スカルノ大統領はどんな人?デヴィ夫人との関係は?【功績・都市伝説と年表で詳しく紹介】

スカルノ大統領の功績

功績1「インドネシアを植民地支配から解放」

スカルノ大統領は人々を結びつけ団結させた

インドネシアを植民地支配から開放したのが、スカルノ大統領のもっとも大きな功績です。どんな国であっても独立や解放を成し遂げるのは大変なことですが、インドネシアには特有の大変な事情がありました。

インドネシアは1万以上の島から成り立つ国で、約320種類の言語を持っていました。オランダはインドネシアの人々が公用語を作ることを禁じていただけでなく、集会はもちろん、3人以上が立ち話をするのも禁じ、従わない者は反乱罪で処罰しました。

インドネシアの国の人々は団結ができないようにコントロールされていたわけです。このような状況の中で、スカルノ大統領は根気強く人々に呼びかけて、団結させ、独立へと導いたのです。だからこそ、彼は今でもブン・カルノ(カルノ兄さん)と国民に呼ばれ、慕われているのです。

功績2「低迷していた経済を立て直し、国の地位を固めた」

経済の立て直しがスタートの第一歩だった

インドネシアは独立するためにオランダの資産を継承しましたが、それには多額の外国への債務が付いていました(借金を抱えていたようなものです)。ですから、インドネシアでは経済を立て直すことがもっとも大切なことでした。

スカルノ大統領は原油とゴムの輸出でインドネシアの経済を立て直していきますが、このときはまだ強い権力が与えられておらず、安定しない政治に国民の不信も大きくなる一方でした。

とうとうスカルノ大統領はそれまでの議院内閣制をやめ、自らが強大な権力を握ることにしたのです。当時、政治に不信感を募らせていた国民の多くがスカルノ大統領の行動を支持したと言います。

スカルノ大統領により、インドネシアは着実に国として成長をしました。1955年にはジャワ島でアジア・アフリカ会議(第3世界と呼ばれた、第2次世界大戦後に独立・建国した国々の会議)を開催します。これらの国々の中で、スカルノ大統領はリーダーと呼ばれるほどの存在になったのです。

功績3「多様性を受け入れ、インドネシアを団結させた 」

共産主義、社会主義のシンボル・赤い星

スカルノ大統領は大学を卒業するまでに経験した多くの人々との触れ合いから、「ナサコム」というキーワードを導き出しました。これは「ナショナリズム・宗教・共産主義」の頭文字をとって作られた言葉で、インドネシアに存在するさまざまな立場の人たちも、それを乗り越えて団結できると呼びかけるための合言葉のような役割を果たしました。

もともとたくさんの島でできており、多様な民族がいたインドネシアでは、国民を1つにまとめるキーワードは大切でした。

また、1950年から1965年にかけて、世界は資本・自由主義と共産・社会主義の国々に2分され、対立しました。これは冷たい戦争と呼ばれましたが、インドネシア国内でも2つの主義の勢力が存在しました。

この一触即発の状態を「ナサコム」の一言で乗り越えようとしたのでしょう。スカルノ大統領は多様性を受け入れ、国を1つにまとめたのです。

スカルノ大統領の名言

独立と自由を勝ち取るために、スカルノ大統領は力を尽くした

自分のことに自信がない民族は、直接立つ(自立する)ことはできない

スカルノ大統領が演説のときに語った言葉です。現在でも彼の墓と同じ敷地内に建つ、ブリタールの歴史資料館にこの言葉がポスターに書かれ、展示されています。日本語に訳してしまうと、少し感じが違ってしまうのかもしれませんが、生でこの言葉を聞いたインドネシア国民は自分たちが国の主役となるのだと強く感じたに違いありません。

私はこの民族と国家を君たちに託そう

こちらも歴史資料館に展示されている名言です。短くドラマチックな言葉ですが、国民一人ひとりに責任感を問いかけてくる厳しい言葉でもあります。甘いだけの言葉を並べられるよりは、国民の信頼を勝ち得たのではないでしょうか。

スカルノ大統領にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「スカルノでフルネーム?名前の由来」

インドネシアの伝統的な人形影絵劇「ワヤン・クリ」

スカルノ大統領の名前は、Soekarno(スカルノ)だけです。インドネシアにはさまざまな民族がおり、姓がないことも多いです(代々姓を受け継いでいく民族もいるそうです)。家に対する考え方が日本人とは違うために、姓がないことはインドネシアでは特別なことではないそうです。

スカルノ大統領は最初クスノという名前でしたが、後から親が改名してスカルノになったと言います。

スカルノという名前の由来は、インドネシアの伝統的な影絵芝居・ワヤン劇にあります。これにカルノ(karno)と言う名前の武道の達人が登場します。クスノ少年は体が弱かったために、勇ましい武道の達人の名前をもらったようです。本人もこの名前を気に入ったようで、S.karnoと署名したこともあったとそうです。

都市伝説・武勇伝2「大統領は日本びいきだった?その理由とは」

日本を訪れたスカルノ大統領は何を見たのだろうか?

わざわざ日本から妻を迎えたスカルノ大統領。日本びいきだったことがわかりますが、それには理由がありました。第2次世界大戦中にオランダに囚われていたスカルノたちを開放したのは日本軍でした。1943年には副大統領とともにスカルノ大統領は日本を訪問し、昭和天皇に面会もします。

終戦後は、残った日本軍とともにスカルノたちはゲリラ戦を行い、オランダに立ち向かいました。

インドネシア独立後も日本政府はインドネシアへの経済支援を行っていました。アメリカなどの資本主義国家がインドネシアと関係が悪くなる中でも、日本だけはインドネシアとの友好的な関係が続いたのです。1962年に日本から妻を迎えたのは、そのような関係が両国にあったからだと思われます。

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