スカルノ大統領はどんな人?デヴィ夫人との関係は?【功績・都市伝説と年表で詳しく紹介】

スカルノ大統領の年表

1901年 – 0歳「スカルノ、誕生」

18世紀のジャカルタの様子

インドネシアで民族意識が芽生える

スカルノが誕生した当時のインドネシアはオランダの植民地でした。現在もインドネシアの首都であり、最大の都市であるジャカルタにはオランダが東インド会社を作り、インドネシア国民の利益を不当に搾り取ったのです。

オランダはインドネシアの人々が団結をしないように、さまざまな方法で縛り付けていましたが、スカルノが誕生して間もない1908年にはオランダ政府と協調しながら、現地の人々の地位を向上させようという、運動が始まりました。

このときはオランダと対立しようと思ってはいなかったようですが、20年近く経つとスカルノがインドネシア国民党を結成、自分たちはインドネシア民族であることを確認します。そしてインドネシアを取り戻し、インドネシア語を話したいという気持ちが人々の中に高まっていきます。

自分たちの民族を確認することが、自分たちの国を取り戻そうという運動へとつながっていったのです。

スカルノたちの冬の時代

1928年、スカルノたちに冬の時代が訪れます。

インドネシア国民党よりも前に結成されていたインドネシア共産党が国内で反乱を起こしたために、スカルノたちが行っていた独立への運動も非合法とされました。スカルノは仲間とともにオランダに捉えられ、流刑となりました。

インドネシア独立を目指す人々には長い冬の時代が訪れたのです。しかし、流刑された土地で彼は後に第1夫人となるファトマワティと出会います。そして第2次世界大戦が起こった時に、スカルノたちは日本軍によって開放されます。

スカルノは思わぬ方向から、インドネシアの独立を推し進めるのです。

1945年 – 44歳「インドネシア独立宣言」

日本軍の置き土産も活用してインドネシアは独立のために戦い続けた

オランダの不在を狙った独立宣言

日本が連合国に降伏した直後の1945年8月17日に、スカルノは仲間とともにインドネシア独立宣言を行います。オランダは当時本国がドイツに占領されるなど、大変な状況で、インドネシアに駐留した日本軍と戦うだけの力がありませんでした。

オランダは日本軍との戦いを放棄して、オーストラリアに逃亡したのです。このすきを突いてスカルノたちが独立宣言を行いましたが、もちろんオランダは認めず、イギリスやオーストラリアの力を借りて、再びインドネシアを占領しようと試みます。

こうしてインドネシア独立戦争が始まったのです。

一度は停戦協定を結んだが…

オランダが当てにしていたイギリスとオーストラリアですが、やはり第2次世界大戦の影響で国力が低下しており、十分な援助をすることはできませんでした。そしてインドネシアの人々は残った日本軍の力を借りて、ゲリラ戦を行い、オランダを苦戦させます。

結果、オランダはインドネシアと連邦国家を作ることを約束して、停戦協定を結ぶことになりましたが、インドネシアを諦めたわけではありませんでした。

停戦協定から3カ月も経たずに再び攻撃が始まり、スカルノたちはオランダに幽閉されてしまいます。国際連合が仲裁をしようとしましたが、オランダを止めることができませんでした。

しかし、オランダのやり方に対し、世界の国々が反発、非難をしたのです。こうしてオランダはインドネシアを諦め、1949年の12月にやっと名実ともに独立へとこぎつけました。1945年の独立宣言から4年もの歳月が流れていたのです。

1950年 – 49歳「インドネシア、新憲法制定」

総選挙でのスカルノ大統領・自ら投票している

新憲法ではリーダーシップが発揮できなかった?

新しいスタートを切ったインドネシア。原油とゴムの輸出で経済を立て直そうとしましたが、なかなかスカルノ大統領はリーダーシップを発揮できませんでした。不安定なままの国に国民たちの不満も増大していきます。

スカルノ大統領はこの原因を新しい憲法にあると考えました。1950年に制定した新憲法では議会制民主主義(選挙で選ばれた国民の代理の人たちが議会を運営して政治を行う方式)を採用していたため、大統領だけに大きな権限があるわけではありませんでした。

1959年にスカルノ大統領は議会を解散、自分に大きな権限を認める直接民主主義へと方向転換をするのです。これは一歩間違えると独裁主義になってしまいますが、政治に不満があった国民たちは、この方向転換を喜んで受け入れたそうです。

東西冷戦がインドネシアに影響した?

