ピカソの功績
功績1「キュビズムを創始して現代美術史に革命を起こした」
ピカソの功績としてまず挙げられるのが、現代美術の風潮の1つであるキュビズムを画家のジョルジュ・ブラックと共に創始したことにあります。このキュビズムの始まりは、現代美術史に革命を起こしました。
キュビズムとは、多数の角度から見た対象物の形を1つの平面上に収める作風です。それまでの絵画では、1つの視点から見た対象物を具体的に描くことが基本でした。そのため、キュビズムは非常に斬新であり、多くの人を驚かせたのです。
当初、この作風は民衆にはあまり受け入れられず、醜い作品であるとして非難を浴びることもありました。しかし、キュビズムの新鮮で奇抜な作風は、多くの画家の興味を引くことになり、多数の追随者を生むことになったのです。
功績2「反戦活動を行った平和主義者だった」
代表作「ゲルニカ」で有名なピカソは、反戦活動を行った平和主義者としても知られています。画家であったピカソは、反戦の意思を自身の絵画や壁画によって主張したのです。
1937年、内戦中であったスペインにおいて、田舎町であるゲルニカがドイツ空軍の遠征隊「コンドル軍団」による空爆の被害を受け、数多くの犠牲者を出しました。このゲルニカ爆撃は、ナチス・ドイツによる無差別攻撃だったのです。
そして、当時パリに住んでいたピカソは、非人道的なゲルニカ爆撃を非難し、壁画「ゲルニカ」を創作しました。
また、ピカソは朝鮮戦争中に発生した信川虐殺事件を主題に「朝鮮の虐殺」という作品も描いています。信川虐殺事件とは、国連軍が北朝鮮の住民を虐殺したとされている事件です。
このように、彼は絵画や壁画を通して戦争の悲惨さを訴えていたのです。
功績3「現代も高評価を受ける作品を生み出した」
晩年まで創作活動を続けていたピカソの作品は、現代においても高い評価を受けています。そして、様々な作風で数多くの絵画や銅像を残した芸術家である彼の作品は、世界中の美術館に飾られているのです。
ピカソの絵画は競売にもかけられており、世界中の収集家や大富豪によって高額取引が行われています。そして、オークションにおける落札額は年々増してきているのです。
2000年代初頭、「パイプを持つ少年」が約118億円で取引されて最高額を記録しましたが、2015年には「アルジェの女たち(バージョン0)」が約215億円で取引され、さらに上の金額を記録しました。
また、ピカソの名が付く美術館はフランスやスペイン、ドイツ、スイスなどに10カ所以上存在しています。それらの美術館では、ピカソの作品を中心とした多くの現代美術作品を見ることが可能です。
ピカソにまつわる逸話
逸話1「ピカソは9人の女性と関係を持ったクズ男だった」
ピカソは女性関係にとても奔放だったことで有名です。2度の結婚をしており、妻や愛人との間に4人の子どもを授かっています。死ぬまでにできた愛人の数は、ハッキリわかっているだけでも7人です。
ピカソと女性に関する逸話は書ききれないほどあるのですが、中でも6人目の相手「マリー」を口説いたエピソードは強烈です。デパートにいたマリーに一目ぼれしたピカソは、初対面にも関わらず腕を掴み、「君の絵を描きたい。私はピカソだ」と告白したそうです。非常に自信家だったことが女性には魅力的に映ったのかもしれませんね。
逸話2「ピカソは”モナリザ”を盗んだ容疑で逮捕された」
ピカソは30歳のころ、レオナルドダヴィンチの「モナリザ」をルーヴル美術館から窃盗した罪で逮捕されました。逮捕の理由は、過去に知人からルーヴルで盗んだ彫刻を受け取ったことがあり(後日盗品と気付いたピカソは返品している)、その記録が残っていたから。
ただ、この事件はあくまでピカソが容疑者としてマークされたに過ぎず、実際は証拠不十分で不起訴となりました。後日ルーヴル美術館の塗装職人が本当の犯人として逮捕されています。
逸話3「ピカソの絵を見分けられるハトを訓練した教授がイグ・ノーベル賞を受賞した」
ピカソ本人はノーベル賞を受賞していませんが、ピカソとモネの絵を区別することができるハトを訓練した、心理学者の渡辺茂教授がイグ・ノーベル賞を受賞しています。
この実験の成功により、ハトはピカソの特徴的な画風を認識することが可能であることがわかったのです。
イグ・ノーベル賞とは、人々を笑わせ考えさせた業績に対して与えられる、1991年に創設された賞です。しかし、この賞はノーベル賞のパロディであり、ジョークとして扱われています。
ピカソの簡単年表
ピカソはスペインのアンダルシア地方マラガ市にて誕生しました。顔は母に似ているとされ、体系的にも非ヨーロッパ的であったそう。
父親の転勤の影響で、生まれ故郷マラガとは遠く離れた「バルセロナ」に移住します。美術学校にも通いますが、ほとんどの技術は学校ではなく父親からの教えと独学で覚えたとされています。
わずか15~6歳にして、大作『科学と慈愛』がマドリード開催の国展で佳作に選ばれ、同時にマラガの展覧会で金賞を受賞。ピカソにとって最初の成功体験となりました。
バルセロナのカフェで出会った画家の「カサヘマス」と、共同のアトリエを持つほど仲良くなったピカソ。彼と連れ立ち、芸術の都市パリへ初訪問します。
パリのラファイエット通りにある小さなギャラリーで、正式には初となる個展を開催。この年が「青の時代」の始まりだとされています。青の時代とは、ピカソ芸術観の変化を示した時代区分の1つです。
25歳の時、キュビズムを用いた初めての大作「アビニヨンの娘たち」を制作します。以後キュビズム革命の発端となった作品として知られるようになりました。
ピカソより10歳年下のオルガと結婚。第一次世界大戦期に、ロシア・バレー団という演劇団の舞台芸術を手伝った際に出会いました。
スペインの田舎町ゲルニカがドイツ軍に爆撃されたことをキッカケに、ゲルニカの制作を決意。たった1か月ほどで完成した作品は、反戦を表す戦争画としても話題となりました。
陶芸がキッカケでジャクリーヌと出会い、フランス南部にて同棲を始めます。1961年に結婚し、ピカソが亡くなるまで画家としての活動に専念できるよう尽力しました。
晩年は南フランスのムージャンにある自宅と、エクス・アン・プロヴァンスという町にあるアトリエを行き来しながら、制作活動に没頭。91歳で自宅にて亡くなりました。
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