オーストリア=ハンガリー二重帝国の文化上重要な人物
作曲者アントニン・ドヴォルザーク
アントニン・ドヴォルザークは、オーストリア帝国の統治下にあったチェコで生まれ、青年期から死没までをオーストリア=ハンガリー二重帝国の時代に過ごした、後期ロマン派に属する作曲家です。
バッハやベートーヴェンと共に、ドイツ音楽における三大Bと呼ばれた作曲家のヨハネス・ブラームスによって才能を見出されたアントニン・ドヴォルザークは、「スラヴ舞曲集」で人気を獲得します。その後、音楽教育に貢献しながらネイティブアメリカンの音楽や黒人霊歌の研究を重ね、自身の音楽を追及していきました。その結果、チェコ国民楽派を代表する作曲家となったのです。
また、アントニン・ドヴォルザークは9度に渡るイギリス訪問の経験がある他、アメリカで過ごしていた時期もあり、チェコ音楽史だけでなくアメリカ音楽史にも影響を与えました。日本では交響曲第9番第2楽章に日本語の歌詞が付けられて唱歌「家路」として親しまれているなど、世界的に有名な音楽家であると言えます。
精神分析学者ジークムント・フロイト
ジークムント・フロイトは、1856年にオーストリア帝国のモラヴィア辺境伯国のフライベルクで誕生しました。神経病理学者を経た後に、ウィーンで精神科医となったジークムント・フロイトは、精神分析学の創始者として知られています。
ジークムント・フロイトが創始した精神分析とは、人間には無意識の過程が存在しており、人の行動は無意識によって左右されるという仮説に基づいた人間心理の理論と治療技法の体系です。主にヒステリーの原因や治療法に関する研究を続ける中で、精神分析は確立されていったのです。また、精神分析の他にも、文芸や社会心理学、人類学など多くの分野において活躍しました。
しかし、ユダヤ人であったジークムント・フロイトの晩年は、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害と共にあったのです。友人や弟子が国外へ亡命していく中で、当初は頑なに亡命を拒否していたジークムント・フロイトでしたが、最後にはウィーンを出る決意をしました。そして、末期ガンに侵されていたジークムント・フロイトは、第二次世界大戦が始まった1939年にその生涯を終えたのです。
心理学者アルフレッド・アドラー
アルフレッド・アドラーとは、個人心理学とも呼ばれるアドラー心理学を創始した、オーストリア出身の心理学者です。1870年に、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン郊外に住んでいたユダヤ人中流家庭に生まれました。
アルフレッド・アドラーは、ユダヤ人の中下層階級が多く居住する地域で診療所を開きます。その後、ジークムント・フロイトの研究グループに招かれ、精神分析学にも触れました。しかし、ジークムント・フロイトとは意見が対立することも多く、1911年にジークムント・フロイトの研究グループと決別し、アドラー心理学を創始することになりました。
また、アルフレッド・アドラーは軍医として第一次世界大戦に従軍した後に、オーストリアの教育改革に努めます。彼が設立した児童相談所やウィーン教育研究所は国際的に高い評価を獲得。その名声は年々高まり、ヨーロッパやアメリカ合衆国において数多くの講演会が開催されたのです。
オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史上重要な出来事
アウスグライヒ
アウスグライヒとは、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する際に、オーストリア帝国において実施された妥協政策です。アウスグライヒは、日本語で「妥協」「和協」を意味しています。
オーストリア大公国、ハンガリー王国、ボヘミア王国は合わせてハプスブルク君主国と呼ばれており、中世の時代からオーストリア系ハプスブルク家が統治してきました。しかし、アウスグライヒによってこの領土をオーストリア帝冠領とハンガリー王冠領に2分し、それぞれに独自の政府を持たせた結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生したのです。
この妥協が成立した背景には、オーストリア帝国の威信が低下していたことがあります。多民族国家という特徴を持つオーストリア帝国内では、諸民族による自治・権利の獲得運動が活発に行われていました。その中で、対外戦争や外交政策の失敗が続いたオーストリア帝国は国際的な地位が下落してしまい、それに伴って連邦改革を求める諸民族の声が次第に大きくなっていたのです。
そこで、権利を失いたくないドイツ人支配層や、国の体制が大きく変化してしまうことを恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、諸民族の運動を抑える目的でハンガリー人と協力することを選びました。しかし、その一方で軍事・財政・外交の面においては、オーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねるフランツ・ヨーゼフ1世が直轄していたのです。
諸民族の自治獲得運動
アウスグライヒによってオーストリア=ハンガリー二重帝国は成立しましたが、その後も諸民族による自治・権利の獲得運動は続きます。
二重帝国においてそれぞれの自治体を構成する民族のうち、ドイツ人とハンガリー人はそれぞれの国内で過半数に満たない人口しか居住していませんでした。そのため、彼らは支配層としての地位を保つためにポーランド人やクロアチア人とさらなる妥協をしていくことになります。
その後、自治獲得の動きはさらに激化し、工業地帯を掌握するボヘミア人や、資本家や経営者、金融業者が多くいるユダヤ人などの発言力が増していきました。それに伴い、権威を保持したいドイツ人と新たな権利を得ようとする諸民族の対立は深まっていきます。しかし、ドイツ帝国やロシア帝国と隣接する地域で完全な独立をすることが困難であると自覚していた諸民族は、あくまで帝国内での自治権を望んで活動していたのです。
サラエヴォ事件
サラエヴォ事件とは、1914年にボスニアの州都サラエヴォを訪れていたオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻が、ボスニア系セルビア人のテロリストによって殺害された事件です。
1908年、オスマン帝国内で青年トルコ革命と呼ばれる政変が起こりました。オーストリア=ハンガリー二重帝国はオスマン帝国の混乱に乗じて、セルビア人を含む様々な民族が居住しているボスニア・ヘルツェゴビナを無理やり併合してしまいます。その後、2度にわたるバルカン戦争を経て、バルカン半島における民族間の対立はさらに深刻化していきました。
そして1914年、サラエヴォを訪問していたオーストリア大公フランツ・フェルディナンドと妻のゾフィーが、ボスニア出身のボスニア系セルビア人であるガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたのです。ガヴリロ・プリンツィプは、大セルビア主義を掲げるテロリスト「黒手組」が組織した暗殺者集団のメンバーでした。
オーストリア軍部にとってサラエヴォ事件はセルビアを討つ丁度良い口実となりました。オーストリア政府はセルビア政府に対して最後通牒を突き付けますが、セルビア政府はこれを保留。そして、オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビアと開戦することになったのです。その後、この争いはヨーロッパ中へと波及し、第一次世界大戦へと発展してしまいます。