1950年から65年にかけて、世界は2つに分断されました。アメリカに代表される資本・自由主義の国々とソビエトに代表される共産・社会主義の国々です。インドネシアの国内でもどちらの国に近づくのか、意見が別れていました。

スカルノ大統領は最初、資本・自由主義の国々と親しい関係を結んでいましたが、徐々に共産・社会主義の国々に近づいていきました。

スカルノ大統領は国内での力を保ち続けるために、民族主義をずっと謳い続ける必要がありました。そのため、かつて帝国主義だったイギリスやアメリカとは距離を置こうとしたと考えられています。この頃の彼のスローガンが「ナサコム(ナショナリズム・宗教・共産主義の略)」で、この言葉のもとに国民を一致団結させようとしていたのです。

さまざまな文化と思想を持っている国民を1つにまとめるために、うまく立ち回ろうとしたスカルノ大統領でしたが、やがて終わりの時がやって来ます。

1965年 – 64歳「9月30日事件、スカルノ大統領の失脚」

1960年の写真・隣はキューバのカストロ議長
共産・社会主義寄りになっていたことがわかる1枚

うまく立ち回ろうとしたけれど

1965年のこの日、中華人民共和国はインドネシアに核開発の支援を申し出ていました。両者の関係はとてもうまく行っているように思われましたが、この日のうちにインドネシア国内の共産・社会主義の軍人たちが反乱を起こしたのです。そして資本・自由主義勢力の軍人だったスハルトがこれをあっという間に鎮圧してしまいます。

そしてスハルトたちによって共産党員が次々と逮捕、国内から一掃されてしまいます。両者の間をうまく立ち回って国内での地位を保っていたスカルノ大統領はこれにより失脚します。

辞任はしないと粘ったけれど

9月30日事件でスカルノ大統領はへこたれず、更に政権を継続しようとしました。しかし、共産党を一掃したスハルトたちは、資本・自由主義だけでなく共産党ともうまくやろうとしたスカルノに責任を負わせることにしたのです。

宗教団体や学生団体からも責任を取って辞任をするべきだという意見が噴出するようになりましたが、スカルノにはそれを抑えるだけの力はもはやありませんでした。

秩序が回復するまでの一時的な措置として、スカルノはスハルトに一切の権限を譲ることになりました。こうして、スハルトは1967年に大統領代行に就任します。さらにその翌年には正式に大統領に就任するのです。

1970年-69歳「スカルノ、死去」

ボゴールの大統領宮殿は現在も公務に使用されている

孤独な死

大統領を辞任したスカルノは国父としての地位は保たれましたが、役職はすべて解かれてボゴールというジャワ島の都市に建てられていた屋敷に軟禁されました(後にはジャカルタの旧デヴィ邸に移されたそうです)。

大勢の夫人たちはみな家族を連れて国外に逃亡、孤独な中で彼の体は蝕まれていったようです。もともと腎臓に病気があったスカルノは満足な治療を受けることはできず、容態が急変してからジャカルタの病院に運ばれ、そこで腎不全により亡くなりました。

国民の父とも兄とも慕われた人物としては、寂しい死に方でした。

スカルノ大統領の墓

スカルノが亡くなるときに、駆けつけた第2夫人や第3夫人は彼をボゴールに葬って欲しいと希望しました。ボゴールには彼の屋敷があり、思い出深い地だったと思われます。また、スカルノは屋敷の近くの石碑をパワースポットだと信じており、日頃から自分が亡くなったときは石碑の近くに葬るように希望していたと言います。

しかしスハルトはボゴールがスカルノの聖地になることを嫌い、少し離れたブリタールに墓を作りました。そこにはスカルノの母の墓があるため、生前母想いだったスカルノのためにブリタールを選んだとうまく理由をつけたわけです。

しかし、現在もブリタールのスカルノの墓には多くの観光客が訪れ、彼を偲んでいます。最後の最後はスハルトの思惑通りにはならなかったようです。

スカルノ大統領の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

スカルノとスハルト-偉大なるインドネシアをめざして-

インドネシアの建国の歴史を知るための本ですが、スカルノとスハルトの生き方に注目しても、とても面白く読めます。スカルノはなぜ失脚して、その後スハルトの体制がずっとインドネシアでは続いているのか、まるでドラマのような面白さです。

スカルノ-インドネシア「建国の父」と日本

スカルノに関わった日本人を紹介しつつ、彼の人間性を明らかにしているため、とても興味深く読むことができます。スカルノは国のためなら悪魔に魂を売りかねない男だったそうですが、この危うさも彼の魅力の1つなのかもしれません。

関連外部リンク

スカルノ大統領についてのまとめ

スカルノ大統領の人生について、功績や都市伝説を含めて解説してきました。インドネシアの独立を成し遂げながら、なぜ失脚してしまったのかわかったのではないでしょうか。

国内の権力のバランスを取りながら、うまく立ち回ろうとしたスカルノ大統領の姿が、なぜか童話のコウモリのように見えてしまいました。

鳥と動物、どちらの特徴も持ちながら、結局どちらの仲間にも入れなかった悲しいコウモリのようなスカルノ大統領。政治的な駆け引きは大切かもしれませんが、もっと不器用でも国民のために尽くす気持ちがあれば、違った結末を迎えられたのに違いありません。

日本の政治家の方々にもスカルノ大統領から、貴重な教訓を学んで欲しいと思います。

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