佐川一政はどんな人?なぜパリ人肉事件を起こした?【彼の生い立ちや性格についても紹介】

佐川一政は1981年にパリで起こった殺人事件の犯人です。被害者の体の部分を食べたことから、人の肉を食べる嗜好がある人・カニバリストではないかと言われていましたが、フランスでは罪に問われることはなく、1984年に日本に帰国しました。結局彼が法の裁きを受けることはなく、日本では有名人として扱われ、小説家としても活動しました。

左は青年期(つまり事件当時)、右は中年になってからと思われる

彼は実名を出して活動したため、犯罪を犯した人の心理を考える上で貴重な存在となりました。1989年の連続幼女誘拐事件の際には、犯罪者の視点がわかる貴重なコメンテーターとしてもてはやされたそうです。

確かに彼の犯した罪は許されることではありませんが、彼の残した著作からは犯罪を犯している人間の生の声が聞こえてきます。それに向き合うことで、未然に防げる犯罪があるはずです。

彼の生い立ちや家族から、なぜ犯罪が起きてしまったのかを考えていきましょう。そして現在の様子と佐川一政の唯一の肉親となっている弟についても触れたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

佐川一政とはどんな人物か

名前佐川一政(さがわいっせい)
誕生日1949年4月26日
生地兵庫県神戸市
配偶者なし(結婚歴なし)

佐川一政の生涯をハイライト

映画の公開で久しぶりに姿を見ることができた

1949年に生まれた佐川一政。父は会社の社長まで務めた人物で、母は神戸の裕福な貿易商の娘でした。生まれた当初は未熟児で心配されましたが、裕福な家庭で芸術を愛する青年として順調に成長していきました。

大学を卒業後は大学院に進み、さらにフランスにも留学したため、彼の人生は順風満帆だったように思われましたが、留学先のフランス・パリでとんでもない事件を起こしてしまいます。それがオランダ人留学生だった女性を殺害、体の一部を食べたという衝撃的なものだったために、彼の名前は日本中で有名になってしまうのです。

一政は精神鑑定の結果、心神喪失状態(何らかの理由で、物事の善悪が判断できない状態)であったと判定されたために、フランスでは罪に問われずに帰国します。日本では有名人としてもてはやされ、小説家としても活動しますが、2013年には脳梗塞を発症。その後誤嚥性肺炎により胃ろうの状態となり、入院生活を続けています。

フランスで起きたパリ人肉事件の犯人!?

佐川一政がパリで起こした殺人事件は、パリ人肉事件と呼ばれています。

1981年6月11日に一政は自分と同じ留学生だったオランダ人女性を殺害、遺体を弄んだ後に解体して、その一部を食べました。目的は人肉を食べるためだったという殺人事件は日本だけでなく海外にも広く衝撃を与えました。

殺害後、遺体を捨てに行ったブローニュの森で目撃された一政は逃走しますが、目撃者が遺体を発見したため通報され、逮捕されます。

しかし、フランスでは心神喪失状態であった(何らかの原因で善悪の判断ができない精神状態だった)と判断されて、罪に問われることなく1984年に日本に帰国します。帰国後もフランスの判断が覆らなかったため、日本でも罪に問われることはありませんでした。

佐川一政の誕生・虚弱な未熟児として生まれて

妊娠34週未満で生まれたか、体重2000g以下の赤ちゃんを未熟児という

1949年、兵庫県神戸市に生まれた佐川一政は未熟児で、父親の手のひらに乗るほどの大きさしかありませんでした。

生後1年で腸炎を起こし、カリウムとカルシウムを注射することでなんとか生きている状態が続き、一体いくつまで生きられるのかと両親を不安にしましたが、その後は順調に成長していきました。しかし虚弱な体質のためか、外で遊ぶよりは家で本を読んだりするのが性に合っていたようで、性格は内向的だったということです。

一政の誕生の1年後には弟の純が誕生します。純は体も大きく、2人はまるで双子のように育てられました。両親は純にも外に遊びに行くよりは、一政と一緒に家で本を読ませたようとしたそうです。

佐川一政の青春・芸術を愛する多感な少年

一政が強い影響を受けた志賀直哉

内向的な一政は、芸術を愛する多感な青年に成長していきましたた。「嵐が丘」や「戦争と平和」の他シェイクスピアの作品など、外国文学に強く惹かれたそうですから、かなり知性的にも優れていたのではないでしょうか。

高校時代には志賀直哉に強い影響を受け、自分も小説を書いたことがありました。当時学校に馴染めなかった一政にとって、志賀の作品「暗夜行路(主人公が自分のルーツや妻の誤ちを受け入れて、生きていこうともがき、希望を見つける物語)」は希望の光となったようです。これをきっかけに一政は白樺派の作品にのめり込んでいきました。

クラシック音楽も好んで聞いており、ベートーヴェンヘンデルがお気に入りでした。彼の青春時代が後に小説家として活動する基礎を作ったのでしょう。

佐川一政のフランス留学・世間を震撼させる事件の発生

パリの美しい町並み・一政もこれを眺めたのだろうか

一政は和光大学を卒業後、関西学院大学大学院を経て、1977年にはフランスのパリ第3大学大学院に留学します。そして1981年、問題の事件を起こしてしまいます。

当時25歳だったオランダ人女性が自分の部屋を訪れた際に殺害、その後遺体を分解していくつかの部分を食べてしまったのです。衝撃的な事件として記憶に残っている人も多いと思いますが、実はこの事件の前にも一政は人肉を食べる目的でドイツ人女性の家に侵入する事件を起こしていました。

このときは一政はまだ大学生で、父親が示談金を支払ったために、相手の女性から訴えられることはありませんでしたが、すでに一政は人肉を食べることについて強い興味を持っていたのかもしれません。

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