our age…
人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ。

パブロ・ピカソ

He can who thinks he can, and he can’t who thinks he can’t. This is an inexorable, indisputable law.
できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である。

パブロ・ピカソ

I paint objects as I think them, not as I see them.
私は対象を見たままにではなく、私が思うように描くのだ。

パブロ・ピカソ

I don’t believe the subject as a thing. I believe in a theme expressed using symbols. Goya does it on May 3rd. For a long time there was also the expression of death with the skull.
私はものとしての主題は信じない。信じるのは、象徴を用いて表現されたテーマだ。ゴヤは「5月3日」でそれをやっている。ずっと昔から、頭蓋骨で死を表現するというのもあった。

パブロ・ピカソ
1 2 3

9 COMMENTS

コメントを残す