ロックフェラー家とは?世界一の大金持ち?歴代当主や関係する団体まとめ

ウィリアム・ロックフェラー – ジョンと並ぶ家祖(生誕1841年5月31日~死没1922年6月24日)

意外にも少ないウィリアム・ロックフェラーを写した写真の一つ

ウィリアム・ロックフェラーはジョン・ロックフェラーの弟で、ジョン・ロックフェラーと並んでビジネスセンスに長けた人物でした。1866年に建てた製油所をジョン・ロックフェラーと共同して、僅か2年ほどで世界最大の精油会社に仕立てあげ、スタンダード・オイルの設立に貢献した人物です。

また、ウィリアム・ロックフェラーは現在のシティグループにあたるナショナル・シティー銀行ニューヨークの創業者の一人であり、ナショナル・シティー銀行の設立に多大な貢献をした人物でもあります。

さらに、1890年代からは銅産業に力を入れるようになり、モンタナ州のビュートにアナコンダ銅鉱山会社を設立したのち、1920年代には世界最大規模の会社へと成長させました。

ジョン・ロックフェラー2世 – ジョンの息子で第2代当主(生誕1874年~死没1960年5月11日)

貴重なジョン・ロックフェラー2世の写真の一つ

ジョン・ロックフェラー2世はロックフェラー家の初代当主であるジョン・ロックフェラーの一人息子で、一族と共にロックフェラー財団とロックフェラー大学を創設した人物です。

ブラウン大学を卒業したのち、父親の事業を手伝い投資家として名を馳せました。また、世界恐慌のときにロックフェラー・センタービルの建設に資金を提供し、結果的にニューヨークで最大の不動産所有者になりました。

ジョン・ロックフェラー2世は文化事業に大きく貢献し、ヴァージニア州のコロニアル・ウィリアムズバーグの再建のために資金を提供したり、ニューヨークの国連本部の建設敷地を寄付したりしました。

また、ジョン・ロックフェラー2世は自然環境とその保護に関心をもち、アメリカの国立・国定公園の設立のために広大な土地を購入し寄付しました。その中には有名なヨセミテ国立公園も含まれているとされます。

ジェームズ・ロックフェラー – ウィリアムの孫でシティグループの社長(生誕1902年6月8日~死没2004年8月10日)

タイム誌の表紙を飾った若かりし日のジェームズ・ロックフェラーの写真

ジェームズ・ロックフェラーはウィリアム・ロックフェラーの孫で、1902年6月8日にニューヨークのマンハッタンで生まれたのち、1924年のパリオリンピックでボート競技にて金メダルを獲得した人物です。

その後、1930年までの6年間はブラウンブラザーズアンドカンパニーに在籍し、1930年にナショナル・シティー銀行に参入。1959年には同銀行の会長を務めました。

ネルソン・ロックフェラー – 第41代アメリカ合衆国副大統領(生誕1908年7月8日~死没1979年1月26日)

政治家として脚光を浴びたネルソン・ロックフェラー

ネルソン・ロックフェラーはジョン・ロックフェラー2世の次男で、父方の祖父にジョン・ロックフェラー、母方の祖父に共和党保守派の実力者であるネルソン・W・オルドリッジをもつ、極めて優れた血統をもつ人物です。

ネルソン・ロックフェラーは1958年にニューヨーク知事選に当選したのち、1959年~1973年まで知事を務めました。ネルソン・ロックフェラーは特に教育分野に力を入れて、ニューヨーク州立大学を全米最大の国立大学に育て上げました。

また、ネルソン・ロックフェラーは麻薬の取り締まりにも力を入れ、コカインなどの麻薬の所持の量刑を第2級殺人と同程度にするなど、麻薬を所持する者を厳しく取り締まりました。

副大統領のネルソンと国務長官のヘンリー・キンシンジャーを写した貴重な写真

ネルソン・ロックフェラーは、1960年、1964年、1968年の三度に渡って大統領選挙に出馬しましたが、すべて敗退。1974年、リチャード・ニクソン大統領が辞任した際に、ニクソンの片腕として活躍した副大統領ジェラルド・フォードが大統領に就任。そのときに、ネルソン・ロックフェラーはフォード大統領に指名されて副大統領となりました。

しかし、ニューヨーク知事を四期おこなったネルソン・ロックフェラーの力を恐れた大統領の側近グループは、路線対立を理由に副大統領の力を抑制し、結果的にネルソン・ロックフェラーは予想されていた成果をあげることはできませんでした。

デイビット・ロックフェラー – ネルソンの弟で第3代当主(生誕1915年6月12日~死没2017年3月20日)

長寿をまっとうしたウィリアム・ロックフェラーの若き日の写真

デイビット・ロックフェラーは、祖父にジョン・ロックフェラー、父にジョン・ロックフェラー2世、兄にネルソン・ロックフェラーをもつ人物で、ロックフェラー家の第3代当主として活動しました。活動分野は多岐に渡り、銀行家・実業家・慈善家として実績を積みました。

1946年に旧チェース・ナショナル銀行で活動したのち、1961年にチェース・マンハッタン銀行の会長に就任。1969年~1981年には最高経営責任者(CEO)となり、その間にソビエト連邦と中華人民共和国に米銀行支店を設立し、三極委員会を創設しました。

デイビッド・ロックフェラーは日本との関わりが強く、オランダ王室にビルダーバーグ会議への日本の参加を打診したものの断られたため、三極委員会を設立するに至ったと考えられています。また、日本文化を伝える「ジャパン・ソサエティー」の名誉会長を務めるなど、一族の中でも日本との親密度が高い人物でした。

マイケル・ロックフェラー – 行方不明になった民俗学者(生誕1938年5月18日~1961年11月17日以降は行方不明)

財界の御曹司という立場を捨てた異端者マイケル・ロックフェラーの姿

マイケル・ロックフェラーはネルソン・ロックフェラーの息子で、銀行業や政治よりも、民俗学に多大な関心を寄せるなど一族の中では異端な存在でした。

ハーバード大学に入学後は民俗学を専攻し、ニューギニアのイリヤンジャヤのダニ族と首狩りの風習が残っていたアスマット族の研究をおこない、彼らが制作する木彫りの美術品などを収集していました。

しかし、1961年11月17日に、仲間のオランダ人と共に研究から変える途中に乗っていた舟が風に煽られて転覆。その後、マイケル・ロックフェラーは消息を絶ち、父であるネルソン・ロックフェラーは大規模な捜索をおこなったものの、マイケル・ロックフェラーは二度と姿を見せることはありませんでした。

マイケル・ロックフェラーが世界各地で集めた美術品は、ネルソン・ロックフェラーの手によりメトロポリタン美術館に寄贈されました。

1 2 3

コメントを残す