スカルノ大統領はどんな人?デヴィ夫人との関係は?【功績・都市伝説と年表で詳しく紹介】

スカルノ大統領とは、1920年代から40年代にかけてインドネシアの独立に貢献し、インドネシアの初代大統領になった人物です。インドネシアは大小さまざまな島が集まって出来上がった国のため、多くの民族が生活をしています。それを1つにまとめた功績は大きく、今でも人々に慕われ、紙幣に肖像が使われているほどです。

確かにスカルノ大統領の肖像が使われている

独立直後、インドネシアは経済的に追い詰められていましたが、スカルノ大統領はこれを立て直し、インドネシアは国際社会の中でその地位を固めていきます。

第2次世界大戦が終結した後には、インドネシアと同じように多くの国が独立や建国をしました。これらの新しくできた国々は第3世界と呼ばれ、スカルノ大統領はその第3世界のリーダーの1人となったのです。

また、スカルノ大統領は日本びいきとしても知られており、長年に渡って日本と良好な関係を保ってきたために、インドネシアには親日家が多いことがよく知られています。

今回はそんなスカルノ大統領がどんな人物だったのか、功績と都市伝説、そして年表からじっくりと探っていきます。きっと日本とインドネシアの関係について、新しい発見ができるはずです。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

スカルノ大統領とはどんな人物か

名前スカルノ
誕生日1901年6月6日
没日1970年6月21日
生地オランダ領東インド スラバヤ
没地インドネシア ジャカルタ
配偶者 第1夫人 ファトマワティ
第2夫人 ハルティニ
第3夫人 デヴィ
埋葬場所ジャワ島ブリタール

スカルノ大統領の生涯をハイライト

大統領としてもっとも世間に知られている写真

スカルノ大統領は1901年、現在のインドネシア・ジャワ島のスラバヤという都市で生まれました。スカルノが生まれたとき、父は小学校の教師をしており、取り立てて裕福な生活をしていたわけではありませんでした。

大学を卒業するまでに、さまざまな出会いがあったために、スカルノは徐々に植民地支配に疑問を持つようになり、民族の解放やインドネシアの独立へと進んでいきました。

1945年にはインドネシア独立を果たし、初代の大統領となりますが、国の経済的自立を急ぎ、極端な政策を推し進めたために、インドネシアは世界的に孤立してしまいます。

その状況の中で1965年に国内の2つの勢力が対立を起こしました。2つの勢力の間でバランスを取って生き残ろうとしていたスカルノ大統領はこれで政治生命を失い、辞任を余儀なくされました。

家族は次々と国外に逃亡し、残されたスカルノは軟禁状態のまま1970年にジャカルタで死去します。不遇の状態のままで死を迎えたスカルノですが、現在もその墓には多くの人が訪れ、彼の人生を偲んでいます。

スカルノ大統領とデヴィ夫人との関係は?

日本とインドネシアの架け橋となった
デヴィ夫人

スカルノ大統領が死去した時には、3人の妻がいたことが確認されています。日本びいきだったスカルノ大統領は、日本の商社からの紹介で日本人を妻に迎えました。それが現在もタレントとして活躍しているデヴィ夫人(日本名は根本七保子・ねもとなおこ)です。彼女は第3夫人として迎えられました。

インドネシアでは90%以上がイスラム教徒です。イスラム教徒は4人まで妻を持つことができますから、スカルノ大統領に複数の妻がいても、決しておかしなことではありませんでした。

しかし、現在では正妻が納得していないと複数の妻を持つことはできないため、現実問題としては難しいでしょう。当時としても類稀な経済力を持っていたからこそスカルノ大統領は複数の妻を持つことができたのだと思われます。

日本以上の島国であり、世間体を大切にするインドネシアの人々は、現在ではほとんど一夫一妻だそうです。スカルノ大統領には、3人の妻の他にも離婚した元妻が6人いましたから、かなり特別な例だったのではないでしょうか。

スカルノの誕生・オランダの植民地に生まれて

少年時代のスカルノ・中学生くらいか?

インドネシアの島の1つ、ジャワ島はかつてはオランダの植民地であり、その頃から貿易の中心として栄えていました。スカルノはこの島で1901年に貴族の出身の両親のもとに生まれました。

幼い頃からオランダ語を学んだスカルノはヨーロッパの子どもたちが通う小学校を卒業しています。その後、オランダが創立した工科大学を卒業しました。この間に下宿生活も経験し、違った立場と考えの人たちに接することも多く、スカルノの考えは大きく広がっていきます。

そして大学を卒業するまでに、植民地支配に対する反感が芽生え、彼をインドネシアの独立へと駆り立てたのです。

スカルノ青年の反植民地運動~スカルノ大統領の誕生

1945年、独立宣言をしているスカルノ大統領

大学を卒業し、反植民地運動を行うようになったスカルノは、同士とともにインドネシア国民党を結成しました。そして国の独立と民族の統一を広く呼びかけるために、各地で演説を行うようになり、「民族の指導者」呼ばれるほどになりました。

オランダから危険視されたスカルノは何度も逮捕され、流刑にもなりました。そんなスカルノたちを開放したのが日本軍でした。日本はインドネシアを統治するためにスカルノたちを利用したわけですが、スカルノたちは日本軍に協力しました。それはインドネシアにとってオランダからの解放を意味していたからです。

そして第2次世界大戦が終結した直後、混乱に乗じてスカルノたちは独立宣言をします。こうしてスカルノはインドネシアの初代大統領となりました。しかし、この独立はオランダに認められなかったために、さらなる争いに発展してしまいます。

独立から第3世界のリーダー、そして失脚まで

1948年オランダに幽閉されるスカルノ大統領たち

インドネシアの独立を認めないオランダはスカルノたちを幽閉しましたが、結果としてオランダは世界各国から植民地主義を批判されることになりました。こうしてオランダはインドネシアを諦めざるを得なくなり、インドネシアは新しい国としてのスタートを切ることになります。

スカルノは強大な権力を武器に国の立て直しをはかりますが、他の国に頼らない経済を目指すあまりに極端な外交政策をして、インドネシアが世界から孤立する恐れが出てきました。

国内では2つの勢力がぶつかり、政情が不安定となりました。結果としてスカルノ大統領は辞任に追い込まれてしまうのです。

スカルノ大統領の死因

スカルノ大統領の墓の隣に置かれた石
「スカルノが眠っている」という内容が刻まれている

1970年にスカルノは腎不全で亡くなったと言われています。

スカルノは辞任の後、すべての役職を解かれ、軟禁状態になりました。複数いた妻たちはすべて国外に逃亡しましたから、失意と孤独の中にあったことになります。これだけでも命が縮んでしまいそうですが、もともと彼には腎臓の病気があったそうです。ヨーロッパで手術を勧められたこともありましたが、それは断ってしまったそうです。

手術を恐れたからとも、スカルノはナイフで死ぬことになると予言されたことを気にしていたからとも言われています。中国医の鍼灸による治療がされたということですが、スカルノの生活態度は改まることがなかったため、徐々に病気が悪化してしまったのかもしれません。

そして軟禁状態だったスカルノは適切な治療を受けられなかったようです。

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