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オーストリア=ハンガリー二重帝国とは?歴史年表まとめ【成立から崩壊まで詳しく紹介】

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは、かつてヨーロッパに存在していた、ハプスブルク家が治める多民族連邦国家です。現在はEU加盟国の1つであるオーストリア共和国として知られています。

オーストリア共和国の国旗

「オーストリア=ハンガリー二重帝国はどこにあったの?」
「オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、オーストリア=ハンガリー二重帝国はどこにあったのか、また、オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について詳しく紹介していきます。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について、成立から崩壊まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは

オーストリア帝国とハンガリー王国の同君連合

オーストリア=ハンガリー二重帝国の国章

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは、オーストリア帝国とハンガリー王国の同君連合として成立した多民族連邦国家です。前身であるオーストリア帝国は、ボヘミアやモラヴィア、シュレジエン、スロヴァキア、トランシルヴァニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの様々な地域を領土に抱える大国でした。

当時、帝国内において諸民族による独立運動が活発化しており、支配層でありながら少数派であったドイツ民族は権力の失墜を恐れ、妥協策を図ります。その後、オーストリア皇帝のフランツ=ヨーゼフ1世はハンガリーの独立運動を懐柔し、形式的な独立を認めました。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世

そして、オーストリア帝国とハンガリー王国がそれぞれ独自の政府を持った結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生したのです。しかし、軍事、財政、外交の面においては、オーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねるフランツ・ヨーゼフ1世が掌握していました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国はいつ成立した?

オーストリア=ハンガリー二重帝国は1867年に成立しました。18世紀末に起きたフランス革命が終わり、その影響を受けて自由主義とナショナリズムが拡大した19世紀は、世界的に激動の時代となったのです。

1848年、当時のヨーロッパにおける国際秩序であったウィーン体制が崩壊し、西欧社会は大きな転換期を迎えていました。その中で衰退しつつあったオーストリア帝国は、サルデーニャ王国やプロイセン王国に敗れるなどして、国際的な地位が下落。そして、帝国の弱体化は国内に多数存在していた諸民族の独立運動を引き起こすことになったのです。

また、1867年は日本においても大きな時代の転換点でした。四侯会議の崩壊、徳川慶喜による朝廷への大政奉還、そして坂本龍馬の暗殺が起きた年だったのです。翌年には明治維新が行われて本格的な近代化改革が進み、日本は明治時代を迎えました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した1867年に暗殺された坂本龍馬

オーストリア=ハンガリー二重帝国はどこにあった?

オーストリア=ハンガリー二重帝国が支配していた領域

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、首都であるウィーンを中心に中東欧の広大な領土を保有していました。国内には様々な民族が居住しており、多民族連邦国家という形で存在していたのです。

また、二重帝国が成立した後に開催されたベルリン会議によって、オーストリア=ハンガリー二重帝国は、かつてオスマン帝国の統治下にあったバルカン半島中部に位置するボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得。そして、1908年にオスマン帝国内で発生した青年トルコ革命の混乱に乗じて、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。

その結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビア王国から強い反発を受け、同じスラブ系民族の国家であるロシア帝国との関係も悪化したのです。それ以降、オーストリア=ハンガリー二重帝国とドイツ帝国によるパン=ゲルマン主義を軸とする領土拡大は、バルカン半島諸国やロシア帝国が掲げるパン=スラブ主義と衝突していくことになります。

オーストリア=ハンガリー二重帝国はなぜ崩壊した?

オーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊に至った理由は、第一次世界大戦で敗北したことにありました。敗戦後に、帝国内部に抱えていた諸民族が次々と独立していったのです。

パン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義が鋭く対立していたバルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、ヨーロッパ情勢は一触即発の状態になっていました。その中で発生したサラエヴォ事件をきっかけに、第一次世界大戦が始まったのです。

そして、4年にわたる総力戦となった第一次世界大戦において、オーストリア=ハンガリー二重帝国はイギリス・フランス・ロシア帝国を中心とする三国協商側に敗北してしまいます。停戦協定後、帝国内にあった多数の民族が独立を宣言。その結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体されたのです。

第一次世界大戦後のヨーロッパの地図

オーストリア=ハンガリー二重帝国とハプスブルク家の関係

ハプスブルク家の紋章

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、神聖ローマ帝国の時代から続くオーストリア系ハプスブルク家の君主によって統治されたハプスブルク帝国です。

ハプスブルク家出身のオーストリア皇帝であったフランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立と共に、ハンガリー国王を兼任することになりました。68年に及ぶ長い在位で、国民から愛されたフランツ・ヨーゼフ1世は「国父」と呼ばれ、オーストリアを象徴する存在だったのです。

