安倍晴明とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説や子孫、死因も紹介】

「安倍晴明ってどんな人なのかな?」
「野村萬斎さん主演の「陰陽師」格好良かった!」
「羽生結弦君の『SEIMEI』の演技すごく好き。」

安倍晴明は平安時代の公家であり、陰陽師でもあります。身分的には下級貴族でしたが、陰陽道に通じており、不思議な逸話が多く伝わる人物です。近年では映画や漫画でも取り上げられており、かなり知名度のある人物となりました。フィギアスケートで、羽生結弦選手が金メダルを取った時の演技が「SEIMEI」であり、そこでまた知名度が上がったといわれています。

野村萬斎主演の「陰陽師」は話題になった

そんなエンターテイメントの題材によく使われる安倍晴明ですが、実際は謎が多くどういった人物か不明なところが多いです。しかし実在に人物であったらしく史記で足取りを追うことも可能です。今回の記事では長年、安倍晴明について調べている筆者の研究成果を記していきたいと思います。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

安倍晴明とはどんな人物か

名前安倍晴明(せいめい・はるあきら)
誕生日921年
没日1005年
生地摂津国(大阪府)
没地
配偶者梨花(史実上の妻は不明)
埋葬場所京都嵯峨(渡月橋の近く)

安倍晴明の生涯をハイライト

安倍晴明のはっきりした出自は不明ですが、摂津国阿倍野(大阪府阿倍野区)で.生まれたといわれています。幼少期は詳しいことは不明ですが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子から陰陽道を学び、天文道を伝授されたといいます。後に賀茂氏と安倍氏は「二大陰陽師の家」といわれるようになります。

晴明神社にある安倍晴明像

960年に40歳で天文得業生で、村上天皇の占いを任じられました。このエピソードは晴明の占いが認められていた証拠といわれています。50歳には天文博士に昇進し、陰陽道も実質のトップとなったといいます。

990年には一条天皇の病を平癒させ、1004年には雨乞いで雨を降らせたと天皇から信任を得て、褒美を賜ったという記録が残されています。その後天文学で培った計算の能力が買われて主計寮に異動しました。しかしその翌年1005年に死去しています。享年85歳と考えられています。

陰陽道とはどんな術なのか?

晴明印

安倍晴明は陰陽道を駆使し人々を驚かせたといいます。晴明が巧みに操った「陰陽道」とはどういった術なのか説明していきたいと思います。

陰陽道の起源

陰陽道の印(起源は中国の戦国時代末期といわれている)

陰陽道とは、5世紀から6世紀ごろに儒教と共に「陰陽道」として日本に伝わったものです。同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇(呪術的な足づかい、歩き方)などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げたものでした。

陰陽道の考え方

陰陽五行説

陰陽道の基本的な考え方を「陰陽五行説」といいます。陰陽五行説とは天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、人間界の吉凶を占う技術として日本で発達していきました。

当初は漢文を読める渡来人の僧侶が行っていたといいますが、7世紀には日本人が行うようになりました。7世紀に陰陽寮が設立され、陰陽寮の配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせました。また、令で僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じた為に、陰陽師は国家管理となったのです。

平安時代の陰陽道

平安時代には占いだけでなく霊能者的な仕事も行っていた

平安時代には、日本人独特の「怨霊信仰」が高まり、災いを避けるために陰陽師が活躍しました。陰陽道は天皇や公家の大きな指針となったといいます。10世紀には、陰陽道・天文道・暦道を極めた「陰陽師」が現れます。

この頃から貴族の要請を受けた陰陽師が、占いとは別に、病を引き起こす物の怪を払うという事が行われるようになったといわれています。

陰陽道を使ったという伝説

安倍晴明は数々の逸話を残した

安倍晴明はこの呪術を駆使して、名を轟かせました。そんな晴明の、現在に伝わる代表的な陰陽道の逸話を3つ紹介いたします。

老僧が弟子入りした話

安倍晴明の家に老僧が訪ねてきた

安倍晴明の屋敷に老僧が、10代くらいの2人の童を連れて訪ねてきました。老僧は、晴明の陰陽道を習いたいといいます。この老僧は童と見せかけて、実は自身の式神を連れていました。すると晴明は童を術で隠してしまいます。

老僧は「どうして供を隠すのですか?」と問うと晴明は、「私を試そうとしたからだ。」と答えたそうです。老僧は「式神を操るだけでなく、他人の式神を隠せるとは。」と驚き弟子入りを申し出たといいます。

術で蛙を殺傷する話

蛙を術でひしゃげてみせた

安倍晴明が広沢僧正の所で話している時に、他の公家が「式神を使うなら人を殺せますか?」と問うたといいます。すると晴明は、「殺しても生き返らせる方法を知らないので、容易くは殺しません。」と答えました。すると公家は、「あの蛙を殺してみよ。」といいます。それを聞き晴明は葉を投げると蛙は真っ平にひしゃげたといいます。

花山天皇の譲位を言い当てる

花山天皇

花山天皇には弘徽殿の女御という寵妃がいました。しかし妃は懐妊中に亡くなってしまいます。帝は非常に悲しみ、在位2年で出家されました。出家した夜に晴明の家の前を通ると晴明は、帝座の星に兆しを見て、帝が譲位すると叫んだと伝わっています。

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