安倍晴明とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説や子孫、死因も紹介】

安倍晴明の名言

安倍晴明の伝説で残されている言葉は多くありません。しかし死後の晴明を扱った作品で名言が出ていますので、そちらから紹介したいと思います。

名前は自身を操っている身近な呪文と答えた

この世で一番短い呪いは「名」だ。

この言葉は漫画「陰陽師」で友人である源博雅に答えた言葉です。確かに私たちには自身の「名」というものがあり、その言葉に支配されているのかもしれません。

空間と時間を切り離すのが陰陽道だという

陰陽道では常に方位である「空間」と日や歳や四季である「時間」は切り離さずに考える

これも、漫画「陰陽師」での言葉です。何だか難しい言葉ですが、万物は交わり力を出すという発想でしょうか?何だか面白そうですね。聞いてわかるような分からないような言葉です。

安倍晴明の人物相関図

安倍家家系図

安倍晴明にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「安倍晴明にもライバルがいた!?」

アニメでも悪役として出てくる蘆屋道満

安倍晴明には、伝説上の陰陽師ですが「蘆屋道満」というライバルがいました。出身は播磨国(兵庫県)といわれています。陰陽道が非常に盛んな場所だった場所で、陰陽寮も播磨出身者が多かったそうです。生没年は不明で、晴明の弟子ともいわれたり、逆に年上だったという伝説もあります。

鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」や「十訓抄」などに登場しており、晴明のライバルとして位置づけられています。この蘆屋道満、民間の陰陽師の代表格的存在だったといいます。どういうことかというと、安倍晴明は国が雇った国家公務員ですが、蘆屋道満は今でいうフリーランス的存在だったそうです。

藤原顕光は死後も怨霊になったと噂されるほど藤原道長を妬んでいた

安倍晴明が藤原道長のお抱え陰陽師だったのに対し、藍屋道光は藤原顕光のお抱えの陰陽師だったといわれています。晴明と技を競った逸話は、蘆屋道満が諸国を放浪する陰陽師で、京に立ち寄った時の晴明との絡みが今も伝えられているそうです。

都市伝説・武勇伝2「母は白狐だった!?」

母は白狐だった!?

安倍晴明の母が狐だったという不思議な伝承が残っています。晴明の母の名前は「葛之葉」というそうです。もちろん伝承であり、後年の創作ですが、陰陽師という仕事柄出自を意図的に隠していたらしく、母がどういう人か分かっていません。

伝説上の「葛之葉」は、河内国阿倍野に「安倍保名」という人物が、白狐を助けてあげます。そして保名が後に怪我を負ったときに、どこからともなく女性が出てきて保名を手当てしたそうです。女性は「葛之葉」と名乗ります。そのまま夫婦は結婚し、男の子に恵まれました。この子が安倍晴明だというのです。

「葛之葉」を描いた石碑

そして母狐は正体を明かし、父子の元を去ります。その時に置いていった水晶の玉と黄金の箱を使い、晴明は陰陽道を操ったといわれています。不思議な話ですね。当時の人々は、安倍晴明が当時にしては破格の長生きをしたのは狐の血を引いているからだと噂したそうです。

都市伝説・武勇伝3「安倍晴明の祖先は遣唐使が多かった」

阿倍仲麻呂の百人一首の歌は非常に有名だ

安倍晴明の氏族「安倍氏」は、遠くは古墳時代の景行天皇の時代の家臣として名前が登場します。飛鳥時代には外国に派遣される人物が多く、非常に見識が広い一族だったと考えられています。特に著名な人物は「阿倍仲麻呂」です。阿倍仲麻呂は、遣唐使として唐に渡り、唐で出世して李白や王維といった著名な人物とも交流を持ったといわれています。

平安時代に「阿部」から「安倍」に改名し、それ以降は下級役人の地位にいましたが、安倍晴明が陰陽道に長けていたことにより、以後は「陰陽道」の家として活躍するようになった経緯があります。太古から非常に文化的に長けた一族だったといえるでしょう。

安倍晴明の生涯年表

921年 – 0歳「陰陽道の天才、生を受ける」

陰陽道の天才は一説によると摂津で生まれたとされる

一番有力な説は、921年に摂津国阿倍野で父、安倍保名の子として生を受けました。母は不明ですが、有名な伝説では、妖狐「葛之葉」が母といいます。もちろん伝承ですが、陰陽師という職業柄出生を意図的に隠していたといい、このような伝説が生まれたのだと考えられています。

陰陽師、賀茂忠行・保憲親子に陰陽道を習う

幼少の時には晴明は鬼が見えていたという

幼少期の確かな記録はありませんが、陰陽師の賀茂忠行・保憲親子に陰陽道を習い、天文道を伝授されたといわれています。後に賀茂家と安倍家は二大陰陽家といわれるようになりました。

説話集の「今昔物語」によると、賀茂忠行が内裏から帰宅途中、供として連れていた安倍晴明に呼び起こされて外を見ると、百鬼夜行の集団と遭遇しました。慌てて難を逃れることが出来たために、忠行は晴明を可愛がるようになったといわれています。そして、「まるで瓶の水を移すかのように」陰陽道の真髄を授けたと伝えられています。

960年 – 40歳「村上天皇から占いの高評価を得る」

村上天皇

この頃の安倍晴明は「天文得業生」でした。天文得業生とは、陰陽寮に所属して天文博士から天文学を学ぶ学生だったのです。その時に村上天皇の勅で占いを命ぜられています。このエピソードは出世は遅れていますが、占いの能力は既に認められていたことを現しています。

50歳頃「天文博士に任じられる」

天文道の事実上トップとなった

はっきりした年は分かっていませんが、安倍晴明は「天文博士」に任じられています。今までの習う立場から教える立場になったのです。977年に賀茂保憲が死去したことにより、陰陽寮内でも頭角を現すようになりました。立場こそ「陰陽頭」にはなりませんでしたが、位階は頭よりも上にあったといいます。

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