しかし、フランツ・ヨーゼフ1世は第一次世界大戦の最中に死去。後継者となったのはカール1世でしたが、即位した2年後にオーストリア=ハンガリー二重帝国は敗戦国となり、カール1世はスイスに亡命することになります。最終的に、皇室財産の多くを新生のオーストリア共和国に没収されてしまったため、カール1世はハプスブルク帝国の最後の皇帝となったのです。

オーストリア=ハンガリー二重帝国における最後の皇帝カール1世

オーストリア=ハンガリー二重帝国の文化上重要な人物

作曲者アントニン・ドヴォルザーク

チェコ国民楽派を代表する音楽家アントニン・ドヴォルザーク

アントニン・ドヴォルザークは、オーストリア帝国の統治下にあったチェコで生まれ、青年期から死没までをオーストリア=ハンガリー二重帝国の時代に過ごした、後期ロマン派に属する作曲家です。

バッハベートーヴェンと共に、ドイツ音楽における三大Bと呼ばれた作曲家のヨハネス・ブラームスによって才能を見出されたアントニン・ドヴォルザークは、「スラヴ舞曲集」で人気を獲得します。その後、音楽教育に貢献しながらネイティブアメリカンの音楽や黒人霊歌の研究を重ね、自身の音楽を追及していきました。その結果、チェコ国民楽派を代表する作曲家となったのです。

また、アントニン・ドヴォルザークは9度に渡るイギリス訪問の経験がある他、アメリカで過ごしていた時期もあり、チェコ音楽史だけでなくアメリカ音楽史にも影響を与えました。日本では交響曲第9番第2楽章に日本語の歌詞が付けられて唱歌「家路」として親しまれているなど、世界的に有名な音楽家であると言えます。

精神分析学者ジークムント・フロイト

精神分析学を創始したジークムント・フロイト

ジークムント・フロイトは、1856年にオーストリア帝国のモラヴィア辺境伯国のフライベルクで誕生しました。神経病理学者を経た後に、ウィーンで精神科医となったジークムント・フロイトは、精神分析学の創始者として知られています。

ジークムント・フロイトが創始した精神分析とは、人間には無意識の過程が存在しており、人の行動は無意識によって左右されるという仮説に基づいた人間心理の理論と治療技法の体系です。主にヒステリーの原因や治療法に関する研究を続ける中で、精神分析は確立されていったのです。また、精神分析の他にも、文芸や社会心理学、人類学など多くの分野において活躍しました。

しかし、ユダヤ人であったジークムント・フロイトの晩年は、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害と共にあったのです。友人や弟子が国外へ亡命していく中で、当初は頑なに亡命を拒否していたジークムント・フロイトでしたが、最後にはウィーンを出る決意をしました。そして、末期ガンに侵されていたジークムント・フロイトは、第二次世界大戦が始まった1939年にその生涯を終えたのです。

心理学者アルフレッド・アドラー

アドラー心理学を創始したアルフレッド・アドラー

アルフレッド・アドラーとは、個人心理学とも呼ばれるアドラー心理学を創始した、オーストリア出身の心理学者です。1870年に、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン郊外に住んでいたユダヤ人中流家庭に生まれました。

アルフレッド・アドラーは、ユダヤ人の中下層階級が多く居住する地域で診療所を開きます。その後、ジークムント・フロイトの研究グループに招かれ、精神分析学にも触れました。しかし、ジークムント・フロイトとは意見が対立することも多く、1911年にジークムント・フロイトの研究グループと決別し、アドラー心理学を創始することになりました。

また、アルフレッド・アドラーは軍医として第一次世界大戦に従軍した後に、オーストリアの教育改革に努めます。彼が設立した児童相談所やウィーン教育研究所は国際的に高い評価を獲得。その名声は年々高まり、ヨーロッパやアメリカ合衆国において数多くの講演会が開催されたのです。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史上重要な出来事

アウスグライヒ

ハンガリー国王に即位するオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世

アウスグライヒとは、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する際に、オーストリア帝国において実施された妥協政策です。アウスグライヒは、日本語で「妥協」「和協」を意味しています。

オーストリア大公国、ハンガリー王国、ボヘミア王国は合わせてハプスブルク君主国と呼ばれており、中世の時代からオーストリア系ハプスブルク家が統治してきました。しかし、アウスグライヒによってこの領土をオーストリア帝冠領とハンガリー王冠領に2分し、それぞれに独自の政府を持たせた結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生したのです。

この妥協が成立した背景には、オーストリア帝国の威信が低下していたことがあります。多民族国家という特徴を持つオーストリア帝国内では、諸民族による自治・権利の獲得運動が活発に行われていました。その中で、対外戦争や外交政策の失敗が続いたオーストリア帝国は国際的な地位が下落してしまい、それに伴って連邦改革を求める諸民族の声が次第に大きくなっていたのです。

そこで、権利を失いたくないドイツ人支配層や、国の体制が大きく変化してしまうことを恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、諸民族の運動を抑える目的でハンガリー人と協力することを選びました。しかし、その一方で軍事・財政・外交の面においては、オーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねるフランツ・ヨーゼフ1世が直轄していたのです。

諸民族の自治獲得運動

アウスグライヒによってオーストリア=ハンガリー二重帝国は成立しましたが、その後も諸民族による自治・権利の獲得運動は続きます。

二重帝国においてそれぞれの自治体を構成する民族のうち、ドイツ人とハンガリー人はそれぞれの国内で過半数に満たない人口しか居住していませんでした。そのため、彼らは支配層としての地位を保つためにポーランド人やクロアチア人とさらなる妥協をしていくことになります。

その後、自治獲得の動きはさらに激化し、工業地帯を掌握するボヘミア人や、資本家や経営者、金融業者が多くいるユダヤ人などの発言力が増していきました。それに伴い、権威を保持したいドイツ人と新たな権利を得ようとする諸民族の対立は深まっていきます。しかし、ドイツ帝国やロシア帝国と隣接する地域で完全な独立をすることが困難であると自覚していた諸民族は、あくまで帝国内での自治権を望んで活動していたのです。

サラエヴォ事件

サラエヴォ事件を描いた新聞の挿絵

サラエヴォ事件とは、1914年にボスニアの州都サラエヴォを訪れていたオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻が、ボスニア系セルビア人のテロリストによって殺害された事件です。

1908年、オスマン帝国内で青年トルコ革命と呼ばれる政変が起こりました。オーストリア=ハンガリー二重帝国はオスマン帝国の混乱に乗じて、セルビア人を含む様々な民族が居住しているボスニア・ヘルツェゴビナを無理やり併合してしまいます。その後、2度にわたるバルカン戦争を経て、バルカン半島における民族間の対立はさらに深刻化していきました。

そして1914年、サラエヴォを訪問していたオーストリア大公フランツ・フェルディナンドと妻のゾフィーが、ボスニア出身のボスニア系セルビア人であるガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたのです。ガヴリロ・プリンツィプは、大セルビア主義を掲げるテロリスト「黒手組」が組織した暗殺者集団のメンバーでした。

皇太子夫妻を暗殺したガヴリロ・プリンツィプ

オーストリア軍部にとってサラエヴォ事件はセルビアを討つ丁度良い口実となりました。オーストリア政府はセルビア政府に対して最後通牒を突き付けますが、セルビア政府はこれを保留。そして、オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビアと開戦することになったのです。その後、この争いはヨーロッパ中へと波及し、第一次世界大戦へと発展してしまいます。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史年表

1867年 – 「オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立」

オーストリア=ハンガリー二重帝国の国旗

1867年、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねる同君連合として、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しました。中世の時代より西ヨーロッパに君臨していた神聖ローマ帝国が19世紀初頭に崩壊。そして、新たにオーストリア帝国が誕生しましたが、その後に発生したイタリア統一戦争や仏墺戦争で敗北し、外交においてもロシア帝国との関係が悪化するなど、オーストリア帝国の国際的な地位は下落していきます。

これを受けて、多民族国家であるオーストリア帝国内では、諸民族による自治や権利を獲得するための運動が活発化し始めました。その結果、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とのアウスグライヒによって、オーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させたのです。

1873年 – 「三帝同盟の成立」

1873年、オーストリア=ハンガリー二重帝国とドイツ帝国、ロシア帝国の3か国間において、三帝同盟が成立しました。この同盟は、ドイツ帝国の首相であるオットー・フォン・ビスマルクによって築かれたビスマルク体制の一端を担ったのです。

ドイツ帝国の首相オットー・フォン・ビスマルク

ビスマルク体制とは、フランスに対して包囲網を敷くことで孤立させることを目的としたドイツ帝国の外交政策です。ビスマルクの卓越した外交手腕によって維持されたこの体制は成功を収め、その治世の間はヨーロッパに平和が訪れることとなります。

皇帝の称号を持つ君主が治める三大国の同盟は、この体制の中で非常に重要な意味を持っていました。しかし、オーストリア=ハンガリー二重帝国とロシア帝国がバルカン半島を巡って対立した結果、三帝同盟はわずか数年で事実上の解消となってしまいます。

その後、1879年にドイツ帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国と独墺同盟を成立させますが、その影響を受けてドイツ帝国とロシア帝国の関係は悪化していくことになるのです。

1882年 – 「三国同盟の成立」

三国同盟(赤)

1882年に成立した三国同盟とは、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国、そしてイタリア王国の3か国によって築かれた秘密軍事同盟です。

この同盟もビスマルク体制の一環であり、フランスの包囲と孤立が目的にありました。また、ビスマルクはロシア帝国との関係も修復し、三帝同盟の復活を目指したのです。しかし、ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国間のバルカン問題も同時に再燃。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国の対立はさらに深刻化していったのです。

その後、ドイツ帝国を中心とした国々の動きを警戒したイギリスは、フランスとロシア帝国と共に三国協商を結成します。その結果、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、イタリア王国による三国同盟は、イギリス、フランス、ロシア帝国の三国協商に対抗するという意図が大きくなっていきました。

1912年 – 「2度にわたるバルカン戦争」

「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の民族構成地図

1912年、オーストリア=ハンガリー二重帝国が支援するオスマン帝国とバルカン同盟によるバルカン戦争が発生します。当時のバルカン半島は、その複雑な情勢から「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。

1878年にビスマルクの調停によって開かれたベルリン会議において、パン=ゲルマン主義を掲げていたオーストリア=ハンガリー二重帝国がボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得し、1908年に併合します。これに反発したのはパン=スラブ主義を掲げていたロシア帝国とスラブ系民族であるセルビアでした。

その後、ロシア帝国の支援のもとでスラブ系諸国が結集し、バルカン同盟を築きます。そして、オスマン帝国内で発生していた青年トルコ革命の混乱に乗じて、バルカン同盟は弱体化しつつあったオスマン帝国に宣戦布告。最終的にバルカン同盟の勝利に終わりますが、オスマン帝国から割譲した分割領土を巡ってバルカン同盟内で争いが発生し、第二次バルカン戦争に発展しました。

このような形でバルカン半島を舞台に起きた一連の騒動をバルカン問題と呼びます。バルカン半島内では内部の諸国だけでなく、その利権を争う帝国主義列強の対立関係が交差し、第二次バルカン戦争が終結した後も各国間に領土問題が残り続けたのです。

1914年 – 「第一次世界大戦勃発」

サラエヴォ事件の犯人ガヴリロ・プリンツィプが逮捕される瞬間の写真

1914年、サラエヴォ事件が発生したことをきっかけに、ヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦が勃発しました。

当時、オーストリア=ハンガリー二重帝国が併合したボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人が多く住んでおり、南部のセルビア王国への帰属を望む声が強くありました。また、イスラム教徒も多く国内に居住しており、彼らはオスマン帝国への帰属を望んでいたのです。様々な民族が入り乱れた結果、国内におけるオーストリア政府への反感は非常に高まっていました。

そして、サラエヴォ事件が発生します。オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビアと開戦。その間に同盟国であるドイツ帝国がロシア帝国に圧力をかけて動きを封じようとしましたが、結局ロシア帝国はセルビアの支援にまわり、オーストリア=ハンガリー二重帝国と開戦しました。その後、ドイツ帝国とロシア帝国が戦争状態に突入し、ロシア帝国と三国協商関係にあったイギリス、フランスも参戦します。

最終的に、第一次世界大戦はイタリアを除く三国同盟と三国協商による対立構造となりました。このようにして開始された第一次世界大戦では、かつてない総力戦が繰り広げられ、1918年の休戦協定まで続くことになります。

1918年 – 「オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊」

1918年、オーストリア=ハンガリー二重帝国が第一次世界大戦における敗戦国となることが決定的となった後、帝国内の諸民族が次々と独立を宣言した結果、ハプスブルク家が代々君臨し続けてきたオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊の時を迎えました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国が第一次世界大戦の停戦協定を結ぶ中で、チェコスロヴァキア共和国、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラヴィアが独立を宣言。これによってオーストリア=ハンガリー二重帝国は解体され、オーストリア=ハプスブルク家の最後の皇帝であるカール1世はスイスへ亡命し、長年続いたハプスブルク帝国は消滅しました。

その後、サン=ジェルマン条約によってドイツとの併合を禁止されたオーストリアは共和制国家として再出発しますが、戦後の飢餓と賠償に苦しむことになります。

オーストリア共和国の国章

オーストリア=ハンガリー二重帝国に関するまとめ

今回はオーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について解説しました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、ハプスブルク家の君主が統治した最後の帝国であり、第一次世界大戦後に解体されます。そして共和制国家として再スタートし、現在に至るのです。

この記事ではオーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について成立から崩壊まで紹介しましたが、前身である神聖ローマ帝国やオーストリア帝国の歴史について詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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